⑨
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大司教は聖院大評定の場においてもっとも上座に座っていた。
大きな式典でもなければ滅多にお目にかかる機会もない人物だ。正確な年齢は分からないが、コルテア卿よりも遥かに高齢であるだろう。
大司教のみが着ることを許される深緑の法衣をまとった姿は向き合うものに畏敬の念を抱かせる。
まるで古樹皮のように深い皺が刻まれた顔、長く伸びた真っ白な髭。
その姿は大樹を思わせた。
長き年月を生き、神意を宿した木のように、ただそこにあるだけで人の心を鎮める。
風雨の日には皆を守る天蓋となり、灼熱の日には皆が安らぐ木陰となる。
惜しみなく伸ばされた枝葉に小鳥たちが集い、神の名をたたえる歌を口ずさむ。
信仰が心のよりどころであることを、今一度思い起こさせてくれるような、慈愛に満ちた穏やかな瞳。
「ロベルト・ロストバラン、久しいな。おぬしの娘がこんなに立派に成長していたとは驚きだ」
「……恐縮です」
流石のロベルトも大司教相手には深々と頭を下げた。
「ミディア・ロストバランと言ったか? 今は何歳になる?」
声をかけられるとは思わなかったミディアは「ひえ」っと小さく悲鳴をあげて飛び上がった。
「だ、だ、だ、大司教様にご挨拶申し上げます。おおおお、おそれながら、じゅ、13に、なりました、……」
慌ててカーテシーをとった後に、果たして大司教相手への挨拶もこれで正しいのだろうかと考えた。教会における最上位の挨拶について勉強していなかった事が悔やまれる。
幸いにも大司教は穏やかな顔で笑みをかえした。
「そうか、13か。私がそなたくらいの年頃のときはただの洟垂れ小僧だった。立派なものだ。
そこにいるロベルト・ロストバランはちょうどおぬしと同じくらいの年齢のころに聖騎士団と大げんかをしてな。
……いやはや、あれを治めるのには苦労させられた」
お父様は一体何をしているのか。
チラっと顔を盗み見ると、ロベルトは眉間に深くしわを刻んでいた。
「──さて、先ほどの提案に関して話をしよう。教会は長らく矛盾を抱えていた。
おぬしの言う通り、魔瘴を封印してきた存在を、表舞台に出さぬようにふるまってきた。
それは保身のためならず、封印を守るために必要な行為であった事は心に留め置いてくれるかね?」
「ももも、もちろん、ですッ」
ミディアが頷くと大司教は目じりの深い皺を緩ませ微笑んだ。
「矛盾というものは、年月を経るにつれてどんどんと膨らんでいくものだ。
やがてその名は禁忌となり、それゆえに異教徒たちが神とあがめる存在となった。
その歪みが、ますます矛盾を膨らませた」
大司教の声は大評定の場にゆっくりと染みわたっていく。
まるで雪解けを告げる春のはじめの雨のように穏やかで優しい声色だ。
「だが司教たちの言う通り、教義とは心の支え。
その根底が揺らいでしまえば、人々の心も支えを失う。これもまた大きな矛盾となった」
その言葉に幾人かの司教が目を伏せ、あるいは頭を垂れた。
「魔術師の若枝よ──未だ若く、しなやかながらも、やがて力強く育つ存在よ。
我らも悩みを抱えていた。魔瘴が現れたと聞くたびに、胸が痛むのを感じていた。
いつか正さねばならぬ。だがそれは人々の安寧を裏切ることになるのではないか。
そのことを幾度となく思い悩み、心に深く食い込む棘のように常に胸を痛めていた」
「はい、……」
先ほどまで憤っていた司教たちも俯いて唇を噛んでいる。
彼らとて魔瘴で人々が犠牲となることを、時として聖女が命を散らすことを目の当たりにして何も思わなかった訳ではないのだろう。
「……ここに集まってくれた者たちよ。今こそが潮時なのだろう。私はそれを嬉しく思う」
誰かが息を飲み、声とも呻きとも判断がつかないざわめきが広がる。
「理想論、確かにそうなのであろう。だが私たちとて、理想のために尽くしてきた。
唯一神ロタティアンの教義とは、理想的な世界を目指すものだった。そのためにはこの命など惜しいものかと思ってきた」
皺だらけの手が強く握られる。
その手は神の名の重みと、積み重ねて来た年月とで震えていた。
「だからこそ私は今こそこの命をかけようと思っている。
我らに降り注ぐであろう数多の非難を受け止めよう。その潮の変わり目に居合わせたことを心より誇りに思おう。
幾年月の後、我らがなした行いがより良い世界を作るならば、それこそこの老い先短い命を捧げるに相応しい。
皆の者にも苦労をかけることになるだろう。
だが、どうかこの老いぼれとともに、今一度、理想を目指してはくれぬだろうか?」
会場が沈黙に包まれた。
衣擦れの音やかすかな呼吸音すら耳に届くほどの静けさだ。
やがて、司教の一人が口を開いた。
「大司教様、あなた様にそこまでの覚悟があるのでしたら、私に異議はございません。
……されど、リトルローデンの教皇様はお許しになられるでしょうか」
「それに関してはご提案があります」
再び口を開いたのはロベルトだった。
「大司教様がご決断をなされるのであれば、魔塔は協力を惜しみません。
その上で、今すぐにでも全ての事実をつまびらかにする事が最良であるとは思っておりません。
ゾデルフィアの存在が公になる事で、闇の精霊魔法の研究が活発化する事は魔塔としても憂慮すべき事態と言えるでしょう。
それにより魔瘴の出現頻度があがってしまっては元も子もありません」
「ふむ」と大司教は頷いた。
「では、どのように考えている?」と続けて問う。
「公表すべき部分と、秘すべき問題に関して、教会、魔塔、そして秘術機関を交えて協議すべきであると考えます。
矛盾の解決は命題ではありましょう。しかし、混乱を招くことが本意である訳ではありません。
我が娘、ミディアが訴えているのは、魔瘴の封印を最優先としており、そのためにも教会内部での混乱は悪影響であると言えるでしょう」
こくりっとミディアは頷いた。
ゾデルフィアの存在は教会と話し合うにおいて避けて通れない問題であるから取り上げた。
しかしミディアとしても今すぐにその存在を明らかにする事を望んではいない。
審聖官たちが黙っていると、コルテア卿が立ち上がった。
「魔塔、教会、そして秘術機関が手を取り合った。それはかけがえのない大きな一歩となるでしょう。
まずは魔瘴を封じるために一歩を進む。
そこから先も手を取り合い、協議を重ね、互いにとってより良い改革を目指していく。
──何とも心躍る話ではありませんか」
張り詰めた沈黙の中、一人の審聖官がゆっくりと立ち上がった。
その動作は、音もなく、慎ましく、それでいて確かな意志を感じさせた。
そして静かに、両の手を打ち合わせる。
最初の一拍は、ほとんど誰の耳にも届かなかったかもしれない。
けれど、それは湖面に投げられた小石のように、波紋のごとく場に広がっていった。
やがて、また一人、そしてもう一人と審聖官たちが立ち上がり、賛意の拍手を送る。
それは声にならない言葉のように、評定の間に降り積もっていった。
苦い表情を浮かべていた司教たちも、肩を落とすように息を吐き出し、渋々ながらも首を縦に振った。
理屈ではなく、空気の流れが、場のすべてを変えていた。
その空気の中で、大司教がそっと片手を上げる。
まるで舞台の幕を下ろすように、厳かに、穏やかに。
すると、拍手の波は徐々に静まり、最後には暖かな余韻だけが空間に残された。
「皆の者に心より感謝しよう。
これで、この国を魔瘴の脅威から守ることが出来るであろう。
だが、闇の精霊の名を出さずとも、こたびの件は大きな波紋をよぶだろう。
皆には苦労をかける事になってしまうが、どうかこの国の安寧を願って耐えて欲しい」
大司教の言葉に、大多数の審聖官が頷いた。
だがごく一部は静かに席を立ち、言葉ひとつ発することなく大評定の会場から去っていった。
彼らはそのまま王国を去り、リトルローデンへ向かうことだろう。
全ての者から同意を得ることが出来ないのは、仕方のないことなのだ。
それでも、ラシャド王国においては、魔瘴の封印のために魔法式を用いることが認められた。
ミディアにとって、それは想像した中で最良の成果だった。
安堵の息をこぼしたミディアは、相変わらず眉間に皺を刻んだロベルトと目が合いヒュっと息を飲み込んだ。
「……ミディア、お前とは話しあうべきことがあるようだ」
「は、……は、はい、……」
地を這うようなロベルトの声に、ミディアは完全に萎縮したまま頷いた。
***
「お前が聖院大評定に出るという話はエセルリード家の子せがれから聞いた」
「は、はい」
控室に戻ったミディアは小さな体をさらに小さく縮こまらせていた。
エセルリード家の子せがれとはジュードのことだろう。ミディアの危機を察して父に知らせてくれたらしい。
モレアンキントは王族専用の控室にいるためこの場にはいない。恐らく彼女は大評定の場に呼ばれて、大聖女に任命されている事だろう。
「なぜ私に話さなかった」
「え、ええと、その、あの……」
「止められると思ったからか?」
「は、はい」
「まぁそうだろうな。お前が大評定に出ると言ったら止めただろうな。だが、私を説得するだけの材料があったならば、それを聞き入れないほど狭量ではない」
「そそそ、そうなんですか?」
言ってから「しまった」と思うがもう遅い。
ロベルトは不機嫌全開の顔になる。だがしばし押し黙った後に、盛大に溜息を吐き出した。
「──私の、努力不足だったか?」
「え?」
「私はお前にとって信用に足る父親にはなれていなかったか?」
「ち、違います、あの、ええと、ああでも、ええと、信用というのが何に対してかで、違わないかも知れないけど」
「……まったく、お前は私に似て余計な部分で素直だな」
「えええ~~~~?」
戸惑うミディアにロベルトはますます深い息を吐く。
「確かに私には魔塔の筆頭魔術師としての立場がある。だがそれはお前の父親である事よりも重いものではない」
「で、でも、その、私が無茶をしようと思ったら止めますよね?」
「当たり前だ。だが無茶でないと判断すれば協力を惜しむまい」
「そ、その、あの、わ、私が相談しなかったのは、父上が、その、わ、私を切り捨てるだろうとか、そう思っていた訳ではなく、ただ、仮にも親子である故に、判断に苦しむ事があるのではないか、とか、ええと」
「後になって知れば苦しまないとでも思ったか? 全て取返しがつかなくなった後ならば後悔の余地もないと?」
「いえ、そんな、あの……ご、……ごめん、なさい」
ミディアが頭を下げると、ロベルトは苛立たし気に声をあげた。
「そうではない。私は、……怒っている訳ではない。強いて言うならば、自分の不甲斐なさに苛立っている」
「ええと、その、ええと、……」
どうすればいいのだろうか。
ミディアはひたすらに戸惑った。父に何と言葉をかければいいのだろう。
分からない。分からない。
でもその時、ふいに声が聞こえた気がしたのだ。
もしディアドラがここにいたらきっとこんな風に言うだろう。
──素直になって、子猫ちゃん、と。
「ああああああ、あの、ち、父上、……」
ミディアは震える手を胸元に添えた。心臓の鼓動が、耳の奥で鳴り響いている。
けれど、逃げない。怖くても、この気持ちは本物だから。
勇気を振り絞り、一歩踏み出した。
そして、迷うことなく父の胸に飛び込んだ。
──こんなことをしたのは初めてだった。
思い返せば、父に触れた記憶はほとんどない。
唯一覚えているのは、幼い日のあの手の温もり。
魔塔を訪れた初日、迷わぬようにと差し伸べられた、大きな手。
けれどそれも、すぐに遠い存在になってしまった。
「た、助けに来てくれて、ありがとう、ございました。わ、私、す、凄く、嬉しかった、です」
小さな声が、震えながらロベルトの胸に染み込んでいく。
ロベルトは一瞬、戸惑ったように固まった。
だが、次の瞬間には両手を差し出し、しっかりとミディアを抱きとめていた。
その腕は、思ったよりもあたたかかった。
堅く、頼もしく、そして何よりも優しかった。
彼の手が、ゆっくりと背中を撫でる。
まるで赤子をあやすように。
そのリズムが、ミディアの張りつめた心をほどいていく。
抱きしめられたまま、ミディアは静かに、深く息を吐いた。
ロベルトはミディアの頭を撫でて、笑みに緩んだ唇を開く。
「……ああ、ミディア。よくやった。お前の活躍、父として誇らしく思う」
「は、はい、……!」
ぎゅうぎゅうとしがみつくミディアに、ロベルトは滅多に見せない穏やかな笑みを浮かべている。
魔塔の魔術師たちが目撃したら、明日は槍でも降るのではないかと噂になったほどだろう。
その少しあと、──。
極度の緊張と疲労から、抱きついていたミディアはふいに糸が切れたように力が抜ける。
とっくに限界を超えていたミディアはそのまま意識を失った。
突然のことにロベルトはまるで雷に打たれたように目を見開き、明らかに動揺した。
「ミディア? ミディア! ……おい、誰か、医師を──いや、いや待て、まず水だ、水を──」
普段の冷静沈着な面影はどこへやら。
魔塔の筆頭魔術師は、娘を抱きかかえたまま混乱魔法を受けたかのようにうろたえる。
そのまま残る手続きをコルテア卿に押し付けると、わき目もふらずにミディアを抱えて屋敷へと戻ったという。
まるで試験に遅刻した魔術師のような勢いで、長衣をはためかせて駆けていく。
その姿を目撃した審聖官は、つい先ほどまでの傲岸不遜な態度はどこにいったのかと目を白黒させたほどだった。
──こうしてミディアは、久しぶりに家族の元へ戻ることとなった。
けれどそれは、ほんのわずかな静寂にすぎなかった。
嵐の前の、束の間の休息に過ぎなかったのだ。
選んだ道の先に、待っているのは希望か、破滅か。
巨大魔瘴を封ずる術を得た今、ミディアたちは決戦の地へと歩を進める。
向かう先はコンコルド前哨基地。
封印の儀が始まるその時、地を揺るがす咆哮が轟いた。
闇が、世界を呑み込もうとしている。
次回、最終章――『滅境終焉 コンコルド前哨基地』




