③
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襲撃は夜明け前──空はまだ紺青に沈み、東の地平だけがわずかに白み始めていた。
薄暗い森には濃い霧がたちこめており、空気は湿り気を帯び肌寒い。
鼻孔にとどくのは湿った土と木の匂いだ。
草は朝露に濡れ、鳥はまだ眠っている時間だった。
だというのに、森は濃厚な気配に満ちている。
霧の向こうに何かが息をひそめて待ち構えているような、そんな息遣いを感じるのだ。
昨夜は軍議を終えたあとも、装備の点検、村の防衛や食料の手配などやるべきことは山積みだった。
ミディアも睡眠魔法の術式を何度も見直したり、数日間の野宿に備え準備を整えたりと忙しかった。
結果、作業は深夜までもつれ込んだが、アレクシアは相変わらず威厳に満ちた顔つきだ。
「──これより我が隊は村民救出にむけ出陣する」
凛として響く声を、騎士達はまるで石像のごとく整列し聞き入っていた。
トトリノ村の者たちも多くが出陣を見送りにやってきた。
まだ幼い子供ですら、じっとアレクシアの声に聞き入っている。
瞳に憎しみを宿した若い男は、大切な人を山賊に奪われたか、あるいは殺されたのだろう。
身を震わせながら手を合わせ、老婆はただただ、祈りにすがっていた。
緊迫した空気の中、ミディアと言えば、ほとんど眠気まなこだった。
眠すぎて体がゆらゆらと右に左に揺れている。
引き籠りがちだったミディアには数日の行軍だけでも十分に疲れ切っている。
そこに来て夜遅くまでの作業が祟っており、その場に倒れこんで眠ってしまいたい気持ちでいっぱいだ。
眠い。
体が重い。
しかもこの先は山道になるため、馬は降りていくのだと聞いている。
想像しただけでも辛いを通りこしてなんだか悲しくなってくる。
「先に伝えた通り、ゴブリンの根城には、ミディア嬢の睡眠魔法を展開する。
諸君らの任務は山賊の鎮圧および村民の救出である。
なお、薪の運搬については、トトリノ村の有志が協力を申し出てくれている。
運搬は村民に任せ、我らはその護衛につく」
アレクシアの声を聞きながら、眠気で倒れそうになる。
騎士団所属でなくてよかった。
もし自分も騎士団の一員だったなら、ふらふらしているだけで怒声が飛んできたに違いない。
「魔法発動を待つ時間にも、ゴブリンの一部が村に降りてくる可能性がある。
だが安心して欲しい。ゴブリンがこの村に足を踏み入れることはない。
その姿を見せたが最後、アレクシア・ゴッドウィンの拳が奴らを粉砕してくれよう!」
ん?
……今、拳って言った?
なんか文脈おかしくない?
眠気が吹っ飛んで、脳が一気に覚醒する。
「隊長! 我らもアレクシア隊の名誉にかけ、拳でゴブリンどもを粉砕いたします!」
ひとりの騎士が高々と拳を掲げた途端、「我も拳で!」「拳こそ正義!」と周囲も続く。
いや、待って。なして拳。
君ら騎士じゃん?
剣使おう?
びっくりして周囲を見回すが、どうやら突っ込み不在のようだ。
嘘でしょ? と目をまん丸にしていれば、耳元に「ふふふ」っとセクシーな声を吹き込まれる。
「びっくりするわよねぇ。でもアレクシア様なら本当に拳で片付けてしまうんだもの」
ばっと声のする方へ顔を向けると、そこには獣人の斥候が立っていた。
相変わらずのいい女ムードにミディアは思わず警戒して距離をとる。
「あら、悲しいわ。ミディア嬢は私のことがお嫌いかしら?」
「い、いえ、ち、ち、ち、ちがいます……!」
ぶんぶんぶんっと首を振ると、獣人はあでやかに口角を持ち上げる。
「良かったわ、私、貴女に嫌われていたら悲しいもの」
ああ、絶対分かってた。この人は嫌われてないって分かってて敢えて聞いたのだ。
そして、ミディアの口から否定させれば、接近を断る理由も消え失せる。
案の定、斥候さんはするりっと体を寄せてきた。
柔らかな肌と、ふわっと漂ういい匂い。
……いや、斥候の仕事って匂いを消すことでは?
それなのに、なぜか凄まじくいい匂いがする。これが、世に聞く『いい女フェロモン』というものか?
そのフェロモンがなぜか全力でミディアに向かって放たれる。
「ああああ、ううう、ご、後生です、おゆるしくだしゃい」
「でもね、私はあなたともっと知り合いたいのよ。もっと深~くね」
「はうぅううう」
多分これは、獲物を見つけた猛獣がコロコロと転がして遊んでいる感覚に違いない。
引き籠り魔術師のミディアには、フェロモン全開の獣人美女には逆立ちしたって敵わないのだ。
「にゃ、にゃにかっ、わ、わたしに……ご用でしょ、しょうかっ……?」
「挨拶に来たのよ、子猫ちゃん」
「こ、こねこ……ちゃん!? わ、わたしが!?」
「そうよ。あなたにぴったりでしょ? 私はね、貴女の護衛役を命じられたの。だからちゃんとお話がしたかったの」
「わ、わ、わたしの、ごえい!?!????」
「ええ。子猫ちゃんの任務はゴブリンに見つからないように魔法を完成させること。隠れてイケナイ事をするのは私の十八番だもの」
「ひ、ひえ……」
「お姉さんと一緒に、隠れてイケナイ事しましょうね?」
「はひ」
ミディアは息も絶え絶えだった。
さっきまでの頼れる大人の女性はどこへやら。
今ここにいるのは、間違いなく“悪いお姉さん”である。
なぜだ。なんでこんなに違うんだ。
私か?
私が舐められてるからか?
そう思っても、反論できる余裕はない。ミディアはすでに涙目だ。
「よ、よろしく、おねがい……しま、しゅ……」
それだけを言うので精一杯だった。
***
悪いお姉さん、もとい斥候さんのお名前はディアドラというらしい。
虎の獣人で、なるほど猫の獣人よりも耳は分厚く、尻尾もずっしりと太い。
肌は黒に近い褐色で、反して髪は色素が抜けたような銀白色。見た目のコントラストが印象的だ。
獣人とひと口に言っても、その“ケモっぽさ”は人それぞれだ。
完全に動物そのまんまなタイプもいれば、耳と尻尾だけチョロッとついてる、ほぼ人間なタイプもいる。
魔塔の研究者たちはこの獣っぽさの指標を『ケモ度』と呼んでいるらしい。なんか妙に楽しそうな名前だが、正式な研究用語だ。
この“ケモ度”、耳と尻尾だけの獣人は、おおよそ『ケモ度20』とされている。
「ディアドラさんのケモ度指数も20、いや、……」
ミディアは目を細め、斜め下に視線を滑らせた。
……よく見てみれば、ディアドラの下半身はほぼ虎に近かった。
まず、膝が逆関節になっている。人とは逆向きに関節が曲がるのだ。ズボンに覆われていて詳細は見えないが、太腿あたりから虎の足に変わっていると思われる。
そして足元は完全に虎。肉球もあれば、爪もある。
「これは……ケモ度指数50超え!? 本気ケモだ。魔塔の研究者が泣いて喜ぶレベルの本気ケモだ……!」
さらによくよく見てみれば、ブーツも履いていなかった。
そんなもの、必要ないのだろう。なにせズボンから、ふさふさの野生の足が生えている。
──この足が、斥候にはとても向いている。
険しい山道も軽やかに駆け上がり、足音はほとんど聞こえない。加えて獣の耳までついている。
……などと分析している間にも、ミディアはしっかりとディアドラにおんぶされていた。
いや、まぁ、仕方ないような気もする。
こんな山の中を、鍛え抜かれた騎士団員と同じペースで歩くのは、端から無理な話だ。
しかも今は夜明け前で、森の中はまだ真っ暗。
ランタンを持っていても、足元の根や石に引っかかって転ぶ未来しか見えない。
馬で行けないと聞いた時には絶望した。だが、なぜその結果がこうなったのか。
それにしても、ディアドラがパワフルすぎる。
ミディアを背負っているのに、まったく息も乱れず、涼しい顔で山道を登っていく。まるで散歩でもしているかのように。
「は、これはもしや、母猫にくわえられて運ばれてる子猫の図では……?」
あれこれと思いを馳せている間に、いつの間にか目的地が辿り着いたようだった。
ミディアはディアドラの背中から騎士たちの様子をうかがった。
先頭のアレクシアが静かに足を止め、周囲の騎士たちもすっと木立に身をひそめる。
重い鎧ではなく、今日は全員が皮鎧だ。音を立てずに動くための、奇襲用の装備――どうやら、本当に“戦い”が始まるらしい。
「見張りがいるな。一人だが音をたてずに始末するには厄介な場所だ」
ディアドラにおぶわれたままアレクシアに近づくと、ひそひそと話している声が聞こえてきた。
なるほど、洞窟の入口付近に見張りが一人立っている。幸い今は騎士団が隠れている木立には背を向けているものの、気づかれれば面倒なことになりかねない。
一応、騎士たちは木立に身をひそめているが、完全に姿を消すのは無理だろう。
森に慣れた者ならば、影の揺れで気づいてしまうかもしれない。
「仕方ない。私が村娘を装って奴の気を引こう」
「それは、その、かなり無理があるのでは?」
副隊長が気まずそうに口ごもる。
うんうん、私もそう思うよとミディアは小さくうなずいた。
アレクシアはどう見たって村娘には見えなかった。
顔が完璧すぎるのは勿論のこと、常人じゃないオーラが半端ない。
騎士団の中にも女性騎士はいるものの、彼女らも覚悟の決まりきった顔をしており、やはり村娘には見えなかった。
ディアドラは男を騙すのは得意そうだが、あからさまに罠っぽく見えそうだ。
「……――ふむ、そうか。ならば仕方ない」
くるりっとふり返るアレクシアに、ミディアは何かを悟ってしまう。
「いやなんかそれ、全然仕方なくない気がしますね?」
そんなやりとりをしている最中だった。
ふいに見張りの男が振り返る。そうして、木立に潜む騎士団に気が付くと、大きく瞳を見開いた。
刹那、ディアドラが投げナイフを構える──が、それよりも見張りの動きが早かった。
すばやく武器を放り投げ、流れるような動作でその場に滑り込むように土下座する。
……なんだ、今の。ミディアはぽかんと口を開く。
あまりの素早さにアレクシアさえ眉尻を持ち上げたほどだった。
「王国直属の騎士団の皆々様と存じ上げますっ!」
土下座した見張りは、その姿勢のまま適切な音量で語りかけるというなかなかの離れ業をやってのける。
「……どういう了見かは聞いてやろう」
アレクシアが声を投げると、見張りはますます平伏した。
「へへっ、ありがてぇ……ありがてぇ! いや実は、あっし、こんな山賊まがいの真似なんぞ心底嫌でして。元はただの旅の商人崩れで、刀なんぞ振ったこともなかったんでさァ」
「それで?」
「そ、それが洞窟の中じゃ、若い娘さんたちが何人も捕まってて……あっし、正直見るのも辛くて。でも、口出しゃ袋叩きですし、情けねぇ話ですが、怖くて逃げ出すこともできなくて……」
「ほう」
アレクシアは淡々と相槌を打つが、視線は鋭いままだ。
「けど今日こうして騎士様方がお出ましくださった……こりゃもう、ロタティアン様のお導きってもんでさァ! どうかどうか、あの子たちを助けてやってくだせぇ!」
どこまでが本音かは分からない。だが命乞いの演技としては、そこそこ上出来だった。
「……ふむ。要するに、貴様はこれ以上邪魔立てはしない、と」
「しません、絶対にしませんとも! むしろ案内でもなんでもします、あっしの命なんざ投げ出したって構いません!」
アレクシアは静かに頷くと、速やかに騎士たちに指示を出す。
その間も見張りはずっと平伏したままだった。本当に味方を裏切るつもりらしい。
ミディアがじっと見つめている間に、騎士団が一気に動き出す。
「では作戦を開始する。踏み込めッ!」