断章真告 聖院大評定
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『助けて、助けて……この国を、民を、……どうか……──!』
──声がした。
切実な叫び。だが、それは祈りではない。
それは渇望だ。
絶望の底でなお、すがろうとする希望への、爪を立てるような渇望。
私は、その声を聞いた。
伸ばされた手に触れる。
そして次の瞬間、手は思いのほか強く、私の身体を引き寄せた。
水底から急浮上するような、重力を失った浮遊感。
視界がひらける。
そこにあったのは──“終焉”だった。
赤黒く濁った空を、無数のモンスターが飛び交っている。
不気味な鳴き声が混じり合い、空そのものが呻いているようだった。
美しかったはずの王都は見る影もない。
街並みは崩れ、瓦礫と化し、煙と灰にまみれていた。
人々の叫び。
祈りの声。
泣き喚く声。
母を求めて泣く子どもにすら、誰ひとり手を差し伸べようとはしない。
やがて、大地が呻く。
地響きの果てに現れたのは、一つ目の巨人。
何体も連なり、王都の残骸を粉々に踏み潰していく。
──だが、それすら序章に過ぎなかった。
誰が想像しただろうか。
真の絶望は、その“後”に現れることを。
空が裂ける。
裂け目から滴るように、赤き肉塊が落ちてくる。
それは、終わりだった。
すべての、終わりだった。
***
ミディアは悲鳴をあげて跳ね起きた。
悪夢という濁流から引きずり上げられた身体は、汗でぐっしょりと濡れている。
喉が焼けるように熱く、荒く息を吐くたびに胸が痛んだ。
──あれは……“未来視”で見た光景だ。
あのとき垣間見た滅びの予兆が、より鮮明に、そしてさらにその“先”までも見えてしまった。
耳にはいまだ、悲鳴が焼きついている。
街の崩壊。
空気を焦がす炎の臭い、そして鼻腔を貫く腐敗臭。
夜明け前の室内は薄暗く、冷え切っていた。その冷気が汗で濡れた体を冷やしていく。
寒い。
だがミディアはベッドから体を起こすと、窓辺に向かって歩いていく。
窓をあければ、外に広がるのはまだ寝静まった街並みと、群青に沈んだ海だった。
海風には腐敗臭が混ざっているのが感じられる。
まだ空は暗いが、それでも南方の雲が赤黒く染まっているのははっきりと分かる。
ここはサムタ・デラ。
王都から西へ五日、海路ではエストリアから北上して到達する港町だ。
ラシャド王国内において、海の玄関口として栄えてきたのは、この街と、かつてのエストリアだ。
魔瘴を逃れた船団が辿り着くのも、必然この地となる。
奇しくもこの街は、神殿騎士フレイに“ゾデルフィア”の調査を依頼したコルテア卿が治める土地でもある。
その縁によって、伯爵令嬢であり、魔塔の筆頭魔術師ロベルトの娘でもあるミディアは、コルテア家の屋敷に迎え入れられていた。
アレクシアは街についてすぐにゴッドウィン家の騎士たちと合流した。
彼女の傷は思いのほか悪く、船旅の間もずっと床についていた。
しばしは療養のために休息をとることになるだろう。
リリアナとアキサメはエストリアからの難民たちの支援に奔走している。
ミディアも手伝いを申し出たが、『あなたには他にやるべき事があるはずだ』と諭された。
本当はすぐにでも王都に帰還したかった。
だが魔瘴の影響で、エストリアを含む多くの住民が避難しており、王都周辺は大混乱に陥っていた。
城下に入るには許可書が必要だが、逃げる途中で紛失した者も多く、門前には群衆が殺到している。
「非常時なのだから、許可書がなくても入れるべきだ」と声を荒げる者もいて、暴動寸前の状況だという。
ミディアはロストバラン家の令嬢として許可書を所持していたが、これだけの混乱の中では通過も難しい。
正直なところ、審聖官であるコルテア卿とは関わり合いになりたくないというのが本音だった。
しかしせっかくの誘いを断っては家同士の関係を悪化させてしまう可能性もあるだろう。
幸いな事といえば、ジュードからの報告は伝書魔法という、門の魔法を応用した魔法によって受け取ることが出来ていた。
今のミディアに出来ることは、報告書を読みとき、いかにして事態解決につなげるか。
その一手を何としてでも探し出してみせることだろう。
「でも……なんで、こんなに早く……」
未来視で見たはずの絶望が、現実になってしまった。
巨大魔瘴が生まれ、無数のモンスターがエストリア周辺の村々を襲っている。
王都へと群れが迫るのも、もはや時間の問題だ。
──魔瘴の出現は予見していた。
分かっていたのに、防げなかった。
それだけではない。現れたのは、未来視よりもはるかに早い。
どこで狂ったのだろう。
何を踏み違えた?
未来を変えようと、できる限りの努力はした。
だが、それがかえって発生を早めたなど、考えもしなかった。
……いや、想像できなかったのは、自分の未熟さゆえか。
もっと早く、誰かに助けを求めるべきだったのか?
けれど、本当に信じてもらえただろうか。
未来視の啓示を──。
思考は空回りし、同じ後悔を何度もなぞる。
無数の可能性を浮かべては、「なぜ選ばなかったのか」と自問し続ける。
頭が、思考をやめることを許してくれない。
「……どうすれば、いいんだろう」
もはや、事は起きてしまった。
今のミディアにできることはただ一つ。
光の奇跡──魔瘴封印の術式を、多人数用の魔法陣に再設計すること。
それが完成すれば、どれほど強大な魔瘴であっても、力を合わせれば封じ込められる。
問題は、それを教会に認めさせる方法だ。
「……恐らく数日以内に、巨大魔瘴をめぐる聖院大評定が開かれる。
その場で、大聖女の選出も議題に上がるはず。
だから……あそこで発言の機会を得ることができれば……」
ミディアは必死に考える。
大評定に出るにはコルテア卿を説得し、同行の許可を得るしかない。
だがふいに、滑りこむようにして胸にズキリと痛みが走り、ミディアはその場にしゃがみこんだ。
「……う、……」
それは怪我の痛みではなしに、心を締め付けられる痛みだった。
──子猫ちゃん。
そう呼んでくれた声が蘇る。
泣かないように、と思っていた。
まだやるべき事が沢山ある。泣いて、立ち止まっているべき時じゃない。
だからミディアはディアドラのことを出来るだけ思考の端に追いやっていた。
そうでないと、悲しみに押しつぶされ、こうしてうずくまって動けなくなる。
それでも、不意に──波のように、痛みは襲ってくる。
斬られた傷がふさがらぬまま、熱を持って疼き続けるように。
「駄目、……いまは、……」
ゆっくり、大きく、息を吐き出す。
目じりが熱をもって今にも涙が溢れ出しそうになるけれど、それを何とか押し込める。
「まだ、駄目。まだ、泣いちゃ駄目。ほら、がんばって、立って、立ち上がって、……」
自分自身に言い聞かせ、拳でトン、トンと胸を叩く。
──こんなところで泣いていたら、ディアドラに笑われてしまう。
彼女が救ってくれた「子猫ちゃん」には、もう牙がある。
それを証明しなくてはならないのだ。
ミディアは、よろよろと立ち上がった。
報告書を読み直し、コルテア卿を説得する。
まずは、そこから始める──。
***
ミディアにとって、コルテア卿はつかみどころのない人物だった。
彼は教会の審聖官という要職にあり、強い発言力を持つとされている。
だが、実際に彼の屋敷に滞在してみると、宗教色は驚くほどに薄い。
屋敷の一角に礼拝堂はあるものの、屋敷内の装飾にはエダンをモチーフにしたものは見当たらない。
ロタティアンの信者が持つ聖印も礼拝堂以外では見かけなかった。
マティス卿の館では、あらゆる壁や柱に聖印が刻まれ、エダンを模した絵画や彫刻が数多く飾られていた。
訪れた当時、既に多くの美術品は売り払われていたようだが、それでも正面ホールには神の象徴が残されていた。
全盛期には、館の至るところが信仰一色だったに違いない。
それに比べて、コルテア卿の屋敷には、宗教的な気配がほとんど感じられないのだ。
この理由は、彼の出自にある。
コルテア卿──ランブロッサ家は、代々錬金術師の家系である。
錬金術では、精霊術を媒介として物質を生成・分解する。
薬品の加熱や攪拌なども行うが、多くは特殊な魔法式で代用される。
つまりそれは、光の精霊エダンを唯一神ロタティアンと定義する教会の教義とは、本質的に相容れない技術なのだ。
では、なぜ彼が審聖官を務めていられるのか。
その鍵を握るのが、ランブロッサ家の持つ鉱山である。
この領地には良質な鉱山が多数あり、そこから採れる鉱物を錬金術によって加工・精製することで、莫大な富を生み出している。
──そして、この「鉱山」が信仰と密接に結びついているのだ。
鉱山労働は、王国でも特に過酷で危険な仕事とされている。
ランブロッサ家は比較的良心的な労働環境を整えているようだが、それでも事故や怪我は避けられない。
ラシャド王国では、こうした肉体労働に従事する人々の多くが、ロタティアンの熱心な信徒なのだ。
彼らの多くは魔術を使えず、命の危機に瀕した際には“癒しの奇跡”によって助けられてきた。
ゆえに彼らは教会に深く帰依し、信仰を生活の支えとしてきたのだ。
つまり、ランブロッサ家の領地は教会の厚い支持基盤でもある。
そのため、教会側もまた、ランブロッサ家を無視できない。
教義に反する錬金術を扱っているとはいえ、彼らは領地経済の柱であり、教会に多額の寄進も行っている。
──目をつぶる価値は、ある。
コルテア卿が錬金術師でありながら、審聖官の立場も兼ねているのは、そういう事情あっての事だろう。
「それなら、まだ、話し合いの余地がある、……と、思いたい」
ミディアはジュードから受け取った報告書を丹念に読み返し、コルテア卿を説得するための準備を整えた。
そうして、コルテア卿に話し合いの場を設けて欲しいと願い出た。
──果たしてコルテア卿は、
ミディアの申し出をたいそう楽し気な様子で受け入れたのだった。
***
コルテア卿が話し合いの場として用意したのは、屋敷の中庭にあるガゼボだった。
港町サムタ・デラには白を貴重とした建築が多い。
コルテア卿の庭にあるガゼボもまた白い石柱に蔓薔薇をはわせた実に美しいものだった。
ガゼボの中にはテーブルと椅子が置かれており、小規模な茶会を催す場として使われているのだろう。
海からの風が届くこの庭では、常ならば塩気を含んだ空気とともに、薔薇の香りが漂っている事だろう。
……今は魔瘴によるかすかな腐敗臭が混ざっている。
白砂の小道は、古びた石畳へとつながっていた。
そこには錬金術の円環図を思わせるような精緻な文様が浮かび、年月の重みが静かに滲んでいる。
年老いた伯爵の手入れが行き届いたこの庭には、機知と美しさに満ちた創造物も点在していた。
たとえば巨大な砂時計、あるいは古の日時計。
どれも彼自身が集めたものなのだろう。庭木の影にひっそりと佇み、静かに時を刻んでいる。
「こ、このたびは、話し合いの場を設けてくださり、こ、心より感謝もうしあげます」
コルテア卿とロストバラン家は同じ伯爵家とはいえ、その発言力は実質的に侯爵家にも匹敵する。
本来ならば、ミディアも正装で臨むべきところだった。
だがあいにく、身一つでエストリアから逃れてきた身の上。ドレスなど持ち合わせているはずもない。
幸いにも、ランブロッサ家に保護された際、卿の孫娘が以前着ていた服を贈られた。
そのおかげで、だぶだぶのローブ姿でこの場に現れる事態だけは避けられた。
とはいえ、仕立て直す時間もなく、ミディアが身に着けているのは部屋着に近いワンピースだ。
だがさすがは貴族の令嬢のもの、裾には繊細なレースがあしらわれ、あちこちに花の刺繍も施されている。
控えめながらも品のある、温かみのある一着だった。
ミディアの姿を見て、コルテア卿は穏やかに目を細め、微笑んだ。
もとは銀だった髪はすっかり白くなっていたが、整えられた髪型と落ち着いた身のこなしには隙がない。
浅黒く日焼けした肌には深い皺が刻まれていたが、むしろそれが彼の顔立ちにより貴族的な陰影を与えていた。
だが、最も印象的なのはその瞳だった。
淡い灰色に近い虹彩は、見る者によって色を変える鏡のようでもあった。
それは優しさではなく、観察者のまなざし──
微笑の奥にある真意を読み解こうとする、思慮深さと公正さ。
そして、その奥底に、ごく微かに“混沌”の気配が揺らめいていた。
一見すれば、洗練された老紳士。
だが、その表情のひとつひとつが、決して凡庸なものではないと、ミディアは直感していた。
「いやいや、こんな化石のような爺と話をしたいなどと言ってくれてとても嬉しく思っているよ。ここでの暮らしに不自由はしていないかね?」
「は、はい。突然転がり込むような形になってしまったにも関わらず、大変よくして頂いております」
「それは良かった。孫娘も随分と前に結婚してここを出ていってしまったからね。久しぶりに若いお嬢さんが来て女中たちも喜んでいるようだ」
「と、とんでも、ない、ことで、ございましゅ」
ミディアは恐縮しながらもコルテア卿に促されてテーブルについた。
給仕は紅茶を入れ茶菓子を置くと、一礼して去っていく。どうやら初めから気を使って人払いをしてくれたようだった。
一口紅茶を頂いてから、ミディアはコルテア卿に向き直る。
「た、単刀直入に申し上げます。近く王都で、魔瘴への対策を議題とした聖院大評定が開かれると伺っております。
おそらく、その場で新たな大聖女様が選出され、“浄化の奇跡”が執り行われることになるでしょう」
「ああそうだね、それに違いない」
コルテア卿は穏やかに頷いた。
ミディアはごくりと息を飲む。
「わ、私から、一つご提案があります。
今回の“浄化の奇跡”を行うにあたり、多人数による魔力供給式を採用するべきだと考えています。
その必要性を聖院大評定で訴える機会を、どうか私にお与えいただけないでしょうか」
ほとんど前置きもなしにこの提案をするのは、コルテア卿がミディアと同じくらい魔瘴やゾデルフィアに関しての知識を持っていることが前提になる。
なおかつ、必要性をしめすことが出来れば、教会の古いしきたりを破ることを恐れない人物であることも重要だ。
前半部分は、審聖官の立場であるならば暗黙の領域であるだろう。
浄化の奇跡が召喚の術式と同じである事までは知らないにしても、あの奇跡がゾデルフィアと関わるものである事を知らぬはずはない。
──これは大きな賭けだった。




