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どうぞよろしくお願いいたします。

 ベアトリス夫人はソファに腰をおろすと、ミディアに隣に座るように促した。

 座ってみるとソファは固く、かすかに軋む音がする。


 あらためて周囲を見回すと、まるで修道院を思わせるような部屋だった。

 由緒ある侯爵邸ということもあり、部屋自体の作りは他の部屋と遜色ないほどしっかりとした造りで、隙間風はほとんど感じない。

 だが窓にかけられたカーテンは刺繍も飾りもない麻製のもので、置かれた家具も装飾のいっさいを取り払ったものだった。

 壁にかけられた唯一のものは教会の聖印だ。

 床に敷かれた絨毯も簡素なものでよく見れば聖印のすぐそばはすり減っている。あれはおそらく、幾度も祈りを捧げた時に膝をついた跡だろう。

 棚に本は数冊並んでいるが、どれも革の背表紙が擦り切れた古い祈祷書ばかりだった。飾り気のある置物や絵画は一つもなく、個人の趣味を感じさせるものも見当たらない。

 ベッドも無駄を削ぎ落した木製のフレームの上に薄いマットレスが敷かれておりいかにも寝心地が悪そうだ。

 だがその布団は几帳面に整えられ、どこか宗教的な厳粛さすら感じられる。


 「殺風景な部屋でしょう? ここは私が作ったあの子の部屋なのよ。

 私はね、あの子の獣のサガを知っていた。あの子は父親とそっくりの目をしていたから。あの子の父親がどんな男だったか知っているかしら?」


 ミディアは首を横に振った。


 「私の夫、オルスト卿は長らく子供に恵まれなかった。50歳を過ぎても跡継ぎがいなかったのよ。

 その理由はね、……彼があまりにも”幼い妻”ばかりを求めたせいなの」


 ミディアは小さく息を飲むが、夫人は淡々と言葉を紡いでいく。


 「嫁いできた少女の中には身ごもるものもいたけれど、出産に耐えきれる年齢ではなかったわ。

 何度も死産を繰り返し、数年たつと子供を身ごもることが出来ない女だとして離縁する。そんな事を繰り返していた。

 私がこの家に嫁いで来たのも、今の貴女よりも幼い頃だったわ。

 それでもあの男は毎晩私の事を求めた。そして私は、幸運にも出産を終えることが出来た。

 ……いえ、それが幸運だったかどうかは分からないわね。私は子を成したことで離縁される事なく、ずっとここで過ごすことになったのだから」

 「そんな、……」

 「子育ては乳母に任せきりだった。幼い私にとって出産の負担は大きく、長いこと寝込んでしまっていたの。

 それに、我が子だと言われても愛おしいとは思えなかった。

 あの子は少しずつ大きくなるにつれて夫に似ていくと、ますます嫌悪感が募っていった。そして、その好奇心が向く先さえ夫と同じだと気づいたときには絶望したわ」


 ミディアは夫人の表情を盗み見たが、その顔は人形のごとく何の感情も見つからない。

 それらは全て、擦り切れてなくなってしまったかのようだ。


 「それは、その、ええと」

 「……あの子もまた少女にしか興味を示さなかった。

 最初のうちは不自然には思わなかったのよ。だってあの子もまた幼かったもの。けれど、成長してもあの子の興味の対象は変わらなかった。

 メイドの連れ子の入浴を覗いたり、孤児院では子供たちの着替えを眺めたり。あまりの悍ましさに吐き気がしたわ。

 でも私は目をそらしてはいけないと思ったの。あの子を変えないといけないと」


 夫人の目が暗い色を宿すが、それは重たげな睫毛によって隠された。


 「だから私はあの子を質素な部屋に閉じ込め、──やましい行いを責め詰った。

 時として鞭を振るいさえした。

 そのころの夫は、新しい愛人を囲う事に夢中で私のすることに口出しすることもなかったわ。

 ……私は自分がしている事を正しい行為だと思ったの。教会に息子の悍ましい趣味を懺悔しに行った時にも、それは罰するべきだと言われたわ。

 そして実際、息子は変わった。あの子は自分を恥じて、好奇心を殺すようになった」


 夫人は瞳を開くと、自嘲めいた笑みを浮かべた。


 「きっと私は間違えたのね。私が母親として行うべきだったのは、あの子を詰ることではなかった。その行動を咎めるにしろ、一方的に責めるべきではなかったわ。

 でも、……気が付いた時は遅すぎた」


 はっと微かな溜息が宙に漏れる。


 「あの子が、何をきっかけに本能をむき出しにしてしまったのかは分からないわ。

 邪神のせいだというならばそうかもしれない。

 でもね、もし私があの子を理解し、違う方法で導くことが出来たら変わっていたかもしれないわ。責め詰って無理やりに禁じて罰を与えた。そのことが、かえってあの子の獣をより醜悪なものに変えてしまった」


 ミディアは何も言えなかった。黙って俯いていると、夫人は穏やかに息を吐く。


 「だから、あなた達の事を恨んではいないのよ。私が終わらせるべきものを、肩代わりしてくれたのだから」

 「あ、あの、ではその、なぜ、竜人の少女を、匿ったり、ど、奴隷を、集めたりしていたのでしょうか?」


 ミディアが問いかけると夫人は穏やかに微笑んだ。


 「あれは、息子がやっていたこと。あの少女もある日、息子が連れて来たのよ。

 ……よくない事が起こっているのは分かっていたわ。でもね、私にはもうそれに抗い、戦うだけの理由が見つからなかった。どうするべきか分からなかったし考えたくなかった。

 ごめんなさいね。私、──とても疲れてしまったのよ」

 「……はい」


 ミディアが小さく頷くと、夫人は首から下げていたペンダントを外し差し出した。

 胸元に隠れていたペンダントトップは赤い宝石がついた”鍵”だった。


 「礼拝堂の地下に、あの子が作ったもう一つの礼拝堂があるわ」

 「いいんですか?」

 「ええ。またあなたに任せてしまうことになるわね」

 「いえ、その、私は、……私は、いい、ん、です。でも、その、夫人は……」

 「私は眠ることにするわ」

 「え?」


 夫人はソファの側にあった袖机を開けると、中から綺麗な細工が施された小さな小瓶を取り出した。

 小瓶の中でゆらめくのは琥珀色のどろりとした液体。──それが何であるかは想像がつく。


 「あの、その、……」

 「あなたが気に病む必要はないわ。私はただ逃げるだけよ。それが我儘であることは分かっているけれど、もう疲れてしまったの」


 ミディアはぐっと息を飲む。

 正しい言葉なんて見つからない。でも、なにか声をかけたかった。

 不器用でもいい。だってここにはミディアしかいない。

 何度も何度も口を開きかけては飲み込んで、それでもなんとか言葉を探す。


 「わ、我儘では、ない、と、思います。

 マ、マティス卿に理解者がいなかったのと同じように、貴女にも、支えてくれる人がいなかった。

 でも貴女は、誰も助けてくれなくても、今まで逃げなかったんです。だ、だから、最後くらい、我儘を言ってもいいって。

 ……でも、願わくばその我儘が貴女を、幸せにするものだったら良かったのにって、思います……」


 夫人は静かにミディアの言葉を聞いていた。

 その瞳に微かな温かさが戻ったのは、ミディアの見間違いではないだろう。


 「……そんな事を言ってくれたのは貴女が初めてだわ。小さなレディ、抱きしめてもいいかしら?」

 「はい」


 ベアトリスはそっとミディアを抱きしめた。

 その手は壊れものに触れるかのように怯えていて、どれほど長く、ぬくもりを知らずにいたのかを静かに物語っていた。


 「ありがとう。もう行って頂戴。もし神の思し召しがあるならば、私が今まで生きていたのは、貴女とこの瞬間を過ごすためだったのでしょうね。

 私の人生を、意味のあるものに変えてくれたことに感謝するわ」

 「わ、私も、……ベアトリス夫人とお話出来たことに、心から感謝します。貴女のことは、絶対に忘れません」


 ミディアは立ち上がると、精一杯丁寧なカーテシーをして部屋を出た。

 そして、そっとドアを閉じる。

 ドアに背を預けると堪えていた涙が滲みだす。

 だがミディアはそれを袖口で拭い去り、ぱたぱたと靴音を響かせて駆け出した。




 ***




 礼拝堂地下への入口は、エダンの像の足元にあった。

 教会はロタティアンの偶像を作ることを禁じている。故に像として造られるのは、光神の寵児であったとされるエダンの像であることがほとんどだ。

 エダンとはかつては辺境の小さな村の木こりであった男だ。

 神に愛され巨大な王国を作った男。

 神聖王国ローデンバルドが滅びた後、彼がどうなったかを語る書物は残っていない。その亡骸は今もローデンバルドの廃墟に人知れず眠っているのだろうか。

 各地に祀られているエダンの像は木こりだったとは思えぬほど、堂々たる風格をもって造られている。

 隆々たる筋肉はまさに神が創った芸術品のごとく肉体美を誇り、その風貌は慈愛よりも勇猛さと威光を宿している。


 ミディアは震える手で、ベアトリス夫人から預かった鍵を像の台座に差し込んだ。

 礼拝堂全体が小刻みに揺れ、台座がゆっくりと移動すれば石同士がこすれあう音が響く。

 そこには、まるで地獄の底へと続くような、先の見えない長い階段が現れた。


 「ああ、なんと悍ましきことか。神聖なるエダンの元にこのような不浄の地を作るなど」


 司祭は大げさに嘆き、膝をついて祈ったが、それに追従するものはいなかった。

 聖騎士のフレイさえ黙々と突入の準備を整えている。


 「我ら騎士団が先陣を切る。フレイ殿は司祭を守ってくれ。ディアドラはミディア嬢を頼む」


 アレクシアが指示を出し、フレイとディアドラが頷いた。

 松明を持った騎士を先頭に慎重に地下への階段を降りていく。


 一段下るごとに、肌を撫でる空気がひんやりと冷えていく。

 はじめのうちは精緻に積まれた石壁が続いていたが、数十段を超えると、壁はざらついた岩肌へと変わった。

 もともと自然洞を拡張して作られたのだろう。岩盤には不揃いな亀裂や、苔のような黒ずみがまだらに広がっている。


 道幅は狭く、ところどころに斜めに傾いだ段差があり、踏み外せば岩に膝を打つことになる。

 だが、ここは確かに人が行き来した痕跡に満ちていた。

 足元の土は、幾度も踏みしめられたことで浅くえぐれ、壁には無数の松明の煤が層のように積もっている。

 なかには爪で引っかいたような無数の細い傷が走っており、それらが何によるものかは分からないままだ。


 かすかに感じる塩気を含んだ風が、背後から押してくる。

 おそらく海へと通じているのだろう。水の気配はあるのに音はなく、ただ湿った、生ぬるい風だけが顔を撫でていく。


 やがて道は複雑に枝分かれしていく。だが、その多くは人が通れないほどに狭く、鍾乳石が垂れ下がり、行く手をふさいでいた。

 あるものは湿気でぬめりを帯び、触れたら崩れそうなものさえある。


 誰も口を開かない。

 不安定な足場に気を取られていることもあるが、それ以上に、この場所の“静けさ”が一同の声を奪っていた。

 耳鳴りすら聞こえるほどの無音の中、一度だけ天井から垂れた水滴がミディアの頬を打ち、小さな悲鳴を上げさせた。

 それさえすぐに、湿気に溶けて消えていく。

 行列はまるで、地下に葬られる者たちのように静かに歩みを進めていた。


 「……強い、魔力の波動を感じます」


 しばしの行軍ののち、ミディアがそっとささやいた。

 ミディアは冷え切った空気に混ざる魔力の気配で、頬がピリピリと微かに引きつるのを感じていた。

 傍らにいるディアドラが小さくうなずき、騎士たちに小声で伝達する。

 ディアドラもひどく警戒している様子だった。

 虎の獣人の証である太い尾が、いつもよりも大分上向きになっている。耳もピンと立ち上がって、いかなる音も聞き逃さないようにしているようだった。


 やがて道は、圧倒的な広さを持つ空間へと至った。

 先頭が一歩踏み込んだ瞬間、靴音が空間にこだまし、低く長い反響となって返ってくる。


 天井はどれほど高いのか、見上げても松明の灯りは届かず、闇に呑まれて視界の果てが消える。

 広間はほぼ正円を描いており、地上の礼拝堂とは比較にならぬ規模だった。

 王都の大教会ですら、この空間にはすっぽりと収まってしまうだろう。


 壁面には、松明とは異なる光源がいくつも取り付けられていた。

 それは青白く揺らめく炎──魔法灯の一種か、あるいは精霊の火だろうか。

 人工的でありながらどこか異界的な、冷たい光が広間の全体を仄かに浮かび上がらせていた。


 壁には何らかの象徴を刻んだレリーフが並んでいる。

 その多くは削り取られて意味を失っていたが、神聖というよりは禍々しさを感じさせる曲線の構造物だ。


 「──ここまでたどり着くとはな。あの女が裏切ったか?」


 その声は、巨大な空間にぽつりと落ちた水滴のように、静かに、しかし深く響いた。


 広間の床には、直径十数メートルはあろうかという巨大な魔法陣が刻まれていた。

 その中央に、銀髪の少女がひとり、忘れられた人形のように佇んでいる。


 魔法陣の線は浅い溝となって床を走っており、そこに満たされているのは、粘りつく赤黒い液体。

 それが“人の血”であることは、あまりにも明白だった。


 目を凝らせば、魔法陣の縁には、もはや形を成していない臓器や肉片の残骸が無造作に転がっている。

 辺りには、むせかえるような鉄の臭気が漂い、喉の奥に酸味を感じさせた。


 一体、どれほどの人を殺せば、あれほどの血が流れるのか──想像するだけで思考が止まる。


 少女は、その惨劇の舞台に立ちながら、一滴の血すらあびていなかった。

 それは少女の存在が、この空間から切り離された”異質”であることをしめしている。


 「……奴隷たちはどうした?」

 「知れたこと。おぬしら下賤の血が我らの益となりえたことを誇るがいい」


 アレクシアが問うた声は、静かだが怒気を孕んでいた。

 返して少女は笑った。血まみれの空間に似つかわしくない、軽やかで冷たい笑みだった。


 「おのれ、穢れた半竜人めが!」


 声を張り上げ前に踏み出したのは司祭だった。


 「よくもエダンの血を引きし者が治めるこの地に足を踏み入れたな! 疾く立ち去るがいい! ここはお前のような卑しきものが立ち入って良い場所ではない!」


 少女の姿を見て油断したのか、制止するフレイの手を振り払って尚も前へ歩み出る。


 「……卑しい? このワシを卑しいと詰ったか?」 


 少女の首がこくりと動いて司祭へと向き直る。

 その動きはやはり人形めいていて、その姿が仮初の形であると感じさせた。


 「わが身は原初の母の血を受け継ぎし器の一つ。それを誹るとは我が母への侮辱となるぞ」


 少女の言葉に、司祭は首から下げていた聖印を握りこみ大きく声を張り上げた。


 「ああ、悍ましき混沌の竜の眷属め! その一角をここで葬り去ることが叶うとは。神よ、感謝いたします!」

 「司祭様、おやめください!!」


 光の奇跡を唱えはじめた司祭に、フレイが悲鳴じみた声をあげる。

 だが制止は無駄だった。


 少女は片手を持ち上げると、羽虫を追い払うようなしぐさで横へ払う。

 強化や安定すら入れる必要のない詠唱は、あまりにも速く端的だった。


 雷 ー 突


 瞬間、轟音が大空洞を震わせた。

 強烈な光量で網膜が焼かれ、耳の奥では鉄を引き裂くような耳鳴りが近づいては遠ざかる。

 僅かに聴覚が戻ってくれば、最初に聞こえたのは司祭の悲鳴だった。

 地に伏してのたうち回る司祭からは、膝から下が骨ごともぎ取られたように失せていた。


 「耳障りだな」


 少女の横に薙いだ手が振り下ろされる。

 二度目の雷撃は、司祭の頭を粉砕した。

 それは血しぶきすらあがらなかった。

 頭蓋を雷が直撃し、人としての形そのものを破壊する。

 どさりっと倒れ伏した司祭からは、静かに黒煙が立ち上る。


 フレイは慌てて駆け寄ろうとしたものの、あまりにも明確な死の様相に拳を握りしめて立ち止まった。

 人体の焼ける生臭さにねばつくような甘さが混じった悪臭は、ミディア達のもとまで漂ってくる。


 人ならざる者の力。

 邂逅の刹那に、それは見せつけられた。

 人の理など、何一つ通じぬ存在の力を。


 「──ミディア嬢、あの魔法陣は、魔瘴を召喚するものと見て相違ないか?」


 アレクシアは動揺することなく静かに声を投げて来た。

 騎士団を束ねる者である故の冷静さ。

 長であるべきものが取り乱す事があれば、それが隊全体を乱すものだとアレクシアは承知している。

 ミディアもまた、その冷静な声によって救われた。

 恐怖で麻痺しかけていた頭が、少しずつだが回りはじめる。


 「……ゾデルフィアの名を最初に置いた顕名式方陣、……教会の様式とは違うけれど、多段階の拡張、生贄による魔力の抽入式、……」


 ミディアはごくりと唾を飲む。だが喉はひりつくほどにからからだ。

 魔法式を読み解いていくほどに、そこに必要な莫大な魔力量が見えてくる。

 その魔力は、生贄の血によって支払われるのだ。

 積み重なる拡張式の重さ、その一つ一つから、どれだけの命が必要になるかが分かってしまう。

 それが容易く百を上回った時点で、ミディアは数えるのを放棄した。

 自分の心を守るために。確実に術式だけを読み解くために。


 「は、はい、間違いない、これがゾデルフィアを召喚し魔瘴を発生させるための魔法陣です」

 「発動までの猶予は?」

 「……こ、この魔法式は、エストリアの街そのものを、いえ、サドランドの半島すべてを飲み込むほどの大きさです。

 100年前にエジスーラを滅ぼしたものと同等、いえ、それ以上の規模であると予想されます。

 恐らく、マティス卿が変貌した7、8年前から、この魔法式発動のために生贄が捧げられ続けて来たのではないかと……」


 ミディアの言葉に熟練の騎士たちですら息を飲んだ。

 ですが、とミディアは言葉を続ける。


 「術式の発動に必要な魔力は、全体量の6割ほど。

 だとするならば、生贄を捧げ続けたとしても、発動には一年以上の猶予があるはずです」


 一年、いや恐らく二年以上かかるだろう。

 それほどにこの魔法式は膨大な魔力を要するものだ。

 サドランドを飲み込む巨大魔瘴。それはもしや、ミディアが未来視で見た光景ではあるまいか。


 サドランドの海沿いから王都ラダンまでは、馬でわずか四日。

 魔瘴が一度発生すれば、沿岸の港町をなぎ倒し、迷いなく王都へと到達する。


 これが、この場所が悪夢の元凶だったのか──。


 ミディアの言葉に、竜族の少女はわずかばかりに目を細めた。


 「ほう? 人の子にしてはよく術式を心得ている」

 「あ、ありがとう、ございます」


 どうしよう。

 ミディアは汗ばんだ手を握りしめた。

 少女と戦うのは死を選ぶのと同意語だ。今この場で、あの少女に打ち勝つのは難しい。

 かといって撤退を選んでも、黙って帰してくれる筈もないだろう。


 「りゅ、竜族の一角に申し上げます、……」


 恐る恐るミディアは口を開いた。

 司祭は少女を「一角」と呼んでいたのでそれに倣っての呼び方だ。

 どうか、失礼に当たらない呼びかけでありますようにと願うしかない。

 少女は眉尻を引き上げると、黙って先を促した。


 「あ、あなたにとって今ここにいる者たちを滅ぼす事はいとも簡単なことでしょう。

 ですが、私たちが帰還しなければ、国はさらなる大部隊をこの場に送り込んで来ることになります。

 ……それでも貴女は退けることが出来るかもしれません」


 思考を止めるな。考え続けろ。

 ミディアは頭に浮かぶそれを噛みしめるように言葉に変える


 「しかし、魔法陣は別です。ま、魔法陣は、げ、原始的で物理的な方法でも、破壊することが、可能です」

 「ふむ。それで……?」


 少女は嗤った。

 絶対的優位であるものだからこその穏やかな笑み。


 「後続部隊が物量戦により、魔法陣を破壊することは、さほど難しくはありません。

 もっとも乱暴な手段でいうならば、洞窟そのものを破壊してしまえばいいんです。


 つ、つまり、その、魔瘴召喚の術式を発動することは、私たちがこの場所にたどり着いた時点で……

 ──失敗することが、確定しています」


 本当は、自分でも確証はなかった。

 ただ、魔法式の構造と拡張の方向性、地形と出入口を照らし合わせれば──少なくとも一部の崩落で連鎖的な破壊は可能なはずだ。


 怖くて足が震える。

 少女が再び腕を振り上げれば、今度は自分の頭が跡形もなく吹っ飛ぶだろう。

 そんなミディアの肩に、ディアドラの手が重ねられ、その暖かさに勇気づけられる。

 ミディアは顔をあげた。


 「ひ、……退いて、下さい。あなたの、望みは、潰えました」


 誰一人として呼吸すら殺して沈黙した。

 声を上げれば、何かが壊れてしまう気がした。

 そんな静寂のなかで、ただひとつ、風だけが少女の白銀の髪を撫でていく──。


 「……なるほど。人にしては多少は頭が働くようだ。だが、ワシが貴様らを見逃す理由がどこにある?

 ワシの邪魔をした愚か者どもを裁かぬ理由があるというのか?」

 「理解に努めます」


 ミディアの声は決して大きくはなかったが、その言葉は決然として揺るぎない。

 少女を見つめ返す目は、この世界を解き明かすものとしての知性と公正さを宿している。


 「理解、……だと?」

 「私たちは、貴女たちの怒りや悲しみを十分に理解できてはいません。

 だから、それを知ろうとすることから始めます。

 違う歴史を生きてきたとしても──知ろうとしなければ、何も始まらないから」

 「はっはっはっ!」


 少女はのけぞって哄笑した。

 甲高い笑い声が大空洞を震わせる。


 「理解、理解だと!? それで我らに歩み寄ろうとでも言うつもりか?

 ──否、我らが求めるのはその血をもっての償いのみ。我らが母を穢した罪は人の血の全てを絞りとって尚、許されるようなものではない!」


 少女はふと沈黙すると、その顔にはじめて悲痛の色を滲ませた。


 「我ら竜族はけっしてその記憶が褪せることはない。すべてを昨日のことのように思い出す。

 母上の穏やかな眼差し、七色の鱗の上にこぼれる日差しの美しさ。

 その言葉一つ一つ、こぼれた溜息の数ですら忘れまい。

 春の日には花弁に戯れ、夏の宵には夜空を彩る星々を追いかけた。秋は木の葉に埋もれて眠りにつき、冬は白銀の山河を駆け抜ける。

 目を閉じれば瞼に浮かぶ、この光景をどうして裏切ることが出来ようか」


 ミディアは何も言えなかった。

 少女の心を巣くう苦痛を思えばこそ、言葉などかけることは出来なかった。


 「だが、ワシのたくらみを暴いたことは褒めてやろう。そしてその上で教えてやろう。

 ……──我が策は潰えてはおらぬ」


 少女は凪の海のように穏やかな表情で言い放った。


 「人の血で足りぬ分は、我が竜血で補えばよいだけのこと。

 我らが愛しき母のため……、この命など惜しむものか──ッ!」


 次の瞬間、少女はその細い指をみずからの胸に突き立てた。

 指先が肉を裂き、肋骨の奥へと深く沈んでいく。

 心臓を鷲掴むように動く指の隙間から、紫水晶のように光をたたえた血が溢れ出した。


 それは血液とは思えぬほど粘性があり、宝石の粉を溶かしたように微かに煌めいている。

 空気に触れるや否や、鉄の臭いではなく濃厚な甘い芳香を放ち、まるで儀式そのものを歓喜するように魔法陣が淡く脈打ち始める。


 地に落ちたその血は魔法陣の溝に沿って滑るように走り、瞬く間に全体へと行き渡った。

 紫の光が一閃し、広間の空気がまるで生き物のように震える。


 魔法陣が、──発動する。

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