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夕刻──。
石畳に伸びる影がいっそう長くなりはじめた頃、商人たちが一斉に店をたたみ始めた。
街のあちこちで、木戸を閉める音がバタン、バタンと響き渡る。
通りを行き交う人々は足を速め、誰もが家路を急いでいる。
残照に染まる石道は血のように赤く、つい先刻まで遊んでいた子供たちの姿も、蜘蛛の子を散らすように消えていた。
地面には石灰で描かれた跳び石遊びの跡が残され、かえってその不在をひどく際立たせていた。
東の空には赤いカロの月がゆっくり登り始めていた。
カロの月は不吉の象徴だ。出来ればこんな夜の襲撃は避けたいが、ひと月の半分は赤い月が登るのだ。それを忌避していては、ほとんど何もできなくなってしまうのだ。
それでも今宵の月は、よりいっそう赤く輝いているようでミディアは小さく身震いする。
ドリスティオール家に赴くのはミディアとフレイ、アレクシアと騎士団たちだ。
それに加えエストリアの教会に駐在していた司祭も一人随行している。これは、教会側の人間が若輩のフレイだけでは流石に心もとないという判断だろう。
リリアナや鉄鼠衆は今回は不参加となっている。
ゼファン家は魔瘴に関与している疑いを持たれている。またドリスティオール家に対して経済的制裁を加えたことも既に町中に広まっている可能性は高く、もはや周知の事実であるとも言えた。
故に、ゼファン家が捜査に同行すれば、調査結果の正当性が損なわれると、そのような疑いをかけられる可能性が出てきてしまう。
「まさかこのような形でドリスティオール家に赴くことになるとは夢にも思いませんでした」
随行した司祭は、額に深いしわを刻んで呟いた。
御年六十を超えているだろうか。年輪のように刻まれた皺、立派に蓄えられた白い顎鬚。剥げ上がった頭部にちょこんと司祭帽がのせられている。
節くれだった指には大粒の宝石をはめこんだ指輪がいくつもはめられている。
長年、エストリアの教会に務めていた司祭であれば、マティス卿と関わる機会も多くあったに違いない。
この街にいた頃のマティス卿は聖人のような男だった。
その生家に、名目上は捜査協力とされてはいるが、ほとんど異端審問に近い形でもって訪問する事になろうとは想像もしなかったことだろう。
司祭はミディアとともに列の後方についている。皆が馬に乗っての移動だったが、ミディアと司祭が跨がる馬は、騎士団のそれよりも一回り小柄で、おとなしかった。
誰もいない通りを行軍する馬の蹄の音がやけに大きく響いている。
「あ、あの、司祭様、マティス卿はその、一時期から人が変わってしまったとお伺いしております。司祭様もそう思われますか?」
ミディアが小声で尋ねると、司祭は悲しそうな顔になる。
「ええ、左様でございます。マティス卿は大変素晴らしいお方でした。それがある時を境に変わられてしまった」
「その原因を何だとお考えですか?」
「それは異端の神に魅入られたからでございましょう」
司祭はにべもなく断定した。
「だ、だとしても、その、彼の立場であれば権力を行使し、すべてを秘密裡に行うことも出来た筈です。ですが、ここ数年の彼の活動は、いささか理性を欠いているように思えます」
「それこそが異端の神に蝕まれた証左でありましょう。そのようなご質問をなさるあなたはどうお考えなのですか?」
「えええ?」
まさか質問を返されるとは予想外だ。手綱を握る手にじわりと汗がにじみ出る。
下手なことを返せば、ミディア自身が異端者だと疑われる。
……実際、教会の教義に真っ向から立ち向かおうとしているミディアは異端者と呼ばれても仕方がないが、今この時点で疑いを持たれるのは避けたかった。
「ええと、その、なぜマティス卿が光神ロタティアンへの信仰を捨て異教の神に傾倒したかも重要ではないかと思います。敬虔な信者であったマティス卿を変えてしまうほどの、一体何が起こったのか。
その事がマティス卿の理性に大きな影響を及ぼした可能性もあるのではないかと……」
「それは違いますよ。心が揺らいだ時にこそ、信仰は支えとなるのです。
あるいはマティス卿は悍ましき業を持っていたが故に、加護を失ったのやもしれません。いずれにせよ大事なのは信心です。祈ること、信じること。それを欠かさなければ、邪念を抱くことなどあり得ません」
「な、なるほど。司祭様はそのようにお考えなんですね」
祈ること、信じること。それを欠かさなければ邪念に囚われることはない。
邪であるのは、当人が信心を欠いたから。
それは教義としては”そうあるべき”ものだとも言えるだろう。
一心に祈れば救われる。そうでなければ、信仰が”心のよりどころ”である意味を希薄にする。
エストリアの司祭の見解が教会の総意であるとは限らない。
ただ、全ての根拠を光神ロタティアンへの信心とされてしまうと、話を嚙み合わせるのが難しい。
だがミディアはこれから先、必ずどこかで教会と話し合う事になる。
司祭の言葉を聞いていると、立ちはだかる壁の高さにずっしりと重くなる。
そうこうしている間にも、目的地はすぐそばまで迫っていた。
貴族街の坂を登りきれば、ドリスティオール家へたどり着く。
ドリスティオール家は相変わらずまるで巨大な棺のようだった。
赤い月夜にそびえたつ館は、なんとも言えぬ禍々しい存在感を放っている。
「門を開けよ。我らは王家より下賜された令状を携え、この屋敷の調査に参った。これは陛下の御名において発せられた勅命である」
まずは先頭を行くアレクシアとフレイが門番に書状を見せ、入口を開けさせる。
門前での制止はなかった。あらかじめ訪問の知らせが届いていたのか、あるいは――屋敷側が、何かを悟っていたのか。
繊細な意匠が施された門をぬければ、その先は正面玄関まで続く芝庭で馬から降りた。
これから敵の本拠地に乗り込むのだと思うと緊張する。
バクバクとうるさい心臓を抑えていると、気づかわしげな視線を感じて顔をあげた。
「大丈夫かしら、子猫ちゃん」
傍らにやってきたのはアレクシアの部下であり虎の獣人のディアドラだった。
柔らかな声を聞くだけで、抱きしめられたような気持ちになる。痛いほどはねていた心音がその一言で落ち着きを取り戻すのを実感した。
「ディアドラさん、だだだ、大丈夫、です」
「そう、なら良かったわ」
ディアドラはじっとミディアを見つめたあとに、ふわりっと優しく微笑んだ。
「子猫ちゃん、少し雰囲気が変わったわね。前よりも意思の強い瞳になったわ」
「そ、そう、ですか? でも私、相変わらずその、こ、怖くて、自分が進んでる道も正しいか、分からなくて、悩んでばっかりで」
口を開くと、ぽろぽろと本音がこぼれ出し、ミディア自身を驚かせた。
ずっと言葉にはしなかった。戦うために、強くあらねばならなかった。だから弱音は歯を食いしばって耐えていたのに。
ディアドラは銀色のまつ毛をゆっくりと瞬かせると、そっとミディアの頭を撫でてきた。
「……あのね、子猫ちゃん。大人が物事を速やかに判断するのは経験則という指標が身につくからよ。
でもね、それって悪い事もあるのよ。前回こうだったから、今回もこうなるって決めつけて動いてしまう。
最小の労力で最小の被害で抑えることだけを考えてしまうの」
「そ、それは、……それはそれで、正しいこと、なんじゃないですか?」
「ええ、──大抵の場合はね」
ディアドラは眉尻を下げて自嘲気味に笑う。
「でもね、経験則って、“最善策を考える努力を放棄すること”につながるのよ。
決断を急ぐことも大事よ。でも悩む事もとても大事。子猫ちゃんが必死に悩むのはすごく良いことだと思うわ」
「で、でも、それで、その、は、判断を間違った時は、わ、私はどうすれば」
なんだか子供に戻った頃のようだった。
なんで、どうして、私は。そんな言葉が駄々をこねるように漏れてしまう。
鼻先にツンと痛くなるように湿った感触がこみあげるのは、涙が出かかっているからだろう。
ああ、そうか。私は怖くて仕方なかった。
気付いていた。でもそのことを改めて実感させられる。
ディアドラはミディアの視線を真正面から受け止めると、胸元に手をあて唇を開く。
「──それを支えるのが大人の仕事よ」
はっきりとゆるぎない言葉に、ミディアは大きく息を飲んだ。
「仕事、いえ、……”特権”かしら?
私はね、もし子猫ちゃんが判断を誤ったとしても、それを支えることが出来たら、とても誇りに思うわ。
だからね、子猫ちゃんはいっぱい悩んで、あなたが正しいと思うことをすればいいのよ」
「ディ、ディアドラしゃん、……」
嬉しくて目を潤ませると、ディアドラはぽふっと優しく抱きしめてくれた。
獣人の体温は人間よりも暖かい。こうして密着してみると、陽だまりのような心地よさだ。
「団長からも貴女を守るように指示を受けているの。だから、ここから先も貴女の思うように動いて大丈夫。姿が見えなくてもちゃんと側で見守っているわ」
「は、はい。分かりました。が、頑張ります!」
ミディアは大きくうなずいた。
悩んでもいい。躓いてもいい。それでも支えてくれる人がいる。
まだ幼いミディアを信じてくれて、手を差し伸べてくれる人がいる。
それは何て嬉しいことだろう。
ディアドラはミディアの小さな体を抱きしめて、頭をぽんぽんと撫でてくる。
その手は、まるで春の日差しのように優しくて――ミディアはそっと目を閉じた。
***
ベアトリス・ドリスティオール。
マティス卿亡き後、ドリスティオール家の当主の座につくこととなった女性。
彼女はマティス卿の母であると聞いているが、そうと知らなければ卿の未亡人かと見まごうほど若々しかった。
歳は五十を超えているはずだ。
けれどその年齢の印象すら、彼女の佇まいの前では曖昧になる。
深い黒のドレスに身を包んだ貴婦人は、喪に伏しているにしては艶やかで、黒蝶花を思わせる。
漆黒の絹がわずかに揺れるたび、夜の帳が風にたゆたうようだった。
艶やかな美しさは、半面、壊れかけた硝子細工のようでもある。
やつれた頬と、翳りをおびた表情。
生気が薄れつつある顔とはアンバランスに、翡翠の瞳は人の目を引き付けて止まないほどに鮮やかだった。
その眼差しには、ひとの奥底に触れるような、ひやりとした冷たさがある。
相反した魅力の危うい調和こそが、ベアトリスを孤高の花へと昇華させているのだろう。
騎士団が調査状を差し出すと「どうぞお好きになさって下さい」と気品を崩さずに頷いた。
熱のない声は、そのくせどこか胸の奥をくすぐるような蠱惑的な音を帯びている。
ミディアは騎士団の後ろに隠れながら、大広間に視線をめぐらせていた。
竜人の少女は見当たらない。一体どこにいるのだろうか。
ミディアがきょろきょろしている間に、司祭がベアトリスへと近づいていった。
「ベアトリス様、こたびのこと、非常に残念に思っております」
司祭は指輪だらけの手をすり合わせながら、沈痛な面持ちで語りかける。
「マティス卿があのような悍ましき所業に手を染めるとは。夫人もさぞ心を痛めておられる事でしょう。
そんな時だからこそより強く信心を持つことが大切です。……日々の祈りはかかさず続けておられますか?」
司祭の問いかけに夫人は唇を動かしてわずかに笑う。
「我が子は、この街で聖人とまで言われておりました。その信心をもってしても神はあの子が獣と化すことを止められはしなかった。祈りなど何になりましょう」
「何を仰いますか。まことの信心を持ってさえいれば、邪悪さを持ち合わせることなどあり得ません」
「まぁ、……ふふふふ」
夫人は扇で口元を隠して笑う。
鼓膜をくすぐるような微かな音に、司祭の眉間にしわが寄る。
「失礼。あなたがあまりにも面白いことを仰るものだから思わず笑ってしまいましたわ」
夫人は口元を隠したまま、司祭の顔を流し見る。
「……あなたは信心を理由に私を傷つける事に、微塵の邪悪さもないのでしょうね」
「私の言葉を悪意だと捉えるのは、あなたの信心が揺らいでおられるからです」
司祭の声には苛立ちが混じる。
「信心が揺らげば悪意が見えるというならば、それはあなたが”盲目”だと言うことではなくって?」
対して夫人の声色に棘はない。だが言葉は、はっきりと毒を含んでいる。
「それは侮辱ですぞ! 我々は唯一神ロタティアンの加護のもと平穏を享受する事が出来るのです。神の加護への感謝を忘れ、人の心に悪意を見出す。なんと恐ろしいことか。
ドリスティオール家が異端者を匿い、企みごとをしているという報告を受けた時は耳を疑いました。しかし今、この場に訪れ確信いたしました……」
司祭は一呼吸置き、そして決然と言い放った。
「──あなたは神を侮辱している!」
だが、夫人の表情は凪いだままだ。
「まぁ……ふふ。聖人などと持ち上げたあなた方の言動こそ、神の御名を侮辱する行為だったのではなくて?」
どこか少女のような無邪気な声色で問いかけて返す。
それを侮辱と受けた司祭は、禿げ上がった後頭部まで紅潮した。
「ええ、ええ、まことに! それは酷い侮辱でございました!!
ですがそれは、我らが神を欺いたマティス卿の罪でございます! ですが罪は裁かれる。故に獣は神の威光を前に屈したのです!!」
「──戯言ね。我が息子を倒したのは、そこにいるゴッドウィン家やロストバラン家の娘たちでしょう?
教会は息子の行動を疑問視しつつも多額の献金を理由にまともな調査をしなかった。事態が明るみに出てから手柄を横取りするなんて、まるで子供の言い訳だわ」
何を、と言いかけた司祭にフレイが慌てて止めに入る。
フレイは一歩前へ出て、前のめりになった司祭の腕をしっかりと押しとどめた。
「司祭様。我々の目的はあくまで館の調査にございます。尋問は、正式な場を設けてからでも遅くはありません」
フレイの言葉に司祭は大きく鼻を鳴らした。
「ベアトリス夫人。ここで貴女にとって不利な証拠が見つかった場合、私は貴女の長年の献身を鑑みて、減刑を申し出ようと思っておりました。
……しかし貴女には信心のかけらも残っていないようだ。非常に残念に思いますよ」
言いたいことを言い終えると、司祭はフレイの腕を振り払って、館の奥へと歩いていった。ベアトリス夫人は僅かに眉をあげただけだ。
ミディアはぽかんとして開いた口がふさがらない。
まさか大の大人が、司祭を務めるような人間が、あんな捨てせりふを吐くとは思わなかった。
「か、……恰好悪いですね」
ぼそっと呟くと騎士の何人かが小さく吹き出し、フレイが何とも言えない顔になる。
とにもかくにも、こうして館の調査は始まった。
禍々しい静寂のなかで、何が待ち受けているのか――誰にもわからないままに。
***
アレクシアが指示を出し、騎士団が分散して部屋を一つずつ改めていく。
ミディアは自由にしていいと言われたので、一人で館の中を歩いていた。
正面玄関から入った時にはあまり気にならなかったが、廊下を歩いて見てみるとあちこちに埃が積もっているのがよく分かる。
松明もついていない場所が多くなり、窓からの月明りがたよりになる。その窓も薄汚れて曇っていた。
マティスがいなくなり、困窮しているというのも本当のようだ。
美術品が置かれていたであろう空白もあちこち目立っている。館内にすれ違う者が滅多にいない。時折、メイドの姿を見かけるものの、最低限の人数しか雇われていないようだった。
いくつかの部屋を覗いてみたが、使われていない部屋はすっかり埃をかぶっている。
あるいは家具を全て売り払ったのか、何もない部屋も多かった。
これが栄華を誇ったドリスティオール家の館だとはとうてい信じられなかった。
残った者たちも再建に熱心ではなかったのだろう。実力のある者たちは沈みかけの船からさっさと逃げ出したと聞いている。
いくつかのドアを開けたのち、ミディアはひどく質素な部屋へとたどり着いた。
その部屋は家具を売り払われてはいなかった。
ただ、もともと家具が最低限しか置かれておらず、華美な装飾のいっさいないものばかりだった。
ここは一体なんだろうか。
場所からして、使用人の部屋ではないだろう。
すぐ側には書庫があり、執務室も近かった。
だとすれば、ここは。
部屋の中で佇んでいると、ふいに軋む音をたて戸が開き、ミディアは小さく飛び上がった。
ドアを開けて入って来たのはベアトリスだった。
ミディアが思わず息をのむと、夫人も驚いた様子で動きを止める。
どうやら夫人もミディアが部屋にいるとは思っていなかったようだった。
「す、すすす、すいません! あの、ええと、……今、出ていきますのでッ」
「あなたはロストバラン家のお嬢さんね」
「は、はい、……」
ミディアは縮こまってうつむいた。
夫人はミディアがマティス卿を葬ったことを知っている。
つまり自分は、──息子の仇にあたる人物だ。
「そう固くならなくても大丈夫よ。私はあなたを恨んだりはしていないわ」
「そ、そ、そう、なんです、か?」
「ええ。むしろ私は感謝しているのよ。あの子を、終わらせてくれたことに。あれは私の罪でもあったのだから」
ミディアが返す言葉に戸惑っていると、夫人は柔らかく微笑んだ。
「少し、昔話をしましょうか」




