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どうぞよろしくお願いいたします。

 改めてコボルトの商人から話を聞くには、人目を集めすぎてしまっていた。

 コボルトには後ほど鉄鼠衆のアジトに来てもらうことを約束し、ミディアとリリアナは街の探索を続けることにする。

 今度は鉄鼠衆の腕利きが用心棒としてついて来てくれることとなった。


 「センエイだ」


 男は低く、かすれた声でそう名乗った。

 それは、使い古された刃のように、ざらついた音を含む声だった。

 アキサメと同じく東方の出身らしく、撫でつけられた髪はぬばたまのように黒く、ひと房たりとも乱れていない。

 鋭く切れ長の瞳は、朔の夜の海のごとく底知れぬ静けさを湛えている。

 額から頬を斜めに走る一本の傷跡が、その目元の凄味をいっそう際立たせていた。


 だがその外見に似合わず、もともとは宮大工として身を立てていたそうだ。

 特に木組みと彫り物を得意としており、古寺の再建などにも名が挙がるほどの腕前だった。

 ただ、無口で威圧的な風貌が災いし、何かと面倒ごとに巻き込まれることが多かった。

 護身用にと始めた剣術だったが、木槌の代わりに握った竹刀で、師範代を叩き伏せてしまったという。


 以来は宮大工の仕事を続けつつも、アキサメに見出され、鉄鼠衆の実働部隊を率いる隊長となった。

 彼が振るう刃は、木を刻むときと同じで、一分の無駄もない。

 言葉は少ないが、部下からの信頼は厚い。――誰よりも手を動かすし、誰よりも前に出るからだ。


 そんな一番の手練れを残し、アキサメはやらかしたゴロツキを連れて鉄鼠衆のアジトに戻っていった。

 ……いや、正確には「戻された」と言うべきか。

 リリアナと一緒に街を回るのだと駄々をこねたが、あまりに見苦しいので部下に両脇を抱えられて連行されたのだ。


 「うえ~ん、リリアナちゃん! リリアナちゃん!!!! パパは先に帰ってるけど、リリアナちゃんもなるべく早く戻ってきてね! リリアナちゃんが大好きな煮魚に、焼き魚、天婦羅、お鍋! お刺身も忘れずに用意しておくからね!! デザートもパパがんばって用意しちゃうんだからね!!!」


 両脇を抱えられたアキサメは、まるで玩具を取り上げられた幼児のように両手足をじたばたと振り回す。

 砂地には引きずられた跡がくっきりと残り、そこに足を取られて転びそうになる通行人までいるほどだ。

 それでもアキサメはリリアナの姿が見えなくなるまで裏返った声で叫び続けた。


 ……その様子は、まるで夕暮れに置き去りにされた小型犬の遠吠えだ。

 ずっときゃんきゃん鳴いていて、少し気の毒に思える。

 いや、たぶん、毎度のことなのだろう。

 抱えている部下たちは、完全に無の表情だった。


 「リリアナ嬢のお父様は、その……、面白い方ですね」

 

 ミディアが言うと、リリアナは困り顔で眉を落とす。


 「困った人でしょう? ちょっと過保護すぎるのよ」

 「でも、その、それって大事にされてるって事ですよね」

 「ええそうね。でも心配性にもほどがあるわ」

 「それはその、そうでもないんじゃないかなぁ……」


 リリアナ嬢がしている事を考えれば、アキサメが過剰に心配するのも頷ける。

 むしろ厄介ごとには首を突っ込むなと言わないあたりは、かなり話が分かる父親の部類だろう。

 遠ざかっていくアキサメの声を聞きながら次に向かったのは噴水広場だ。

 かつてこの場所は貴族たちの憩いの場になっていたらしいが、今では露店が軒を連ね、商人や傭兵の姿も目立つようになっている。


 「これ、マティス卿ですよね」


 噴水広場には立派な銅像が立っていた。

 見覚えのある顔立ちにミディアはげっそりとした顔になる。

 ここに来るまでの間にもマティス卿の銅像は何度か見かけていたものの、全身像ははじめてだ。


 「ええ、そうね。ここ以外にも孤児院や図書館の前にもある筈よ」


 まだ倒されていなければの話だけれど、とリリアナが付け加えた。


 「と、図書館はともかく、その、こ、孤児院の前にも? だって、そのマティス卿は、……」

 「ええそうね。彼が孤児たちに行った仕打ちは決して許されるものではない。でもね、この街にとってのマティス卿はとても大きな存在なのよ。それに、……かつてのマティス卿は人々から聖人と呼ばれるのに相応しい男でもあった」

 「え?」


 驚いて声をあげるとリリアナは肩をすくめてみせる。


 「今となってはとても信じがたいでしょうけれど、紛れもない事実よ。あの男はある時を境に変わってしまった」

 「それは、その、ええと、どういうことでしょうか?」


 リリアナはしばし銅像を見つめたあと、ゆっくりと歩き出した。

 そうして歩を進めながら、言葉を吟味するように話しはじめる。


 「10年ほど前、わたくしがこの国へ逃れてきた頃、そのころのマティス卿はまっとうな男だったのよ。悪い噂なんてこれっぽっちもなかったし、実際そのころの彼は人身売買などには手を染めていなかったわ」

 「10年前というのは、……東国に巨大な魔瘴が現れた時のことですよね。東国は複数の島が集まった国家だと聞いています。ええと、その、なぜ他の島々ではなくラシャド王国に逃れて来たのでしょうか」


 ミディアはラシャド王国周辺の地図を思い描きながら首を傾げた。


 「あの頃の東国は戦乱の真っ只中だったのよ。島同士がそれぞれ別の君主をたて争っていた。わたくしの故郷であるジンエンもその一つよ」

 「ああ、つまり、最寄りの島国へ逃れる方が危険があったんですね」

 「そう聞いているわ」


 リリアナが頷くと、その後の説明をセンエイが引き継いだ。


 「……アキサメ殿が率いるゼファンの一族はジンエンの中でも発言力がありました。戦にも、多くの兵を輩出した。

 今の姿からは想像も出来ないだろうが、あの頃のアキサメ殿は、算盤を弾くよりも人を殺す方が得意だった。

 そんなお人だったから、最寄りの港に助けを求めても首を差し出される危険性が高かった。

 故に、東国を離れ、ラシャド王国まで逃れてきた。──我ら、鉄鼠衆をともなって」


 昔を語るセンエイの瞳は鈍く揺らぐ。そこには、まだ癒えぬ深い傷があるのだろう。

 センエイが目を伏せると、代わるようにして再びリリアナが口を開いた。


 「幸いというべきではないけれど、島々が集まった国家であったことから、魔瘴の被害はジンエンのみで抑えられたわ。未だジンエンは人の立ち入ることの出来ない”鬼ヶ島”だなんて言われているらしいけれど、東国そのものの存亡を揺るがすものにはならなかった」


 鼻から抜けたような微笑みに、諦めと皮肉とが同居していた。


 「──昨今では、我が家も東国との関係を修復し、ラシャド王国に東国の商品を輸入するための窓口になっているわ。それが、ゼファン家を支える基盤となっているのよ」

 「な、なるほど」

 「わたくし達、ジンエンの民の多くがこのサドランドの港に逃れてきた。港はそれはもう大変な有様だったわ。多くの者が怪我を負い、親しいものを亡くして悲嘆にくれていた。財産を持ってくる時間などほとんどなかったし、そのうえ、ラシャド王国の言語を喋れるものもあまりいなかったの。

 正直、サドランド領としては迷惑極まりない話だったと思うわ。国交が盛んなわけでもなかったから、追い出されても不思議ではない状況だった。

 そんな中、私財を投げうって救援にあたったのが、──あのマティス卿だったのよ」

 「それは、ええと、その、……」


 ミディアは戸惑った。

 マティス卿のことは最低な人間だと思っていたし、リリアナも彼に良い感情など抱いていなかったと思っている。

 だが今、リリアナから語られるマティス卿は称えられるべき人間だ。


 「もともと彼は光神ロタティアンの敬虔な信者で、教会や孤児院、それに図書館などにも多額の寄付を行っていたわ。

 莫大な資産を持ち、執政の腕においても群を抜いた実力を持っていたマティス卿は、ありあまるほどの財産があったにも関わらず、本人は贅沢を嫌いとても質素な暮らしをしていたの」

 「それが変わってしまった、……。その、あの『ご趣味』は持っていなかった、と?」

 「……わたくし、この国に逃れてきて間もない頃にマティス卿に会ったことがあるのよ。

 衣服はボロボロ、髪だってぼさぼさでとても見れたものではなかったわ。マティス卿はそんなわたくしにも優しく語りかけてくれた。

 でもね、わたくし気づいてしまったの。彼の目に、奇妙な怯えがあることに」


 リリアナはそこで声をひそめた。


 「あの時は何故だか分からなかった。こんなみじめな子供にどうして怯えるのかしらって。

 もしかして、疫病を持ってるんじゃないかと思われたのかしらとも思ったわ。

 でも、マティス卿は難民たちの救助に率先してあたっていた。病を恐れていたら前に出るなんてできなかった筈よ。

 だから猶更に不思議だった。

 でも、今は分かるわ。彼は自身の欲望に怯えていたの。幼いわたくしに欲情した自分に怯えていた」


 リリアナは黒髪を揺らしてにっこりと笑う。


 「確かに、あの人の嗜好は称賛されるものではないわ。でも……思うだけなら罪ではない。声にせず、手を出さず、己の中に留めていたのなら、それを責めるのは酷よ。

 妄想で遊ばれるのは決して楽しいことではないけれど、それでも、思うことは自由だもの。声に出さなければ、行動にうつさなければ、それは否定されるべきじゃないとわたくしは思うの」


 ミディアには、リリアナのように冷静に語ることなど到底できなかった。自分が“誰かの欲望の対象”として扱われる可能性すら、直視できていなかったのだ。


 「かつてのマティス卿は欲望を抑えこんでいた。きっと、ものすごく努力していたのだと思うわ」

 「でも……ある瞬間から突然歯止めがきかなくなった」

 「ええ、そう思えるわ。あれは確かに彼の本性だったわ。でも、それでも、彼は抑え込んでいた。

 けれど、まるで何かに心を侵されたように、あの人は変わってしまった。内側から噴き出したのではなく、外から引きずり出されたような……そんな異様さがあったのよ」


 強制的に引きずり出される。

 それはなんとも恐ろしい可能性だった。


 「なにが、きっかけだったんでしょうか。恐らく原因は異教徒かゾデルフィアに関連する何かに触れたことだと思うんです。

 でも、今のリリアナ嬢の話を聞くかぎり、かつてのマティス卿が自らそれに近づくようなことは、しません……よね」

 「そうね。何がきっかけだったのか。それを探しださなくては第二、第三のマティス卿が現れる可能性もあるわ」

 「そ、その、リリアナ嬢はマティス卿の変化を外的な要因だととらえている。でも、彼を許すつもりはないし、一族にも然るべき報いを受けさせようと思っているんでしょうか」


 恐る恐る尋ねると、リリアナは笑みのまま目を細める。

 そして、凛とした口調で断じた。


 「マティス卿の変化の原因がなんであれ、──犯した罪が消えることはない。

 本来の彼がそれを望まざるとも、過ちは確かに起こってしまったのだもの。犠牲になった人たちのことを思えば、許されるべきものではないわ」

 「そう……ですね。元に戻って罪を償う手段があればまた違うかもしれないですけど、あの時はもう、そういう状況ではなかったですし」

 「ええ、そうね。ドリスティオール家に関しては、ある意味でマティス卿本人よりも醜悪だわ。彼の行いを知っていて止めようともせず甘い汁を吸い続けていたのだから。正気であった分だけより罪深いように思えるのよ」

 「なるほど」


 リリアナの言葉には納得できる。

 ただミディアがリリアナと同じ立場であったならば、そこまで強い心で彼らを処断できる自信はない。 

 リリアナの黒曜石のような瞳にはいっさいの迷いも見当たらない。


 「……ああ、ほら見て。ここの銅像もまだ残っていたわ」


 ふいにリリアナが声色をかえて指をさす。

 かなりゆったりとしたペースで歩いていたが、いつの間にか孤児院の前にたどり着いていたようだった。


 「これは、……」


 孤児院は、まるでかつての貴族の学舎をそのまま移築したかのように堂々たる佇まいだった。

 風雨にさらされてもなお白さを保つ石造りの外壁は隙なく積み上げられ、重厚な鉄の門が陽光を反射して鈍く光っている。

 周囲を囲う石組みの塀は大人の背丈を優に越え、扉には簡易な施錠だけでなく、錠前の跡からいくつもの防犯強化が施されてきたことが伺える。


 敷地内には、舗装こそ粗いものの広い中庭があり、草の合間に踏み固められた地面が、子どもたちが日々駆け回っている証しとなっていた。

 剪定の行き届かぬ庭木は伸び放題で、風に揺れて軋む枝の下を、痩せた子供たちが声を上げて遊びまわっている。

 笑い声が、石壁に反響して弾むように響いた。


 「マティス卿が変わってしまった後も、ここへの資金提供は変わらずに行われていたわ。この街の孤児たちにとってマティス卿は命の恩人なのよ。周辺の村々の人がわざわざこの孤児院の前に来て子供を置いていくことも多かったわ。

 マティス卿が失脚してからは我がゼファン家が支援を行っているけれど、かつてと同じ水準を保つのは難しいわ。それほど多くの資金をマティス卿は惜しみなく注いでいたのよ」


 それはマティスの彫像からも見てとれた。

 この彫像の作り手は心の底からマティス卿を聖者と信じていたのだろう。

 頬に刻まれた一本の笑い皺からも、彫り手が抱いていた慈愛の念が伝わってくるようだった。


 「我が家としては、彼の銅像がまだここにある事に関しては思うところがあるのだけれどもね。

 それを強制的に撤去するのは難しいの。それほどに善人としてのマティス卿の影響は色濃く残っているわ」

 「そう、なんですね。それにしても、その、活気がありますね」


 以前より資金が不足していると言ったが、庭で遊ぶ孤児たちは皆とてもいきいきしている。

 痩せてはいるものの活動的だ。


 「そうね。マティス卿が支援していた頃には、ここの子供たちは色んなことを勉強し、主に貴族の家の下働きに入っていたわ。

 我が家が後援についてからは、様々なギルドで働いて、自分にあう仕事を探す形を取っているの。数字が得意な子もいれば、力仕事が得意な子もいるわ。

 一番多いのは造船所での仕事ね。ここは港街だから今でも沢山の船を作っているのよ。それと、鉄鼠衆に入りたくて頑張っている子も多いわね」

 「自分で、道を探せるなんて……それは、とても希望があることですね。ここの子供たちは希望を持っているから、あんなに元気なんですね」

 「ありがとう。ミディア嬢にそう言ってもらえると嬉しいわ」


 孤児院を後にして港を背に歩くうち、石畳は緩やかな坂道へと姿を変えていった。

 登るほどに空気から磯の香りが薄くなり、路地に面した建物の姿も変わっていく。

 軒先に干された網や壊れかけの扉は消え、代わりに蔦の絡まる鉄柵、白く磨かれた門柱、窓に施された彩色ガラスが目に入るようになる。


 坂を上るごとに、家々を囲う壁は少しずつ高さを増し、やがて人の背丈をはるかに超えた。

 まるで住人の不安の高さを映すように、それらの壁は堅牢で、美しく、どこか冷たい。


 ドリスティオール家の栄華に群がっていた貴族たちは、今では多くが門を閉ざしていた。

 花壇に手入れの跡がなく、沈黙した屋敷がぽつぽつと続く。


 そして、坂の終点。

 街で最も高いその場所に、巨大な影がそびえていた。


 ──それはもう屋敷ではない。城だった。


 無数の尖塔が空を突き刺し、石の壁はまるで要塞のように周囲を睥睨している。

 この邸に住まう者こそが、この地の王と呼ばれるに相応しい。

 質素な暮らしを好んだというマティス卿の伝説が、まるで幻に思えるほどだ。


 ミディアは思わず足を止め、息を呑んだ。

 これまで幾つもの貴族邸を見てきた彼女ですら、そこに立つことをためらわせるほどの、威圧感があった。


 「……い、今、この屋敷には誰が住んでいるんでしょうか」


 ミディアは声を潜めて尋ねた。

 大きな声を出せば、あの屋敷に咎められるのではないかと、そんな気持ちにさせられるのだ。


 「マティス卿の母君にあたる方を中心に、血族の者たちが何名か身を寄せているわ。個人として力があった者は国外に逃げていったから、ここに残っているのはその力のない者たちか、かつての栄光に縋りつこうとしている者たちばかりね」

 「マティス卿は奥様はいらっしゃらなかったのですか?」

 「サドランド領の伯爵家から嫁いできた奥様がいらっしゃったけれど、あいにくと子供には恵まれなかったの。あの事件が発覚してからは、夜の営みすらなかったのではなどという下世話な噂話も飛び交っていたわ」


 それは、あながち噂話だけではなかったかも知れない。

 事実、マティス卿はミディアの前で「妻は女としての価値がなくなった」と嘆いていたのを思い出す。


 「奥方はマティス卿が亡くなった直後に籍を抜いて実家に帰っていったようね。ドリスティオール家の没落がこうも速かったのは、マティス卿が跡継ぎを作っていなかったことにも起因するのよ」

 「なるほど。実力者は国外に逃亡し、残った者たちは跡継ぎの座を狙って足を引っ張りあったんですね」


 かつて威光を放っていた屋敷は、今や魂の抜け殻のように沈黙していた。

 雄大さがそのまま冷たさに変わり、目の前の建物はまるで豪奢に飾られた棺のようだった。

 庭の植栽は枝がもつれ、黒ずんだ葉が風もないのに垂れ下がっている。

 枯れ枝がまるで骨のように突き出しており、手入れの気配は随分と絶たれたようだった。

 近づいてみれば、窓は薄汚れており中の様子も伺えず、割れたりヒビが入っているものも見てとれた。

 門番に立つ私兵らしき男はいかにもやさぐれた顔つきで、姿勢もどこか歪んでいる。正規の騎士ではないだろう。


 この館にゾデルフィアに関する情報が眠っている可能性がある。

 一刻も早く踏み込みたいが、今はまだそのための準備が整っていなかった。

 ……そう、準備が整えばこの場所に踏み込むことになる。


 そうしたいという気持ちと同じくらい、足がすくむ気持ちもある。

 単純にドリスティオール家が怖かったし、その館を調べることを快く思わない者たちがいる筈だ。

 つまりそれは、ゾデルフィアに関わる者たちで、彼らに対しての明確な宣戦布告となるだろう。

 どれほど危険な藪をつつくことになるだろう。敵対者の数を掴めていないのが現状だ。


 その時ふいに背筋を冷たい気配が貫いた。

 ミディアは弾かれたように館の窓を振り仰ぐ。

 城塞のごとく堅固な外壁、その窓の一つからこちらを見下ろす気配がある。

 なんだろうか。

 魂が握りこまれるような冷たい気配。

 目を凝らせば凝らすほど、心音が細くなっていく。

 そしてある瞬間に、全身が粟立つような強烈な敵意に襲われた。


 「み゛ッ!!!!!!!!」


 思わず尻もちをつきそうになって、傍らのリリアナにしがみつく。

 傍らではセンエイが刀の柄に手をかけた。


 「ミディア嬢? いけませんわ。いくらわたくし達の仲とはいえ、まだ日も明るいうちからこんなこと!」

 「なななななな、なにもやましい事はしてないですし、今までもしたことなかったですよね!!!!」


 わざとらしく顔を赤らめてみせるリリアナに、ミディアは慌てて声をはりあげる。

 おかげで、恐怖感は薄まった。


 「ととと、とにかく! い、今は、帰りましょう!!!!」


 はやく、はやくとリリアナの腕を引いて歩き出す。

 その背中には何者かの視線が張り付いていて、今も冷や汗が止まらない。

 あれはなんだ?

 一体なにがいるのだろう。

 だが、あの恐ろしい気配を知っている。

 あれはそう──。


 凶悪で悍ましいあの気配は、魔人と同じものだった。

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