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三日の後──。
赤いカロの月が落ち、太陽がゆっくりと昇り始める。
果てまで広がる大森林に、真白な陽の光が差し込む。朝霧のなかに、淡く七色の虹が浮かび上がっていた。
まるで“時”という概念そのものが、凪いだ空気に溶けてしまったかのような、穏やかな世界。
浄化の儀は、静謐な夜明けとともに始まった。
大魔法と同じように魔瘴を封じる浄化の奇跡も詠唱には長く時間がかかる。
聖女エレナローズは塔の中央で膝をつき、手をあわせ、祈りを捧げていた。
ミディアは、結界魔法陣の発動をぎりぎりの段階で抑え込みながら、エレナローズの祈りを凝視していた。
癒しの奇跡と同じく、精霊の名を最後に唱える帰名式の詠唱。
それは、周囲のエーテルを集める術式からはじまった。浄化の術式は命が危ぶまれるほどに膨大な魔力を必要とすると聞いている。もとより一人の力では到底足りるものではない。だから、はじめにエーテルをかきあつめる。理にかなった術式だ。
騎士たちは一斉に息を詰め、わずかな音さえも立てぬよう静まり返っていた。
ただ呼吸のたびに鎧の隙間から白い息が漏れている。
巨大な術は発動の前段階で周囲のエーテルの濃度を変えていく。いずれかの時点でモンスターも異変に気が付くことだろう。彼らは人間よりも鋭い感覚をもっている。
──その瞬間は、そう待たずして訪れるに違いない。
アレクシスは聖女のすぐそばで構えている。
ヴェルドレッドとアレクシアは塔の前面でジュード達魔術師と弓兵隊とともにおり、正面門のすぐ内側ではヴェルドレッドが伴ってきた重騎兵が待機している。
エレナローズの祈りの声が朝のはりつめた空気の中に響いている。
祈りは異国の歌のようで、魔術師が用いるスペルとは響きが少しずつ異なっている。
ただ、よく聞き取ればその根本はやはり精霊魔法と同じ術式だ。魔術も様々な流派があり、今は使われなくなった古い精霊語も存在する。奇跡の祈りは、そんな古い時代の言葉によく似ている。
難しい。だがなんとか読み解ける。
幸いであるのは術を丸暗記する必要はないことだ。大まかな体系を理解出来れば、細かな拡張式の組み込みはある程度は応用が効くだろう。
「モンスターに動きは?」
ヴェルドレッドが物見の兵に問いかける。兵は望遠鏡を覗き込みながら首を振った。
「ありません。いまだこちらの動きには気が付いていないようです。……いえ、敵陣に動きあり! 飛行部隊、飛び立ちました!!!!」
「来たか。ミディア嬢、結界魔法陣は?」
「発動、可能です!」
ミディアは声が震えそうになるのを精一杯に抑えこむ。
結界魔法は用途を絞り、複数回に渡って発動可能なように調整した。結界で防ぐのはワイバーンの炎のみに対してだ。
「ワイバーン、目視確認! 弓兵隊、構えッ!!」
トンっと杖を魔法陣の上に置く。
大丈夫だ。大丈夫。
やれる。私はちゃんとやれる。
ワイバーンは垂直に天へと翔け上がり、翼を折るようにして砦へ滑空してきた。
牙の間から炎をあふれさせ、一気に距離をつめてくる。
「風の精霊エアロフよ、御身は盾、御身は帳、我らを包み守りたまえ!! エアリアルシェルティアン!!」
炎とは、ただの熱ではない。
それは、焼き尽くすという意志を持った、圧倒的な暴力だ。
熱と力が一塊となって押し寄せた瞬間に、ミディアは結界を発動する。
「うううッ!」
途端に体が重くなる。地面に押しつけられるような感覚だ。
杖が、まるで鉛のように重い。先端が上がらない。
思わず膝をつきそうになる激しい重圧に襲われる。
でも駄目だ。
負けられない。
魔力量だけなら特級品。
だから、──その力で以て押しかえす。
ゴォオオオっと炎が音をたてる。直接の火を防いでも周囲の温度はじりじりとあがり、髪の毛の先が焦げそうだ。
熱い、重い。手がぶるぶると震えたところでふっと重圧が消え去った。
ワイバーンが上空へ飛び去った。砦に被害は出ていない。
「よくやった、ミディア嬢! まだやれるか?」
ヴェルドレッドの声に、ミディアはぜえぜえと息を切らしながらも頷いた。
幸いにしてワイバーンは連続で炎を吹いてこない。次の滑空までは余裕がある。一度結界を解除して、再度魔力を溜めていく。
ワイバーンの強襲を皮切りにモンスターの進軍が始まった。
魔瘴のある森からどっと溢れ出すようにモンスターが攻めて来る。
それを受けて砦の投石機が動き出し、重くしなる音をたて大きな石が飛んでいく。着弾地点でゴブリンが押し潰され、地面に紅黒い染みが咲いた。岩の破片とともに、肉片が舞う。
「弓兵隊構えぇえええええ~~~~~~ッ!!!!」
長弓の弦が大きくしなる。射程に入ると同時に矢が放たれ、雨あられのごとくに降り注いだ。
だが、モンスターの勢いは衰えない。濁流のごとく砦に向かって押し寄せる。
砦と大森林の間には深い峡谷があるものの、一部のモンスターは峡谷を飛び越え砦に攻め込めるほどの跳躍力をもっている。攻め込まれれば砦は弓兵や投石の攻撃を封じられることになる。なんとしても近づける訳にはいかないのだ。
投石と矢が注がれ、そこに魔術師たちの炎の矢が放たれる。前線はわずかに崩れたが、それでも勢いは止まらない。
「敵陣にトロール!!!! 投擲、来ますッ!!!!」
物見が叫ぶ。
目を凝らせばトロールは大森林の大木を悠々と引き抜くと、槍のごとくにそれを投げてきた。
ドォンっと音が響き砦が揺れる。外壁の一部がえぐられて、石が崩れていく音がする。
「2体目のトロールを発見ッ!! いや、3体、4体いますッ!! 巨木を投擲、……こちらに、ッ」
再びの爆音。大木は今しがたまで物見がいた場所に突き刺さった。すぐさまかわりの兵が駆けよると、物見を引継ぎ敵陣の様子を報告する。
「トロールが4体、……随分と増えたな」
距離が近いアレクシスが呟く声が聞こえてきた。
確かに三日前の防衛線ではトロールの数は1匹だけだったと聞いている。それが一気に4倍に増えた。それも、あちら側にはいくらでも投擲するための木があるのだ。大きな脅威になるだろう。
結界を張れば、トロールの投擲も防げる──でも、使えばそれだけ炎に耐える力が削れる。
選ばなければならない。どちらを守るか。どちらを捨てるか。
「騎兵で打って出るッ!!」
ヴェルドレッドが声をあげた。従者から兜を受け取るとマントを翻して歩き出す。
「アレクシス、ここはお前に任せるぞ」
「任されました、父上」
わずかな間、親子は見つめあう。だがお互い、歩みを止めることはない。
ヴェルドレッドは階下に向かうと重装備の黒馬にまたがった。
ヴェルドレッド率いる重騎兵の黒馬は、通常の軍馬よりも二回りは大きく、圧倒的な質量を備えた巨躯だ。その脚力は総重量がゆうに100キロを超える装備であっても、風のごとく駆けるほど逞しい。
黒揃えの鎧をまとった二十騎の重騎兵。
その中でヴェルドレッドの兜だけが燃えるような赤い羽根飾りをつけている。
「門を開けッ!!!! 跳ね橋をおろせッ!!!!」
号令とともに軋む音をたて門が開き、跳ね橋が勢いよくおろされる。
濁流のごとき魔物達の大群を前に、騎兵たちは一斉にバイザーをさげた。
そこにあるのは、人ではなく、鋼鉄の騎士。
騎兵とは、すなわち──“突撃”である。
跳ね橋がおりると同時に鉄の脚が地を蹴れば、轟音が大地を震わせる。
突撃に特化したランスを構え、一軍となって動く様は、一振りの槍と化したかのようだった。
ヴェルドレッドを先頭に楔形陣形で敵陣のど真ん中を突き進む。突撃を止められる魔物はいなかった。
まるで無人の野を駆けるがごとくに騎兵は敵陣を突破する。魔物の群れは騎兵によって二分され、進軍の気勢をそぎ落とす。
大木を構えたトロールは、ターゲットを捉え損ねた。
その横手を騎兵が怒涛のごとく駆け抜ける。ランスはトロールの足を切り裂き、ついで脇腹を深く抉りとる。だがそのまま止まることなく今度は大きく迂回した。そのまま次のトロールに狙いを定め再度の突撃を敢行する。
「上空にワイバーンっ!!!! 来ますッ!!!!」
騎兵の突撃に見とれていた。物見の声にはっとする。
杖を構えればすでに上空からワイバーンの影が迫ってくる。
「結界発動!! エアリアルシェルティアン!!」
炎の直撃を受け止めれば、体がズンっと沈み込む。だが二度目だ。負荷への覚悟は出来ている。
それがどれくらいで終わるのかも分かっていれば、歯を食いしばって耐えられる。
ミディアの目算とほぼ同じ頃合いでワイバーンのブレスが和らいだ。そのまま飛び去り次のブレスまでの間はしばし上空を旋回する。
そう思った。
だがワイバーンは翼を羽ばたかせホバリングをした後に、再び砦に降りてくる。
地響きとともに砂塵が舞い上がり視界をふさぐ。
「伏せろッ!!!!」
アレクシスの声にとっさに身をかがめれば、頭の上をワイバーンの尻尾がかすめていった。塔の端にいた弓兵隊の幾人かはかわしそこねて跳ね飛ばされ、砦の外へ落ちていく。
ブレスが効かないと悟ったワイバーンは塔の上へ降り立った。直接の攻撃に切り替えたらしい。さすがはドラゴン族の末裔だ。思った以上に知恵が働く。
……などと感心している場合ではなかった。
ミディアはすぐさまエレナローズの元に駆け寄った。
まだ結界魔法は発動できる。塔の上部すべてを覆うほどのものでなく、エレナローズを守るためのものならば、すぐにでも発動が可能だった。
案の定、ワイバーンは聖女に向かって振り返ると、鉤爪を大きく振り上げる。
「させるかッ!!!!」
アレクシスが地を蹴った。体勢を低く疾駆すれば、鱗の薄い腕の付け根へ切っ先を鋭く突き上げる。
飛竜が吠えた。
聖女を狙った鉤爪がアレクシスへと狙いをかえておろされる。アレクシスは素早く後ろに飛びのくと、おろされた鉤爪に飛び乗ってワイバーンの体を駆け上がった。ワイバーンは振り落とそうと体をふるわせるが、アレクシスは落ちる前に翼膜を深く切り裂いた。
「下手くそなダンスだな。どこでステップを教わったんだ?」
着地したアレクシスが不敵に笑う。
「兄上のエスコートが下手なのだろう?」
その傍らにアレクシアが並び立った。兄妹は視線を合わせて笑いあうと息をあわせて切り掛かる。
それはまさしく舞踏だった。一方的な、蹂躙という名の死の舞踏。
モンスターの中では上位種であるワイバーンをもってして、ゴッドウィン兄妹の前では稚戯のようなステップだと笑われる。
ワイバーンの表皮は強靭だが、鱗の薄い箇所を切り裂かれ、露出した箇所へとジュード達が攻撃魔法を叩き込む。
「降りてきたのが運の尽きだったな」
跳躍したアレクシアがワイバーンの目を貫いて、勝負はそこでついていた。巨体が塔の上に倒れ伏す。
「持ち場に戻れッ!!!! 怪我人を運べ!! 戦えるものは父上を援護しろッ!!」
アレクシアはすぐさま塔の前面へ戻っていく。ワイバーンの討伐など些事であるらしい。
エレナローズの光の奇跡は完成に向かいつつあった。
周囲に漂うエーテルの粒子は、聖女の力に変換され魔法陣を浮かび上がらせる。
あと少しだ。これなら魔瘴を封じられる。
──刹那、音が消えた。
否、“消えた”のではない。空間そのものが、音という概念を拒絶した。
周囲の空気が、認識という枠組みごと歪んでいく。
これは、なんだ?
ミディアだけでなくアレクシスやアレクシアも不安げにあたりを見回している。
音がない。音という音が死んでいる。
空気が滞留し、呼吸ができない。
ふいに鼓膜が膨張する。
音が戻る。
最初に感じたのは地を這うような重低音とその振動。
大地が震え、悲鳴をあげる。
すべての音が戻ってくる。
そしてミディアは見た。
魔瘴が渦巻き、その中央からおぞましい鉤爪が突き出すさまを。
爛れた肉塊にはりつく黒い爪。それを見ただけで、耐えようのない怖気がこみあげる。
兵の誰かが悲鳴をあげた。
同時に、倒れ伏していたワイバーンがゆっくりとその巨体をもち上げる。傷口はこの短期間というのに膿み爛れ、腐った肉が削げ落ちる。骨をのぞかせてなおもワイバーンは首をもたげて立ち上がる。
再びの悲鳴。
蘇ったのはワイバーンだけではない。
撃ち落とされたイビルバットに射殺されたゴブリンたち。さきの襲撃で焼かれたモンスターの中からも歪に立ち上がる影がある。
これはなんだ。
ミディアは杖をつかんだまま絶句する。
魔瘴の報告は数あれど、こんな事象は今まで聞いたことがない。
確かなことはただ一つ。
これが絶望であることだ。




