⑨
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モンスターの侵攻は苛烈だった。
ミディアのいる治療室は怪我人であふれかえり、砦の外壁はワイバーンのブレスで焼け焦げて、トロールの投石によって大きな穴が開いてしまった。
夜に始まった侵攻は朝まで休みなく続いたが、赤い月カロが傾き、地平線に沈もうとするころ。
まぶしい太陽が山裾を焦がすように、ゆっくりとのぼり始めたころ、ようやく魔物の波は引いていった。
モンスターが引いていったその後には、すさまじい破壊の後と、おびただしい死体が残された。
ミディアにとって、悪夢としか言いようのない一夜だったが、騎士たちに言わせれば、一夜で去ってくれただけでも、まだ“まし”な方だという。
国同士の戦いともなれば、三日三晩、あるいはそれ以上、不眠不休で戦い続けることもあるらしい。
「魔瘴によって生み出されたモンスターは、夜間に活発になるのです。とくにあの赤い月が天にある間は狂ったように暴れます」
騎士の一人がそんな風に教えてくれた。
昔から赤い月が登る夜は不吉だと言われている。実際、魔塔の研究者が調べた統計でも、赤い月が満月の夜ほど魔物の襲撃が増えるそうだ。魔物だけではなく、犯罪の数も増えるのだと聞いている。
ミディアも幼かったころには、赤い月が空に登ると恐ろしくてベッドに潜り込んでいたものだった。
今のミディアは、もう月を見て怯えて隠れることはなくなった。
けれど、激しい戦いの爪痕を目の前にすれば、改めてその恐ろしさが湧き上がってくる。
大きな被害が出てしまった。
それでも一度、戦いは終わった。
すぐにでもまた回復魔法陣を使いたいところだったが、魔術師たちは皆、すっかり疲れ切っている。魔力もほとんど使い果たしてしまっており、今、回復魔法陣を発動させれば命が危うくなるだろう。
結界魔法ではなく、回復魔法の魔法陣を作っておけば良かっただろうか。だが結界さえ発動出来れば怪我人自体が減るだろう。
どちらを優先させるべきかは、……とても難しい問題だ。
少なくとも、現時点で発動しつつある結界魔法陣を解除して改めて回復魔法陣を書き直すのは時間のロスになるだろう。
難しい。
あれもこれも選び取れるほどの力は、自分にはない。どうしても何かを切り捨てることになる。
その結果として、目の前で苦しんでいる人々を救えない──その現実が、ひどく胸に痛んだ。
兵士たちは黙々と動いている。
開いてしまった穴をふさぎ、積みあがったモンスターの死体を燃やし、傷んだ武器を手入れする。
何とか生き残ったものの、その表情は決して明るいとは言い難い。
「見ろ、誰か来るぞ!」
「あれは、……ヴェルドレッド様だッ!!!!」
「ヴェルドレッド様が戻って来たぞ!!!!」
ふいに兵士たちが活気づいた。
ミディアも小窓に駆け寄れば、二十騎ほどの騎兵が、砦へ向かって駆けてくる。
その先頭を駆ける男は、馬上にいても分かるほど威風堂々とした風格があった。
騎兵が砦に近づくにつれ、兵たちは作業の手を止め、自然と迎えに出ていた。
アレクシスとアレクシアも目に見えて分かるほど表情が明るくなっている。
そうしてやってきた男は、大きな黒馬からひらりと降りれば駆けよったアレクシスとアレクシアを両腕でがっしりと抱きしめた。
「よくぞ砦を守り切った。お前たちもよく戦ったな」
ヴェルドレッドは兄妹を抱きしめながら、集まった兵士たちを見回して穏やかに声を投げた。
──この男がヴェルドレッド・ゴッドウィン。
ミディアは砦の小窓から、そっと男を観察していた。
熊と呼ばれているのも、なるほどと思わせる。
ミディアの父よりはるかに大きく、身長はゆうに二メートル近い。
太い腕と腿はまるで樫のようで、鎧の上からでも筋肉の隆起がはっきりとわかる。戦場という鍛錬場で磨かれた肉体は、確かに獰猛な獣のようだ。
顔立ちも無骨で、額に走る戦傷の痕が、歴戦の誇りを物語る。黙っていれば威圧的ですらあるその顔が、ふと綻ぶと、嘘のように柔らかくなる。
深い茶色の髪は硬い癖毛で、兄妹たちとはまるで色味が違っていた。父の言葉通り、兄妹は母親似なのだろう。
兄妹の母は王家の遠縁であると聞いている。ゆえに美しい金髪を持っているのだ。
ヴェルドレッドを見つめていると、その後ろからローブをまとった細身の女性が現れた。
先ほどまでは騎士たちに囲まれていたせいで、姿が隠されてしまっていたのだろう。
女性がそっとフードを外せば、アレクシスが驚いた顔になる。
「エレナ嬢?」
息を呑むほど、美しい女性だった。
年の頃はミディアよりいくぶん上。アレクシスと同じくらいだろう。
肩にかかる金色の髪は陽光を受けてやわらかく輝き、緩やかな波がそのまま聖性の象徴のようだった。
だが、それ以上に目を引いたのはその瞳だ。
澄んだ翡翠色の瞳は、風の凪いだ湖面のように神秘的だ。
見惚れるような美しさの中に、揺るぎない意志と誇りが秘められている。
「ええ、アレクシス様、お久しぶりでございます。聖女エレナローズ、魔瘴を封じるために参りました」
その言葉にアレクシスの双眸が動揺して大きく見開かれた。
***
「エレナローズと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
ミディアとジュードは砦の作戦指令室で改めてエレナローズを紹介された。
洗練された所作と天性の美貌。おそらくかなり高位貴族の出なのだろう。
ただ、聖女になると貴族姓を捨てることになるために、どこの貴族なのか分からない。ミディアがもう少し社交界に明るければ当然分かることなのだろうが、残念ながら研究一筋のミディアにはまったく見当がつかなかった。
ちらりとジュードの顔を見てみるが、ジュードも何も言わないので恐らく分からないのだろう。
彼もまた魔塔の人間だ。それに社交界では別の意味で評判になっているのでパーティなどはことごとく避けていると聞いている。社交においては、ミディアと五分五分といったところだろう。
意外な反応を見せているのはアレクシスだった。
「エレナ、なぜ君がここに来たんだ」
「おかしなことを仰いますわね。それは私が聖女であるからに決まっておりますわ」
「そうではない。聖女は他にもいるだろう。なぜ、君なんだ」
「私、だからですわ。私だからこそゴッドウィン家の窮地にもっとも早く動いたのです」
朗らかに微笑むエレナローズに、アレクシスは珍しく苛立った様子を見せている。
「父上もなぜエレナを連れてきたのですか?」
水を向けられたヴェルドレッドは、鷹揚に肩をすくめてみせた。
「なぜってのはどういう事だ?」
「こたびの魔瘴は、ここ数年の間に発生した中でもかなり大きなものとなります。それを封じるのがどれほど危険であるか、父上はよく分かっておいででしょう?」
「そら、知ってるさ」
「ではなぜ!!!!!!」
「その言葉、そっくりお前に返すぞ。なぜ、エレナ嬢では駄目なんだ?」
「それは、……」
「危険だから、命に関わるかも知れないから、だから見ず知らずのやつに任せたい。そういう話か?」
アレクシスが押し黙るとエレナローズが口を開いた。
「アレクシス様、ヴェルドレッド様の言う通りでございます。私がゴッドウィン家と旧知であるからこそ、ここに来たのでございます。私であれば、……迷いなく命を賭けられる」
「……そもそも、なぜ貴女は“聖女”という道を選んだ? それほどの身分があれば、そんな危険な道を歩む必要はなかったはずだ」
「おかしなことを仰いますわ。それでは貴方様に伺いましょう。なぜ貴方はその手に剣をとったのです? 貴方が危険を犯し戦場の最前線に立たずとも、十分に生きていけたでしょう」
なんだか凄く重い話になっている。
ミディアは身の置き場に困っていた。
事情がよく分からないので、どんな顔をしてよいか分からない。質問を出来る空気でもないし、そもそも完全に蚊帳の外であったからどうしてここにいるのかも分からない。
……とても気まずい。
家族や恋人同士のもめごとにうっかり頭を突っ込んでしまったような感覚だ。
とにかくエレナローズさんはゴッドウィン家とはつながりが深い貴族のご令嬢なのだろう。家格が高いため聖女を断ることも出来ただろうが、アレクシスのように自分の力をいかんなく発揮することを選んだようだ。
「しかしエレナ嬢、あなたは貴族として生きることを望んでいたはずだ。何年も淑女としての教育を熱心に受けてきた。それをなぜ今になって、……」
「アレクシス」
その言葉を遮ったのは、ヴェルドレッドだった。
「エレナ嬢は自分でよく考えて覚悟を決めてここにきた。その決意を勘ぐるってのは随分と失礼な話だぞ」
アレクシスはぐっと言葉を飲み込むと「失礼します」と言い捨てて足早に部屋を出ていった。
残されたミディアが困っていると、ヴェルドレッドがにかっと笑顔を向ける。
「おお、お嬢ちゃん、挨拶が遅れて悪かったな。俺はヴェルドレッド・ゴッドウィンだ。ロベルトのやつから何か聞いてるかも知れないが、見ての通り細かい気遣いやらは苦手でな。だが、不自由があれば出来る限りは善処する。そういう時は遠慮なく声をかけてくれ」
「ふ、ふえぇええええっ!!!!」
いきなり声をかけられたミディアは、背筋を伸ばすどころか思わず数センチ飛び上がった。
「あああ、わわわわわわ、わわわわたくしは、みぃいいディア、ろろろろすとばりゃんでござマンス」
……噛んだ。
盛大に噛んだ。
死にたい。地面に埋まりたい。
落ち込んでいるミディアの横で、ジュードはそつなく挨拶をこなしている。
ヴェルドレッドは二人の挨拶を聞いてから、豪快に笑い声をあげるとぽんぽんと肩をたたいてきた。大きな笑い声とは裏腹に、肩を叩く手は驚くほど優しく、まるで父親に背中を押されているような気持ちになる。
「よろしく頼むぞ、魔術師どの。この砦に来てくれたこと、心より感謝する」
「ああああああ、あありがとございますっ」
「光栄です、ヴェルドレッド様」
「さて、ろくに歓迎も出来ずに申し訳ないが、俺は砦を回ってくる。貴殿らも持ち場に戻ってくれ」
ようやく解放されたミディアは、ドタバタと、逃げ出すように指令室を後にした。
恥ずかしい。とっても恥ずかしい。
ヴェルドレッドは父の知り合いだ。そんな相手に情けないところを見せてしまった。
こういう時は別のことに集中して頭の中をいっぱいにしてしまうのが一番なのだ。
ミディアは側防塔へ駆け上がる。そうして、半ばまで完成した魔法陣を仕上げるべく作業に没頭した。
***
側防塔には争いの爪痕が色濃く残っていた。
あちこちが破壊され、血痕が飛び散り、折れた矢がそこかしこに落ちている。
塔から見える光景もまた壮絶だった。
折り重なったモンスターの死体。
兵士たちが死体を運んで一か所に集めて焼いている。その煙はひどく嫌な臭いがした。生臭い臭いに硫黄の臭い、様々な臭いが混じりあい、ツンと鼻の奥が痛くなる。魔物によって毒になるような成分も混ざっているのかもしれない。
それだけたくさんのモンスターが死んだというのに、大森林の魔瘴の下には今も多くのモンスターが集まっている。あるいは、魔瘴から改めて出てきたのか。その数が減ったようには見えなかった。
怪我をした兵士たちは聖女様が光の奇跡を施しに向かったようだ。
だからミディアは改めて結界魔法の構築に取り組んでいる。
焼け焦げた跡や、投石の跡。刺さった矢じりを検分して、必要な強度を組みなおす。
一度魔法陣を完成させたあとであっても、魔法として発動する前ならばいくらでも手直しが可能だった。それは、ミディアの魔力変換の遅さゆえの利点と言えるかもしれない。
昨夜のミディアは絶望と無力感の中にいた。
今もその重苦しい気持ちはずっしりと心の中に残っている。
それでも、こうして夜が明けていくのを見ていると、ほんの少しだけでも前に進める気がするのだ。
少しずつでも手探りでも進んでいくしかない──そう思えた。
「こんにちは、魔法使いさん」
魔法陣に集中していたミディアは、声をかけられてはじめてエレナローズが傍らに来ていた事に気が付いた。
なんだか魔法陣を描くたびに、毎回、誰かに声をかけられて驚いているような気がする。
「こここ、こんにちは、エレナローズ様、ええとその、ええと、ご、ご機嫌うるわしゅう」
慌てて立ち上がってお辞儀をするとエレナローズは口元を抑えてくすくすと笑った。
「いいのよ、かしこまらなくて。今の私は貴族ではないもの」
「で、でも、その、聖女様、ですし」
「聖女は身分を捨てるのよ。ご存じでしょう? そうね、まぁ実際には、元の身分が大きく物を言うのは確かだけれどもね」
「は、はい、……」
「でも、私と貴女では家格はさほど変わらないわ。私はアレクシス様の従妹にあたる血筋よ。よろしくね」
「ははは、はい、よろしくお願いします」
ミディアはびゅんっと勢いよく頭を下げた。
「お邪魔をしちゃってごめんなさいね。外の空気を吸いに来たのよ。少ししたらまた中に戻るわ」
「い、いえ、お声かけ頂きありがとうございます」
エレナローズは淑やかに一礼すると、ゆったりと歩き去っていった。
その後ろ姿は、まるで絵画から抜け出してきたような、気品ある淑女の姿だった。
アレクシスの言う通り、なぜ彼女は聖女になることを選んだのだろう。
自分の持つ力で誰かを助けたいのだとして、それが聖女でなくても良かったのではないだろうか。
例えばミディアのように魔塔に入るという手もある。
平民の中で魔力を多く持つ少女が聖女になることを選ぶのは、聖女という役職が身分を問わないことが大きいのだ。そして何よりも、生活を教会がみてくれる。
魔塔は学ぶものに分け隔てなく門戸を開いていると言うものの、実際には試験を受けるにもお金がかかるし、魔術師として生計を立てるのには時間がかかる。
だからやはり、高位貴族であるエレナローズが聖女の道を選んだのは、ミディアからみても不思議だった。




