悪鬼潜行 レコノミカン
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ゴブリン討伐から帰還したことで、アレクシアの遠征に随伴するという契約は終了した。
ミディアはしばしの休息を得て屋敷へと戻ると、真っ先に『未来視』を試すことにした。
アレクシアは「現状は変化した」とはっきり言っていた。
ならば、その変化が未来にどんな影響を及ぼしたのか。あの絶望は、果たして回避できたのか。
――知りたくなるのが人の性というものだ。
ミディアは再び『未来視』の魔法陣を描いた。
だが、魔法陣はうんともすんとも言わなかった。
「魔法陣の配置は合ってるはず……でも、発動させようとすると、何かが足りない」
爪を噛みながら、ぶつぶつと呟く。
ミディアの部屋は、床も壁も魔法陣や魔術文字で埋め尽くされていた。
貴族令嬢らしい豪華なカーペットや絵画の類など、もはや影も形もない。
本棚に収まりきらなかった魔導書があちこちに積み上がり、その合間に魔石入りのランタンがいくつも灯っている。
「床や壁に直接書き込むな」とは何度も注意されたが、研究に没頭するとつい忘れてしまう。
気づけば魔術の式や補助陣をひたすら書き込み、空間は実験室さながらの様相を呈していた。
本来、魔法陣は杖の先に魔力を込めて描くものだが、研究や設計段階では見直しやすさを優先し、記録として残せる形で描くことが多い。
正式なレポート提出時にはペンを使う必要があるものの、試行錯誤の段階では、木炭でがりがりと書き殴る方がミディアには合っていた。
ここ数日、未来視の陣にかかりきりになっていた彼女の指先と爪の中は、すっかり木炭で黒く染まっていた。
「精霊の力が変化した?」
おかしい。どうしたっておかしい。
この魔法陣は、一度は確かに『未来視』を成功させたはずだ。
だというのに、今まったく同じ魔法陣を描いて何度試しても、発動しない。
書物と見比べても、魔法陣の並びに違いは見られない。
だが、いざ魔力を流し込もうとすると、発動に至る前に流れが断絶してしまう。
魔法陣とは、精密な歯車で動く機械のようなものだ。
魔力という動力を流し込むことで、複雑に組み合わさった歯車が回転し、魔法が発動する。
精霊言語は複雑で、拡張術式も順序によって意味をなさなくなることがある。
どこか一つでも歯車が噛み合わなければ、魔力の流れはそこで滞り、魔法は動かなくなってしまう。
まさに、今起こっているのはそれだった。
どこかの歯車が足りていない。
つまり、魔導書に記された魔法陣は“完全なもの”ではなかった可能性がある。
他に考えられる要因は、……
特定の精霊の力が変動した場合、あるいは不安定な状態にある時などは、拡張術式を組み替えたり、安定化を多目にはさまなくては精霊暴走を起こしたり、不発に終わることがあると聞く。
例えば、大規模な火災が発生した地域では、火の精霊の力が一時的に強まったという記録がある。
また、精霊を神として祀る部族が勢力を拡大し、信者の数が急増した際にも、同様の現象が確認されている。
だが、『未来視』は“門の精霊”ネフェリリ――という、かなりマイナーな存在に依存した魔法だ。
この精霊を神格化している部族がいるという話は、今まで一度も聞いたことがない。
よって、今回に関しては精霊側の変化が原因とは考えにくい。
では、なぜ――あの時は、成功したのか?
「まるで、あの瞬間だけ……どこかから、足りない歯車が飛んできたみたい」
――どこから、だ?
だが、『未来視』はそもそも成功例が極めて少ない魔法だ。
おそらく、それこそが原因なのだろう。
どれほど正確に魔法陣を描いても、発動しない。
「わからない……あああああ! わかんない!」
何度考え直しても、結論にたどり着けない。
ミディアは、頭を抱え込んだ。
「ミディア様」
その時だった。控えめなノックと共に、執事が扉から顔を覗かせる。
「げっ、……」
ミディアは思わず声を漏らしたが、どうにか笑顔で取り繕った。
執事がわざわざ部屋まで訪ねてくるのは、決まって父からの呼び出しがある時だ。
そしてそれは、たいてい何かをやらかした後――たとえば、爆破魔法で自室の壁を吹き飛ばしてしまった時などである。
「えええええっと、その、あの、な、なにもしてないですよ、まだ」
「まだ?」
執事はモノクルをきらりと光らせて問い返す。
もうかなりの老齢のはずだが、ものさしでも入っているかのように背筋はぴんと伸び、立ち居振る舞いには微塵の隙もない。
その姿は昔から少し怖くて、ミディアは蛇に睨まれた蛙のような気分になるのだった。
「してません、しません、いい子にしてます」
「ロベルト様がお呼びでございます」
「は、はい……」
小さく頷いたミディアは、あわてて鏡を確認した。
あまりにもみすぼらしい格好をしていたら、父の機嫌を損ねかねない。
普段のミディアは、魔塔で支給される魔導士のローブを愛用していた。理由は単純、楽だからだ。
コルセットの必要もなく、寒い日はズボンを履いていても誰にも咎められない。
鏡に映った自分の姿は、見事に寝起きのままだった。
だぼだぼのローブに、炎のような赤い髪は爆発したかのごとく広がっている。
「ああああ……ええっと、その、き、着替えを……」
「構いません。そのままおいでください」
「で、でも……」
「ロベルト様はお忙しい方でございます」
「……はい」
ミディアはしゅんと項垂れた。
父はとても多忙だ。魔塔でも三本の指に入る大魔術師であり、王宮にも広く顔が利く名門伯爵家の当主でもある。
「いま、参ります」
そう言って水瓶で手を洗い、髪を手櫛でがしがしとかき上げる。
ローブの裾を持ち上げると、重たい足取りで部屋を後にした。
***
ロストバラン家はとても広い。
けれど、いつも静かで、まるで墓場のようだった。
いや、墓場ならば祈りの声が聞こえるぶん、この家の方がなお静かかもしれない。
メイドたちは一言も発さず、足音すら立てずに仕事をこなす。
見張りの騎士たちは石像のように微動だにせず、実際に屋敷の至るところには騎士やキマイラを模した石像が点在していた。
幼い頃は、あれらが動き出すのではないかと、眠れぬ夜を過ごしたものだ。
壁には古のレリーフが嵌め込まれ、天井を巡る装飾は古文書のように魔術式で彩られている。
歴代当主の肖像画は誰一人として笑っておらず、そのまなざしは、訪れた者を値踏みするかのように鋭く見下ろしていた。
さすがに厨房や騎士の詰所まで行けば、話し声の一つや二つは聞こえるだろう。
だが、それらはミディアが気軽に踏み込める場所ではなかった。
だからミディアの知るロストバラン家は、墓場――いや、棺桶のように閉ざされた場所だった。
「お嬢様をお連れいたしました」
執事の声が響く。
父ロベルトの執務室の扉は重厚で、複雑な意匠が彫り込まれている。
この扉の前に立つたび、ミディアはまるで裁きの場に呼び出されたかのような気持ちになるのだった。
「入れ」
中から低い声が響き、脇に控えていた騎士が重々しく扉を開け放つ。
執務室の中央には、威圧的な大机が置かれており、机上には承認待ちの書類が山積みになっていた。
壁面の本棚には分厚い魔導書がぎっしりと並び、その上にはロストバラン家の歴代当主の肖像画が飾られている。
そして――その部屋の主、ミディアの父・ロベルトは、まさに肖像画から抜け出してきたかのような男だった。
彫りの深い整った顔立ちに、いかにも貴族然とした風格。
当然ながら既婚であり、ミディアと七つ下の弟を持つ父親なのだが、社交界ではいまだに“理想の独身貴族”と見なされているという。
髪色はミディアと同じ赤系統だが、彼女のそれが朱色に近いのに対し、ロベルトの髪はマゼンタを深めたような、葡萄酒のように濃い紅だった。
「お、……お父様に、ご挨拶申し上げます」
ミディアはローブの裾をつまんで、ぎこちなく礼を取った。
だがロベルトは、机の書類に目を落としたまま顔を上げない。
顔を合わせることは、あまりない。
食卓で家族が揃うこともあるにはあるが、たいていは父が多忙で欠席だし、ミディアも研究に没頭して食事の時間を忘れてしまうことが多い。
仮に同席できたとしても、家族で和気あいあいと談笑するような場にはならなかった。
所在なげに立ち尽くしていると、ようやくロベルトが顔を上げた。
「ゴッドウィン家より感謝状が届いた。……最近は、アレクシア嬢と親交があるらしいな」
「は、はい、その、仲良く……していただいております」
「アレクシア嬢は、あのクマ男には似ても似つかないと聞いている。母親似ならば、淑女の見本として学ぶところも多かろう」
「く、クマ男……?」
「彼女の父親のことだ。図体がでかく、態度もでかい。おまけに声もでかく、野卑な男だ」
ミディアが戸惑っていると、執事が背後にそっと寄ってきた。
「ロベルト様とゴッドウィン家のご当主様ヴェルドレッド様は、年も身分も近く、長年の友にして良きライバルであられます」
囁くような声だったが、ロベルトにはしっかり届いていたらしい。
小さな咳払いの後、「友でもなければライバルでもない」と鋭く言い返された。
……なんだかよく分からないけれど、かなり面識があるようだ。
それはともかく――残念ながらアレクシアも、そのクマ男の血をしっかり継いでいる。
見た目こそ可憐だが、中身はどう見積もっても淑女より熊に近かった。
「ゴブリン退治に用いた魔法陣の報告書には目を通した」
「あ……ぅ、は、はい」
「――見事だった」
「え?」
思わず顔を上げたミディアを見るなり、ロベルトは珍しく――本当に珍しく、わずかに口元を綻ばせた。
「あの状況下における最適解だ。ロストバラン家の名に恥じぬ活躍だった」
「あ、ありがとうございます……!」
――褒められた。
ミディアの心臓はドクンドクンと跳ね上がる。
父に褒められたのは、これが初めてかもしれない。
「ついては、お前の婚約者を決める件について、予定を早めることとした」
「ふええええええええッ!!!!!!」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
「どうした。何か不満でもあるのか?」
「い、いえっ、その……あの……」
「今ならば、お前の活躍を耳にした者も多い。ロストバラン家に相応しい相手を迎え入れる好機だ」
「あ、う、……ううぇ」
「すでに候補は立ててある。齢十四にして大魔術師候補と称され、子爵位を持つエゼルリード家の次男、ジュードだ」
「う、あ……」
ミディアは縮こまり、小さな声でもごもごと呻いた。
――嫌だ、とは言えない。
ミディアはロストバラン家にとって長らく“お荷物”だった。
わずかな功績をあげた程度で、それが帳消しになるようなものでもない。
でも……嫌だ。
ミディアにはまだ、覚悟ができていなかった。
会ったこともない男を、将来の夫として受け入れるなんて。
それが怖かった。
貴族に生まれた者ならば当然とされる覚悟だということは分かっている。
分かってはいる、けれど――心がついてこない。
ミディアはただ、魔術の研究に没頭していたかった。
そして今はなにより、『未来視』を回避する手がかりを探すために、一刻も無駄にしたくなかったのだ。
「……お嬢様、僭越ながら申し上げます」
口を開いたのは、執事だった。
「ロベルト様は、お嬢様のお言葉を頭ごなしに否定されるようなお方ではございません。仰りたいことがあるならば、きちんとお話なさるべきかと存じます」
「え……」
恐る恐る振り返ると、執事は柔らかな笑みを浮かべていた。
「歩み寄りとは、双方がなさるものです」
「は、はい……」
――歩み寄り。
そういえば、さっきの“褒め言葉”は、歩み寄りの一端だったのかもしれない。
「あ、あの、ち、ちちうえ。その、私は……魔術研究者としての道を歩みたく……」
「それは構わぬ。で、婚約とどう関係がある?」
「ロ、ロストバラン家には、優秀な弟が……おりますので……」
ミディアには弟がいる。まだ五歳だが、すでに魔法を発動させるほどの才覚を見せている。
十二歳になっても魔法陣なしではろくに術を使えないミディアとは、比べるのもおこがましい。
母も、ようやく“まともな跡継ぎ”ができたことが嬉しくてたまらないようだった。
「確かに、あれならば跡継ぎには困るまい。……ゆえに、お前は婚約をしたくないと言っているのか?」
「は、はい……できれば、研究に没頭、したく……」
「――お前の婚約者として優秀な魔術師を我が血筋に招くことは、
お前が研究者としてあげるであろう功績のためにも、ロストバラン家にとっても益になるだろう。
そのための伴侶など不要であると断言できるか?」
「……」
――断言。
その言葉に、ミディアは口をつぐんだ。
断言など、できるはずがない。
自分がどこまでやれるのか、まだ何一つわからない。
現時点では、ほとんど何も残せていない。
黙り込むミディアに、ロベルトは深く息を吐いた。
「……こたびの働きに免じて、猶予を与えよう。お前に力があることを、示してみせよ」
「しめす……?」
顔をあげたミディアを、ロベルトはまっすぐに見返してくる。
「今は十二歳だったな。ならば、十五の成人を迎えるまでに、
ロストバラン家の娘として、世間に誇れるだけの実力を示せ」
――泣きそうだった。
今の自分が、いかに頼りなく見えるかは、誰よりも自分がわかっている。
けれどミディアは、ぐっと拳を握りしめた。
「わ、わかりました。……お父様の寛大なお心に、深く感謝申し上げます」
「話は以上だ。下がれ」
「は、はい……」
ローブの裾をつまみ、なんとか礼を整えて退出する。
扉を閉めた瞬間、どっと疲労が押し寄せた。
初めてだった。
父・ロベルトの意向に、真正面から意見を述べたのは――本当に、初めてのことだった。
怖かった。
けれど、言葉は届いた。
条件は厳しい。だが、三年の猶予――これは、破格の処遇だろう。
やるしかない。
破滅の訪れは、アレクシアの話では“少なくとも四年後”。
まだ、時間はある。
恐ろしい未来を回避するために。
――いや、それだけじゃない。
ミディア自身が望む未来を手にするために。
前に進むと決めたのだ。




