Ⅱ-21 エル・フレミク 1
木々が頭上を覆い隠し、葉の隙間から木漏れ日が降り注ぐ。
いつの間にか周囲の音は消え去り、視界にはひらひら舞う蝶が一匹。
落葉樹が多いのか年月を経て葉の絨毯は靴越しにやわらかな感触を伝えてくる。
おかげで歩くのがずっと楽になっていた。
このまま立ち止まらずに前に進む、それが一番。
しかし、理性とは別のところで意識しないままに足は止まり、蝶に向けて片手を掲げ、顔をあげる。
───────おいで。綺麗な羽を見せて、ここで羽を休めて。
頭上をゆらりゆらりと飛ぶ様は、陽の光を浴び身に纏う彩がよりいっそう輝いて見える。
暗い世界で見つけた美しいもの。
ゆらり
ゆらり
ひらり
ひら ひら
心の声に応えたわけではないだろうけれど、蝶はひらりひらりと羽を揺らし、ゆっくりと手のひらに納まった。
この世界に来て、細かな傷と爪の間の汚れが絶えない手のひら。
繊細な羽を休めた姿は容易く壊れそうで、風から守るように両手で包んだ。
「エミ・・・・・それは」
後ろから低い声が遠慮がちにかかり、現状を認識した。
歩いていたはずの自身は立ち止まり、自然後方の騎士たちの足も止まっている。
──────ああ、迷惑かけたんだな。
「すみません。立ち止まってしまって。綺麗だったので大人げも無く足を止めてしまいました。そんな場合じゃないですよね」
謝罪を示すように軽く頭を下げたのにフォルの視線は両手に注がれている。
「フォルさんもエミもどうしたんですか?」
後ろが付いてきていないことを不思議に思ったセディオンも足を止め、近づいてきた。
緩やかな道程になって来たとはいえ万全でない身に負担がかかるのか、歳若い騎士の息は少し上がっていおり、杖代わりの木の棒を支えにして真横に止まった。
「ん、ごめんね。綺麗なちょうちょがいたから、足を止めてしまったの」
「へえ、この季節に蝶がいたんですか。珍しいですね。エミの傍に来たかったのかな?」
「・・・・・・」
にっこりと笑って紡ぎだされる気障な台詞に開いた口が塞がらない。
横の青少年は至って真面目に、他意無く言ったんだろう。
からかう様子もないし、青い瞳から放たれる純粋すぎる視線にこちらがひたすら恥ずかしくなる。
───────お姉さんは君の将来が心配です。
きっと天然の女たらしになれるだろう。それともここでは皆そうなのか・・・。
横を見上げるとセディオンは、どうしたんですか?と言いたげにこちらを見て、言葉を待っている。
自分より頭一つ分背の高い男の子の邪気の無い仕草。
可愛いと思ってしまう自分は歳をとったんだなと思うと可笑しかった。
なんだかセディオンといると和む。彼の真っ直ぐな気質に我が身を改めるというか、その存在に助けられる。
絶対に幸せになって欲しいと思うのだ。
「まあ真相は不明だけど、この季節に蝶は珍しいの?」
「はい。もうすぐ寒くなりますから。暖かい時期を好む蝶は見られないはずなんですよ」
それはそうか。日本でも春の花の時期以外の秋や冬に蝶を見ることは少ない。
「そうなんだ・・・。この子は眠りそびれたのか、寝場所を探してるのかもね」
手の中の蝶を見つめる。一見したところでは分からないが、落ち着ける場所を探して探して疲れてしまったんじゃないかと一瞬思った。
だとしたら辛いことだ・・とも。
「その手の中を見せてくれないか」
先程のままじっと見つめるフォルからかかった。
「え・・・・?ああ、綺麗なちょうちょですよ」
蝶が珍しいのか分からないが見たいというのなら、見せない理由は無い。
こんなに美しい蝶なのだから、見ただけで幸せを感じたのだから、世話になっている騎士の願いに否やは無かった。
ゆっくりと開いた手のひらの中に、降り立ったときと変わらず蝶はその羽を休めている。
「これは・・・・」
手の中を見つめ目を見開き息を呑んだ。今まで見たことの無いフォルの驚きに満ちた表情。
続く言葉はセディオンとは反対のすぐ横から聞こえてきた。
「エルフレミクだな。」
・・・・!
振り向くと傍に殿下がいた。視線はなぜか包まれた手の中へ。
逆光のなか、光が反射し夜でも艶やかだった金の髪は光を放つように輝いていた。
・・・・また勝手な行動で迷惑をかけてしまったのか。
なぜ殿下がここになどとぼけられない。分かりきっている。
足を止め、先を急ぐ隊の道行きを止めてしまったのだ。たいした理由でも無い、綺麗な蝶を見つけた、それだけの理由で。
そして殿下は先頭付近で隊の動きが鈍ったことに気づき、咎めるためか、原因を確かめるためにわざわざ戻ってここへきたのだろう。
頭の中は一瞬で混乱に陥り、すぐさま計算を始める。
効果的謝罪の方法を。ありとあらゆる誤魔化し方を。
頭をフル回転させているから身体は固まったように動かない。
つい先程まで抱いていた穏やかな気持ちは跡形も無く消え去る。
視線は殿下に固定され、手の中の蝶も動かないまま自分の思考に没頭し、かけられた言葉への反応が遅れてしまった。
「近くで見せてみてくれないか」
「え」
「エル・フレミクを近くで見せてくれ、といったんだ」
えるふれみく・・・・?
聞いたことの無い言葉に首を傾げる。言葉の意味を理解でき無かった私は意味を問うようにフォルさんに視線を向けると、彼は先程のまま、手のひらの蝶に視線をとめたままの状態だった。
いつもさりげなく助けの手を伸べてくれた騎士らしく無い状態で、私の視線にも気づいていない。
セディオンのほうを見ると、彼も驚きの表情を浮かべていた。
「この蝶が彼のエル・フレミクなのですか?!」
彼のだかなんだか知らないいけれど、これだけ驚くということはきっと珍しい蝶なんだろうな・・・と納得する。フォルが固まったままなのも、珍しいものを見たからなのだ。
「へえ。珍しいちょうちょなんですね」
相槌をかえしつつ、殿下の方へ両手を掲げる。
こんなことしなくても、真横にいるのだから充分見えそうなものだけれど。
肩くらいまで両手を持ち上げたところで手を開く。
殿下からは色鮮やかな『えるふれみく』が見えているだろう。
「まだ、残っていたのだな」
それは季節はずれの蝶に向けるものではない、もっと心の奥底から滲み出すような感慨が浮かんだ言葉だった。なんて言い表せば良いだろう・・・失ったものにめぐり合ったときみたいな。
いつの間にか周囲には騎士たちが取り囲み、ラウールやディーンの姿もみえた。
少し遠巻きに見つめる視線はみな真摯な光を宿している。
急ぐはずの旅路の中で、誰も先へ進もうと言い出すことも無く、たった一匹の蝶を中心に足を止める姿はここが森の中などではなく、厳かな教会であるかのように感じさせ、中心に一人立つことの気恥ずかしさや、身の置き所の無い不安を忘れ、どこかこの空気を壊してはならない気にさせた。
手のひらでは今も頼りなく存在感を示す、緩やかな羽ばたきを感じる。
伸ばした両手はきつくなってきていたが、もう少しだけ頑張ろうと思った。