Ⅱ-12 心に秘するもの 3
どんなに辛い日でも、どんなに嬉しい日でも。
光の見えない絶望の時も、ずっと続いて欲しいと願う幸福のときも。
眠りは誰もに訪れる。
明けない夜がないように。
経たない月日がないように。
精神のために、身体のために。
明日へ踏み出す一歩のために。
殿下の言葉が耳に残り、疲れているはずなのになかなか眠れなかった。
寝台から衝立をはさんだ少し離れたところで、身体に布を巻きつけて寝転がる。
床の毛深い敷物のおかげで寒くはないが、やはりなれないせいもあるのだろう。
どうも体の向きは落ち着かないし、小さな虫の声や、風に揺れる木々の音、それにやはり他人が同じ空間にいるということも気になって仕方がない。
体の向きをころころ変えてみたり、頭の中で羊を数えてみたり。
しかし集中力のない状態では雑念が多すぎて、こっちじゃ何ていうのだろうとかどうでもいいことばかり浮かんでは消え、浮かんでは消え・・・。
眠らなければと考えるほどに頭の中は冴えていく。
日本の自分の部屋なら、ひまをつぶすことは容易にできた。
本を読んだり、テレビを見たり、電話をかけたり長風呂したり。
一人暮らしで特に夜中に外出したからと言って咎められることも、口煩く言われることもない。どうしても部屋に居たくないときには夜中のドライブとしゃれ込んだものだった。
仕事がどうしても上手くいかなかったり、人間関係に悩んだりしたとき、よく誰も自分を知らないところに行きたいと思っていた。
静かでいて、誰も自分を気にしない、過去がなくても上っ面で付き合えるところへ。
一時的な表面上の付き合いは容易い。
それこそ病院で数え切れないほどにとおりすぎていく。
一ヶ月から短ければ3日で目の前を通り過ぎていく患者たち。
愛想が良く、話も聞いてくれていい看護師さんだなんて誉められたこともある。
誰かのために動くことは楽だったし、そのことで誉められたり、お礼を言われるのは嬉しかった。
与えるだけの環境。
患者の中には踏み込んでいくけれど、決して看護師の中には患者は踏み込んでこない。
誰だって、自分が辛いときは話を聞いて欲しいものだ。優しく思いやって欲しいものだ。増してそれが当たり前の病院なら。
進んで声をかけ、話し、笑うその姿を、羨ましいとさえ言われた。
けれど、本当は人と深く付き合うことが苦手だった。
他人に、自分の深いところを見せることができなかった。
本当に悩んでいることはいつだって口にだせず。
口から出るのはどうでも良い上滑りした言葉だけ。
暗い天幕の中を見渡す。
もう何度もしたことで、見える範囲には今更気を引くものもない。
《あんなに誰も知らないところに行きたいと思ったこともあったのに。今はこんなにも帰りたい》
見えるもの、感じるものすべてが自分の知らないもので。
知らず知らずのうちに溜息が出る。
「眠れないのか」
掛けられた声に思わず飛び起き、振り向くと衝立の向こうで衣擦れの音が聞こえた。
寝苦しくて立てた物音が他人の眠りを邪魔してしまったのかと思うと申し訳なく感じる。
包まっていた布を横へどけ、衝立の向こうにいるであろう人物に向かって背筋を伸ばす。
「すみません。起こしてしまいましたか」
「こんな狭い空間で何度も衣擦れの音や溜息が聞こえてはな・・」
起き上がるような気配があり、衝立に隠されて見えないが声は疲れているように聞こえた。
「少し寝苦しくて。すみません殿下は疲れていらっしゃるのに。原因の私が言うのもなんですが、気にせず眠ってください。」
言っては見たが、眠れるとは思っていない。
ただ、疲れている殿下に気にせず眠って欲しいだけだ。
初めの印象こそ怖いの一言に尽きるが、短い時間の中でそれだけではないと思ったから。
自分には理解できない環境で、その背に多くの人の人生を背負う年下の男性に、何も出来ない年上の自分が出来る精一杯の思いやりをあげたいだけ。
自分の不安は消えないだろうし、考えることもやめられない。
けれど身体は疲れているのだから、きっといつか眠りの帳は下りるだろう。
どんなに辛くても、どんなに悩んでも、身体は本能に忠実でいつしか眠りは訪れる。
そしてそれが重なるうちに薄れるのだ。
どんなに幸せなことも、辛かったことも。
今まで生きてきた26年ずっとそうだった。
そのことに救われてきた。
だから今回も。
「おやすみください。私も眠ります」
「・・・眠れるのか?」
「疲れていますから、きっと。それに明日もやることはたくさんあります。そのためにも少しでも身体を休ませないといけませんから」
やれることがあると言うのは幸せなことだ。その間だけでも余計な事を考えずにすむ。
こんな風に、何もない時間のほうが辛いのだ。
考えすぎる上に、建設的なことは浮かばないのだから。
「そうか・・・。明日もあるか」
「はい。フォルさんが朝起こしに来てくれると言っていました」
時計や携帯電話もないここでは、そうでないと起きられないだろう。
昼日中、フォルは朝が来れば自然と眼が覚めると言っていた。慣れない環境に、夜更かしの身に付いた疲れた身体では朝早く起きることは難しい。
けれどそれさえもいつかは慣れていくのだろう。
「ならば休め。私も言われたとおり眠ろう。明日のためにな」
「はい。おやすみなさい」
衝立の向こうの影が横になり、規則正しい息が聞こえると私も横になり目を瞑る。
少しずつ身体が重くなり、思考は薄れ、
時をおかず、疲れた身体は眠りの淵に落ちていった。
こちらを伺うような気配に気づかずに。