Ⅱ-11 上に立つもの
天幕から出て、殿下の言いつけどおりに水を汲みに出る。
すぐ外には二人の見張りの騎士がいた。
用事を告げると水場へ案内してくれるという。
『仕事中に申し訳ないし、水場さえ教えてもらえれば一人で行けますよ』と言った私に、騎士道精神か二人のうち一人が、暗い中女性一人に行かせられないと引き下がらない。
水桶は二つ。
やはり見慣れない土地であるし一人では無理かと思い直し、同行をお願いした。
夜の森は驚くほど静かで、些細な物音が大きく聞こえる。
街灯もないし暗いかなと思っていたが、月明かりに照らされ、道筋は案外明るかった。
その分、光の届かないところにある闇は先が見えないほどだったけれど。
一人では到底たどり着けなかったに違いない道をしばらく進むと、水が流れる音が聞こえてきた。
「もう着きますよ。この先に小さな湧き水があるんです」
同行してくれた青年が教えてくれる。その言葉どおり、すぐに湧き水を発見できた。
桶二つ分に水を汲み、最後に一口含む。
「おいしい・・・」
戦場の近くの森を思い出す。生々しくて思い出したくないことが多かったが、あそこで飲んだ水も美味しかったと思う。
そういえば。
小さなころ、親と湧き水を汲みに行ったな・・・。
行きはほいほいと持てたタンクが、帰りはとても重くて。
『持とうか』と何度も聞く親の声に、一人でできる!とうんうん唸りながら運んだ。
手伝えることが嬉しかったから。
頑張ったねと誉めてもらいたかったから。
現状との違いに、ため息ひとつつき、腰をあげた。
ひとつを彼に渡し、もうひとつを自分で運ぶ。
「持ちましょうか?案外重い。俺が運びますよ」
「・・・・・」
「どうしました?」
彼の言葉が今思い出したことと重なり、笑いたいような、泣きたいような。
結局はそのどちらもできなくて。
自分のやるべきことは自分でと、いつかと同じ方を選ぶ。
「ありがとうございます。でも両手で持てば大丈夫ですよ。
んしょっと・・・・──────っ」
足元が盛大に濡れる。
両手に持ち替えたとたん、左肩にはしった痛みに桶を取り落としてしまった。
《痛まないから忘れてた・・・・せっかく汲んだのに》
ラウールからもらった鎮痛剤は効果が強く、今まで怪我したことを忘れていた。
「すみません。やっぱりお願いしてもいいですか?」
左をかばったことで察したらしい彼は、すぐに水を汲みなおし運んでくれた。
「すみません」
「いいんですよ。男ですからこれくらい大丈夫です」
気遣いが嬉しい反面、手ぶらの自分が申し訳ない。
それ以降、話すこともない帰り道は行きよりも少し長く感じる。
歩きつつも前だけに視線を固定できず、隣を見上げ、その顔にまだわずかに幼さがあることに気づき、セディオンは17歳だと言っていたことを思い出す。
隣の彼もきっと自分より年下で・・・・。
若くして戦場へ行く。
この世界では当たり前なんだろうか。
まだ移動中、情報の限られた中ではなんともいえないし、予想もつかない。
ラウールは5日で国に戻れると言っていた。
国に着けば何か分かるんだろうか。
この世界のこと、自分の状況、そして何より日本に戻れるのかどうかが。
静かで何もすることがないと、考えすぎてしまう。
ふと、殿下と呼ばれていたあの人はいくつなんだろうと思った。
《聞けば教えてくれるのかな?》
出てくる前のことを思えば、そんな気安い雰囲気になるかがまず問題だけれど。
そうなれたらいい。
世間話でもいいから、話ができるようになれたら、何かが変わる気がした。
《頑張ってみようかな・・・》
月を見上げる。
日本で見るのと変わらないまん丸の優しい月が、なんだか心強く感じた。
天幕の前、中まで水を運んでくれた青年にお礼を言って。
中に入るとすでに灯りが落ちていた。
外から差し込む僅かな灯りを頼りに、そろりそろりと寝台近くに水を運ぶ。
衝立の奥、こんもりと人型に膨らんだ掛け物は、横に立っても身動ぎひとつしない。
《寝たのかな?》
起こすのも忍びなくて、踵を返そうとしたとき、
その手が掴まれた。
「すみません。起こしてしまいましたか?」
さりげなく手を引こうとするが、びくともしない。むしろ掴む力は強くなっていくほどで。
振り返ると強い眼差しと出会い、視線を落とす。
「遅かったな。たかだか水汲みにいつまでかけている」
「すみません」
下を向いても感じるほどの圧力に肩がすくむ。小さな決意が見る見るしぼんでいくようだ。
「手伝ってもらったのか」
「すみません」
「・・・・・・」
「・・・・・・・・」
「すみませんと謝ってばかりだな。責めているのではない。肩は大丈夫だったか?」
「・・・・大丈夫です。見張りの騎士の方が手伝ってくださいました」
「そうか」
「はい」
「いない間にラウールが来た」
「ラウールさんがですか?」
「ああ。お前の方の調子はどうか診に来たらしい。水汲みに行かせたといったら怒られた。『怪我人でしかもうら若き女であるお前に夜分にそんなことを頼むなんてどういうことだ』とな。『間者でもない普通の女性がこんなところにいる不安を察しろ』とも言われた。まあ実際はもっと柔らかな物言いだったが・・・・」
殿下が夜の世話をさせると言ったときも、ラウールはこちらを気遣う様子だった。
優しい人なのだろう。自分のために、目上のひとに意見まで言ってくれた。そう人がいる。そのことに涙がでそうだった。
「すまなかったな」
「え・・・」
「戦場にいて、考えがすさんでいたのかもしれない。冷静になれば、お前への態度はひどいものだったと思う。刺客かどうか確認したかったこともあるが、そうでないなら、女のお前には耐え難いものだっただろう」
「・・・・・・」
なんて言えばいいのだろう。出て行く前とは違いすぎる態度。戸惑いも感じるが、気遣う言葉にやはり厳しさは表面上のもので心は人を思いやれる人なのかもしれないと考えを改める。
顔を上げると、行く前よりも幾分人間味のある表情でこちらを見ている殿下の瞳があった。
丹精に整った顔は綺麗であると同時に、精悍さも感じさせる。少し疲れを感じさせるが、肌には張りつやがあり、帰りしな考えたとおり自分よりもずっと年下なのだろうと思った。
この歳ですさんだ戦場に身を置き、なおかつ人の上に立つ。
ここに来てから何度も思うが辛くはないんだろうか。
しかも人の上に立つということは、下のものをまとめ、規範となることでその心を支えるということだ。弱みは簡単には見せられない。
上が弱いところや慌てるさまを見せれば、下は不安に思う。時にはなめて、いうことを効かなくなったり、反抗することもあるかもしれない。
戦場で統制が取れないことは、敗北を意味する。
敗北とは死を招くことだ。
それをさせないため、強くなけれならない。上の責は重い。
目の前の人にかかる重圧はどれほどだろう・・・・。
平穏な国で育ち、平凡な日々を送っていた自分には想像しかできない。
本の中、ブラウン管の中で他人事だったできごとが今は眼の前にある。
掴まれた手はいまだ離れてはいなかった。