第二十五話:異形の拡大、無情なる日常
かつて「おじさんの尻の穴」という一個人の身体の一部に過ぎなかったものは、すでにその表現をはるかに超え、地域社会までも巻き込んだ深刻な問題へと変貌を遂げていた。
あの“穴”の初発――まだ彼が生きていた頃の粘膜の腫れや肥大が、いまや信じがたい規模の肉塊へと成長し、死後でさえ自らを維持しつつ、周囲を侵食してやまない。もはや「あれは何かの病変の延長だ」「病院で治療できるはずだ」などという次元ではない。病院ごと廃墟化し、長い時間をかけて建物を内部から溶かし崩し、その地下にも広がり、周囲の地盤までも汚染する――そんな“禍い”へと変わってしまった。
閉鎖後の旧病院は、表向きには「施設の老朽化に伴う解体待ち」のように扱われていたものの、実際には近寄るのも危険な状態であることは行政関係者や一部の研究者が知る周知の事実だった。
壁の崩壊、床下への液体の流出、鉄骨やコンクリートまでも腐食する奇妙な現象――それらはすべて“おじさんの尻の穴”が死してなお醸し出す未知の侵蝕力に起因するとされるが、明確な学説は一向に確立されない。闇雲な爆破解体は肉塊の飛散リスクがあまりに高く、当局は足踏みを続けるばかりだ。
周辺住民は、その“廃墟”のそばを通るたびに胸騒ぎを覚える。一見すれば雑草に覆われた朽ちた建物――だが、その奥底で「何か生きている」ような不穏な空気が漂い、陰湿な悪臭がかすかに鼻を突く。湿気の多い夜などには、ほんのわずかに鉄のような生臭い匂いが風に乗って広範囲へ拡散し、眠れぬ不快感を覚える住民もいるという。
やがて住民たちのあいだでは「あそこには近づかないほうがいい」「夜になると何かうめき声めいた音が聞こえる」といった噂が囁かれるようになる。実際に音などしないかもしれないが、不安や嫌悪が生む幻聴が広がっているとも言えるだろう。
ときおり、廃墟の中心部で屋根が落ちこみ、あるいは壁が大きく崩壊する。すると、その衝撃で内部に溜まった黒い液体が噴き出し、周囲のアスファルトや土壌をどす黒く染める。
雨が降りしきる夜などには、そこに雨水が混じって一気に泡立ちを増し、まるで泥の沼地のようになって道路へと流れ出すこともある。朝になってみると、道路脇の側溝が赤黒い粘液で詰まり、気味の悪い悪臭を放っている――そんな惨状がもはや珍しくなくなっていた。
ある研究者によれば、廃墟内部の肉塊は“脈動”を伴って崩壊と再膨張を繰り返しているのではないか、という。つまり、外壁が落ちて肉塊が露出すると、そこで空気に触れる部分が溶け崩れやすくなる一方、肉塊の深部に溜まった未知の成分が周囲の破片や鉄分を取り込み、また肥大を続ける。
そのため、部分的に壊死している箇所と新たに生き生き(?)とした組織が入り乱れ、常に内部構造が変動している――まるで巨大な“呼吸”をしているように見えるのだ、と。実際にその現場を目撃した者は少ないが、夜陰の遠目に“ドス黒いシルエット”が緩やかに動くように見えたと証言する者もいる。




