第十六話:迫りくる拡張の脅威
ある日、隔離エリアに最も近い病棟を巡回していた男性医師が、異変に気づいた。
「……何だ、この壁の染みは?」
そこは、かつて辻垣内が入院していた部屋の斜め下の階にあたる場所だった。壁の一部が褐色に変色し、触れるとじっとり湿っている。近くにはカビや雑菌が繁殖したような腐臭を伴い、鼻を寄せると、あの嫌な鉄錆と内臓の混じったような悪臭が微かに感じられた。
「もしや上の階から浸透してきたのか?」
確信はなかったが、手を当てたところ、壁紙がぷよぷよと浮き上がり、まるで裏側が剥がれているようだ。その下には淡い赤黒い筋が網目状に走っており、それをわずかに押すと、ぐじゅりと液が染み出し、医師は慌てて手を引っ込めた。思わずそのまま洗面所へ駆け込み、手を石鹸で何度もこすり洗いする。毛穴の奥まで滲み込むような生理的不快感を拭えず、ぞっとして鳥肌が立つ。
それから数日後、とうとう壁紙が大きく剥がれて床に落ち、その背面からは暗褐色の液体がじわじわとにじみ出してきた。見た目は下痢便にも似た嫌悪感を誘う色合いで、異臭に気づいた看護師たちが倒れそうになりながらもバケツや雑巾で応急処置に追われる。
だが、拭き取っても拭き取っても際限がない。バケツに汲んだ液は通常の汚水とは明らかに違い、底に濁った血液のような塊が溜まっている。いっぽう壁の亀裂は日に日に広がり、ついには廊下を侵食し始める。こうなるとすでに「隔離室の問題」ではなく、建物の各所に亀裂のような滲出路が生まれていることになる。
そう、まるで膨張する“穴”が建物内部を浸透し、幾筋もの毛細血管のように分岐して流れ出し、周囲を溶かしはじめたかのような恐怖。隔離したつもりが、むしろ遅かれ早かれ、全館を呑み込む未来が目前に迫っていた。