第十話:超克する異常
運命の日、病院内では深夜に搬送作業を開始することになっていた。なぜなら、周囲の目やマスコミの嗅ぎつきを避けるためだ。選び抜かれた医療スタッフと葬祭業者、そして一部の研究者が防護服に身を固め、巨大ビニールで作られた囲いの中へ入り込む。作業開始時点で、あの肥大しきった穴はすでに遺体の形を留めず、一種のドロドロとした巨大な嚢胞のようにも見えた。高さは腰ほどに達しているが、横方向にかなり広がっており、血液や腐敗液で表面が滑りやすく、触れるだけでぐじゅりといやらしい音を立てる。
まずはこの肉塊を幾重にも袋状のシートで覆い、可能な限り液の流出を抑えつつ密封容器へ移そうという段取りだ。しかし、いざ持ち上げようとすると、その内部から強い圧力が押し返してくるかのように、ぼこりぼこりと泡立つ液体が溢れ出す。持ち上がるというより、掴むそばから肉が剥がれ落ちて液状化した部分が零れ落ち、床に広がっていく。すぐさま吸引ポンプを作動させるが、追いつかない。どろりと溢れ出す黒赤い液がシートを伝い、作業員たちの防護服に降りかかる。
やがてその液体に触れた部分のシートが、みるみるうちに溶けるように裂け始めた。耐薬性の高いはずの素材でさえ蝕むこの液体はいったい何なのか。そして、最悪の事態は、この搬送作業の途中で起きた。スタッフの一人が足を滑らせて倒れこみ、その際、肉塊を大きくえぐるように倒れ込んでしまったのだ。
倒れた衝撃で肉塊に穴が開く。すると内部に溜まっていた液体とガスが一気に噴き出し、スプラッタ調の地獄絵図が展開される。激しい勢いで噴出した黒い液が天井や壁を染め、あたりは一瞬にして血生臭い腐敗臭の霧に包まれた。作業員は悲鳴を上げる暇もなく液まみれになり、慌てて立ち上がろうとするものの、防護服の上から侵入した液が肌を焼くような痛みを与え、叫声を上げる。倒れた仲間を助けようと駆け寄った他のスタッフも次々と浴びてしまい、搬送作業は大混乱に陥った。
その場は阿鼻叫喚である。液をかぶった者は皮膚に激痛を覚え、悲鳴を上げながら後退する。落ち着いて洗浄しようにも、床一面が滑りやすい液体に覆われていて、機材やホースもまともに扱えない。しかも、肉塊の中心に開いた穴の淵が、まるで最後のあがきのようにじわりと広がり始めていた。内側から小さな肉塊が幾重にも隆起し、ぶつぶつした瘤のように盛り上がったかと思うと、また粘液を滴らせながらずるりと崩れ落ちる。その繰り返し。黒い塊と赤い塊が混ざり合い、まるで命の腐敗を象徴するかのような臭気が充満し、そこに白熱灯の明かりが反射している。
やむを得ず、スタッフたちは周囲へ拡散しようとする液体を食い止めるべく、バケツや吸水マットを総動員して必死に対応する。しかし、誰もがもう分かっていた。ここまで来てはもう“完全な処分”など不可能だ。この肉塊はただの死体の一部ではない。どこまでも拡大を続ける未知の“何か”であり、このまま自分たちの力だけで抑え込むのは限界だろう、と。