第6話 星の光
―――そして、時は戻って現在。
あれから、どれだけ走ったのかも分からないくらい長い間、森の中を走り続けて、気が付けば辺りにもすっかり夜の帳が下りていた。
定期的にぶり返す腕の傷の痛みが、辛うじて僕の意識をまだ現実へと繋ぎ止めている。
「……にしても連中、一体どこから来たんだ?」
暗闇の中を振り返り、さっき森の中で、王国の兵士達と遭遇した方向を確認する。
咄嗟の思い付きが功を奏し、どうにかして一度は王国からの追手を撒く事にも成功したが、考えてみればこんな深い森の中で、連中は一体どこから現れたのだろうか?
ルーペンスの町を出て、既に半日は森を歩いている筈だし、こちらの逃走に気付いて町から僕を追い掛けて来たのだとしても、こんな目印も何も無い森の中で、彼らは一体どうやって、こちらの正確な位置を捕捉したのだろうか?
「………っ」
……ダメだ。
考えようとしても、空腹と疲労で頭が回らない。
気を抜いた瞬間にも倒れそうになり、僕は近くの木に手を当てて身体を支えた。
飲まず食わずで森を歩き続けること数時間、今や失血による体力の低下も加わって、立っているのもやっとの状態だった。
……少し、考えが甘かったのかも知れない。
空腹を我慢するのには、元の世界での経験もあり慣れていたが、長い間水が飲めないというのは中々に堪える。こんな広い森なのだから、水や食糧くらい探せば簡単に見付かるだろうと、高を括っていたのが間違いだった。
例えお金が無くとも、学校や公園の水道でいつでも安全な水を飲めた元の世界の環境は、やはり恵まれていたのだ。
――自然の厳しさを、僕は完全に甘く見ていた。
自分の浅はかな考えの代償が、今ここに来て重くのし掛っていた。
「はぁ……」
どうにもならない現実を前に、溜息ばかりが出てくる。
身体中にへばり付く汗と泥の感触が、僕の磨り減った精神を益々と削っていった。
「………はぁ」
この世界の星空は綺麗だ。
それこそ、溜息が出てしまう程に。
街灯や家屋の明かりなど、余計な光源が無い分、星達が生き生きと夜の空に瞬いている。
ただ何も考えず、ボーッとこの綺麗な星の空を眺めているだけで、何だか色々な事がどうでも良くなってくる様な、不思議な気持ちになってくる。
「……眠い」
これ以上ここで立ち止まっていると、本当に襲ってくる眠気に耐えられなくなりそうだったので、僕は重い身体に鞭打って少しでも足を前へと進めた。
「あっ――」
しかし、そうして歩き出して直ぐ、僕は足下に隠れていた木の根に足を取られて、盛大に地面へと転んでしまう。
あまりの疲労困憊で、もう満足に受け身を取る事すら出来なかった。
「………」
……もう、どうでもいいか。
碌に受け身も取れず、身体の正面から地面へ叩き付けられたというのに、この身体中を包む鈍重な疲労感の所為で、身体の痛みなど殆ど感じなかった。
仮にもう一度、王国の兵士達に見付かった所で、僕にはそれを振り切れるだけの体力など、到底残ってやしなかった。
このまま雑草に埋もれて眠り、明日無事でいられなければそれまで。
もうそれで良いじゃないか。
「うっ……?」
投げやりな思考が頭を支配し、僅かに折れ残っていた抵抗の意思さえも、ついには潰えようとしていた刹那――、鼻先を微かに湿り気のある匂いが掠めて、僕はゆっくりと顔を上げる。
土臭い森の匂いとは違う、このヒンヤリとした独特の空気感。
冷たい夜の空気に混じって、清涼感のある澄んだ匂いが、森の何処かから漂っている。
「水……」
近くに水場があるかも知れないという淡い希望が、僕に最後の気力を奮い立たせる。
朦朧とした意識のままに、僕はふらふらと前後不覚に陥りながらも、鼻先に漂う微かな匂いだけを頼りに、幽鬼の様な足取りで夜の森を歩き始めた。
そうして辿り着いた先。足下に浮かぶキラキラとした金色の光が、水面に浮かぶ星達のソレなのだと気付いた瞬間、僕は文字通り膝から崩れ落ちて、水面に顔を付けた。
顔面から後頭部までをドップリと水に浸かったままで、僕は息をするのも忘れて、有りっ丈を胃袋の中へと掻き込んでいった。
「……っ、……っ、………っ。……ぷはぁっ!」
絡み付く前髪から、ボタボタと大量の水滴が滴り落ちる。
ゼーハーと肩で息をして、僕は必死になって呼吸を整えた。
「…………」
濁っていた思考が、急速に冴え渡るのを感じる。
数時間ぶりに、自分にも生きている実感が戻って来た。
「………疲れた」
長い長い息継ぎの後、正真正銘それで全ての体力を使い果たした僕は、サラサラと水が流れる小川の近くに身を横たえて、そこから動く事が出来なくなっていた。
意識が回復したのも束の間に、急速に押し寄せてきた疲労の波が、瞬く間に全身を飲み込んでいき、同時に襲ってきた眠気の荒波が、僕を容赦なく眠りの淵へと引き摺り込んでいった。
「……ぅ」
……まずい、ここではダメだ。
同じ森の中でも、小川が流れていて視界も開けている分、この場所だと遠くからでも存在が目立ってしまう。
こんな身を守る物が何も無い、剥き出しの場所で眠るくらいなら、いっそさっきまで居た森の中で、雑草に塗れて眠った方が遙かに安全だった。
「く、そ……」
身体に力が入らない。
いくら起き上がろうと四肢に力を込めても、既に限界まで酷使された僕の身体は、全く言う事を聞いてくれなかった。
このまま目を閉じてしまったら終わりだと、下がってくる瞼に必死の抵抗を試みるも、その重さに対して抵抗の意思が全く追い付いて来なかった。
「………………」
――薄れていく意識の中、僕は霞んでいく視界の端に、不思議な色の光を見た。
水面を、踊る様に揺れる無数の星達。
その輝きの中に、不思議な色の光を見たんだ。
どこか懐かしさを感じさせるそれは、けれど酷く曖昧で、その輪郭さえ覚束ないままに、時折水面から浮き上がっては、蝶の様にふわふわと舞い踊る。
一つ二つと現れては子供の様に無邪気に絡み合い、それぞれの光をゆらゆらと明滅させながら、ただ楽しそうに夜の川辺を戯れていた。
あの日見たこの光景が、夢だったのかどうか、今となっては分からない。
ただ一つ覚えているのは、あの日見たこの不思議な色の輝きは、これまで僕が目にしたどんな星の光よりも、とても柔らかで、温かいと感じたんだ―――。