第5話 町と衛兵
着地のまま姿勢を低くして、僕はドキドキしながら周囲の警戒に当たる。
――ここから先は、もう時間との勝負だった。
あとは王国側に逃走を気付かれるより前に、僕がどれだけ早くここを離れられるかに全てが掛かっている。
幸い、逃走経路は頭に入っている。
昨日、崖上の城から見た景色で、この町の構造にも大凡の見当を付けてあった。
この町は、中央にあるあの崖上の城を基点として、円形状に展開されている。
町の中心部には、城の防衛などを兼ねた兵士達の宿舎が建ち並び、そこから更に少し距離を置いて、富裕層向けの大きな邸宅地が建ち並ぶ。一般向けの住宅や商業用の区画などは、比較的町の中層から外周部に掛けて配置されていた。
唯一の例外は、町の北にある貧民街の辺り。
日が昇った際、中央にある崖で影となる町の北側辺りは、それ以外の地区にある町の建物と比べても、比較的質素な見た目の家が多かった。
貧民街とは、僕が只勝手にそう呼んでいるだけの呼称に過ぎないが、遠目にも分かるあの寂れた町の雰囲気的にも、そう表現するのが相応しい場所だと感じていた。
だからこそ逃走経路に選ぶなら、ああいった場所の方が適している。
活気があって人目も多い町の南側へと逃げれば、僕の様な薄汚れた格好の人間は、それだけで目立ってしまう。
対して、そこに住んでいる人間の格好そのものが汚れている貧民街の様な場所ならば、僕のみたいな人間が一人紛れ込んでも、変に悪目立ちしてしまう可能性も低いと考えられた。
路地の裏を伸びる影の方角と、建物の屋根の向こうに見えるルーペンス城との位置関係から、僕は町の中に於ける自分の大凡の現在位置を算出した。
――町のやや南東。
この位置取りだと多少面倒ではあるが、城の正面へと続く大通りがある町の東側を避ける為にも、一度、中央の崖を時計回りに迂回してから、貧民街のある町の北側を目指すべきだろう。
当面の方針も定まった所で、僕はレストランの裏手から続く路地の中を歩き出した。
周囲にはまだ警戒に当たっている兵士達の数も多いので、暫くは慎重に事を進める必要がある。
曲がり角一つ一つを迎える度に緊張が走り、建物の角から先に顔だけを覗かせては、素早く安全を確認して足早に路地の中を駆け抜けて行った。
道に迷っても、来た道を引き返す事はしなかった。
どのみちこの状況では、土地勘など無いに等しいので、先へ通り抜けられそうな場所ならば、人目次第では堂々と塀を跨いで私有地の中を強引に突っ切ったりもした。
「はぁ……、はぁ………」
右へ左へと、全く馴染みのない町の中を走り続けて、やがては息が続かなくなって立ち止まる。
気が付くと辺りの様子も大分様変わりしていて、いつの間にか周囲を、古ぼけた木の建物ばかりが囲んでいた。
石材やレンガ造りで、外観を小綺麗に整えられた家々の姿は最早どこにも見なくなり、代わりに外壁の一部が剥がれ落ちたまま手付かずになっている家や、道端に放置されたゴミ山の姿ばかりが目に付くようになっていた。
……ここが、目的の貧民街だろうか?
どことなく馴染みのある悪臭が鼻を掠め、僕は少しだけ懐かしい気持ちになった。
正直、嬉しくはなかったが。
「ふぅ……」
ここまで来たら、もうあまり人目を気にする必要はない。
下手にコソコソして、怪しまれる方が厄介だった。
「――っと!?」
逸る気持ちのままに、僕が町の外を目指して、貧民街を更に北へ向けて走っていると、前方に巡回中の衛兵らしき姿を発見して立ち止まった。
僕は反射的に足を止め、近くにあった民家の陰へと身を隠した。
「はぁ~、だりぃ。なんでこんなとこ見回らねぇといけねんだよ? あ~、めんどくせぇ。だりぃ。帰りてぇ~」
「うっせぇな、文句言うなって。これも仕事だろ? 万が一あのおっかねぇ王女様に聞かれたら、俺達だって首が飛ぶかも知れねぇんだぜ?」
「けどよぉ? はぁ……、ったく、最初はえれぇ別嬪の王女さんが来たと思って、喜んだってのに、蓋を開けて見りゃあれだからなぁ。前の領主様、結局どうなったんだっけ?」
「さぁな? 噂じゃ、どっかに売られちまったって話だけど」
「うげぇ~、マジおっかねぇじゃん。はぁ……、前の領主様ん時は良かったよなぁ。詰め所で酒飲んでるだけで、毎日金が貰えたんだから。こんな面倒くせぇ見回りの仕事もしなくて済んだしよぉ……。あの王女様が来てからだぜ。一体何だって、こんな辺鄙な田舎町になんか来ちまったのかねぇ?」
「お前……、そんなだから、こんなゴミ溜めの警備に回されんだよ」
「あ゛? んだと? テメェだってそれは同じだろうが! んじゃ何か? テメェは何であの王女様が、この町に来たのか知ってるってのかよ?」
「キレんなよ……、本当に面倒くせぇ奴だな」
「…………」
油断していた所に王国の兵士が現れて、つい聞き耳を立ててしまったが、どうやらここの警備を任せられて不満な兵士達が、愚痴を言っているだけのようだった。
不意の事態に、一瞬ヒヤリとさせられてしまったが、冷静に考えて僕があのレストランを逃げ出してからの時間的に、まだ王国側がここまで僕を探しに来たとは考え辛い。
本当に追手が掛かるよりも前に、一刻も早くこの場を離れるとしよう。
「――《勇者計画》って、お前聞いた事あるか?」
「……っ!」
雑多に立ち並ぶ民家の陰を利用して、僕が少しずつ兵士達の視線を遮り、その場を立ち去ろうとした所で、ふと耳に聞き覚えのある単語が飛び込んできて足を止める。
「ユウシヤケーカク? なんだそりゃ?」
「まあ俺も、詰め所で他の奴が話してんのを聞いただけだから、詳しくは知らねんだけどな? なんでもこの世界にゃ、《勇者》っつースゲェ魔法の力を持った奴らが居るらしくて、それをどうにかして丸め込んで、俺達の国の為に戦って貰おうっつー計画らしい。……いや、確か《勇者》は元が別の世界の人間で、それを俺達の方の世界に呼び出して――、とかいうんだったか? あれ?」
「はぁ……? 何言ってんだ、お前?」
「…………」
「……頭、打ったか?」
「うっせぇな! 聞いた話っつっただろうが! 俺がおかしくなったみたいに言うんじゃねぇよ! でも実際、そんぐらいぶっ飛んだ話でもなけりゃあ、わざわざ王国の王女様が、王都からこんな辺境の田舎町まで、遠路遙々やって来たりはしねぇだろうが!」
「けっ! んじゃ何か? あの王女様は性格がおっかねぇだけじゃなく、頭までおかしいってのか? かーっ! 残念美人にも程があんだろ! お国の為に働こうって気が、すっかり失せちまったぜ!」
「おい!? マジで言葉に気を付けろって! 誰かに聞かれたらどうすんだよっ!?」
その後も何事かを喚き続けながら、巡回中の兵士達は去って行った。
これ以上彼らを追い掛けても、特に追加の情報は得られそうになかったので、僕も下手に深追いするのは止めて、物陰から離れて行く兵士達の背中を見送った。
「……運が、良かったな」
他愛もない兵士達の無駄話かと思いきや、思ったよりも多くの情報を得る事が出来た。
中でも特に大きかったのは、王国でも一般レベルの兵士にまでは、どうやら僕達《勇者》の情報が、正しく伝えられてないというのを知れた事だった。
王国側にどういった事情があって、その様になっているのかは知らないが、彼らが公には僕達《勇者》の情報を隠そうとする限りは、表立って逃亡した僕の捜索が行われる可能性も低いと考えられた。
場当たり的に得た情報としては、間違いなく大収穫と言って良い成果だった。
「……急ごう」
幾分か軽くなった足取りで、僕は北を目指して貧民街をひた走る。
――最終的な目的地は、ルーペンスの町郊外に広がる《クユリナの森》。
町の北西から、隣国との国境を跨いで広がるこの森林地帯を抜けてしまえば、未だ周辺国との問題を多く抱えている《ロベリア王国》は、簡単には追って来られない筈だった。
森を抜けた先の隣国が、どういった国であるかは依然情報が無いので不安は残るが、それでもこの国に残って、ただ殺されるのを待つよりかは幾分マシだと思えた。
生きてさえいれば、人間大抵の事はどうにかなるものだ。
寂れて人通りの少なくなった、貧民街の中を走り続けること程なくして、僕はついに視界の端に、目的である《クユリナの森》の姿を捉えた。
ここまで来ると、最早半壊して人の住んでいない家屋の方が多く、町の半分くらいは、森の植物に侵食されて緑に飲まれていた。
――人と自然の境界線。
まさしくそう表現したくなる景色が、目の前には鎮座していた。
「いいん……、だよな?」
森の緑を眼前に捉え、僕は一人、後方の町を振り返りながら呟く。
町からの脱出を目前にして、頭に浮かんできたのは残してきた他の勇者達の事だった。
今更、あんな連中に同情してやるつもりはない。元は同じ中学の同級生とはいえ、僕があちらの世界で困っていた時に、一度も手を差し伸べてくれなかった連中だ。
学校で僕が虐めを受けていた時や、病気で身体が重いのに、給食の為に無理して学校へ通っていた時でさえ、連中はそんな僕の事を煙たがるだけで、本気でこちらの身を案じてくれる者など、あの中には一人として存在しなかった。
僕が一人逃げ出したと知られれば、王国からあの残された連中への当たりが強くなる事は想像に難くない。拷問や監禁、中には見せしめの為に殺される者も出て来るかも知れなかった。
それら全てを承知の上で、僕はこの逃亡劇に及んだのだ。
自分勝手だと言われようが知った事か。僕は自分一人が助かる為だけに、他の大勢の人間を見捨てたのだ。
――そう、自分でも思っていた筈なのに、
直前になってこうも何度も迷いを感じるとは、僕の小物っぷりも大概だった。
情けないなんてレベルじゃない。
けれど、それでももう後には引けない。
これだけ時間が経ってしまえば、王国側も流石に、僕の逃走には気付いている筈だった。今更戻って全てを無かった事にするなどという選択肢は、もうとっくに消失している。
前に進むしか、もう僕に道は残されていないのだ。
「馬鹿は……、生き残れないんだよ」
最後に、自分に言い聞かせるようそれだけを言い残し、僕はルーペンスの町を後にした。
郊外に広がる深い緑の森を目指して、残っている距離を一気に駆け抜ける。
――振り返る事は、もうしない。
他の全てを犠牲にしてでも、僕は自分一人だけが生き残る道を選んだのだから、
ここに来ての後悔など、最早許される訳がなかった。
「はぁ……、はぁ……っ!」
絡みつく森の枝葉を振り切り、僕は走った。
町の雑踏が緑に飲まれ、深い森の木々に埋もれて見えなくなっても尚、僕はどこまでも森の中を走り続ける。
背中に追い縋る幻影を振り払い、脳裏に焼き付いてしまった元同級生達の顔を、時折何度も頭に思い浮かべながらも、僕はそれでもただ只管に、暗い森の中を走り続けたのだった。