第23話 生か死か
前回に引き続き、少し1話分が長いです。
「はぁ……、で? 彼女に対してもう用は全部済んだ訳だけど、始末はどうすんの?」
指輪に関しての目的も達成した以上、もう此方に彼女を生かしておく理由はなかった。
どうせ元は殺す予定だった人物だし、生かしておけば僕達にとっても災いの種となるだけだった。
だから残念ながらその先の結論は、聞くまでもない。
「――貴方に、あげるわ」
「ふ~ん? ………………ん?」
……聞き間違いだろうか?
今、何か僕の耳に、おかしな言葉が聞こえた気がする。
「……何だって?」
「だから貴方に、そこに転がっている王女様を、貴方にあげるって言ったのよ」
「……は? ……って、いやいやいや!? 意味分からん! どういう事だよ!? 今までにも増して、言ってる事の意味分かんねーぞ!?」
「うるさいわねぇ……、言葉通りの意味よ。私の彼女に対しての用事は全部済んだから、後は彼女を煮るなり焼くなり、貴方の好きにすればいいって言ったのよ」
「はぁ~? なんでそうなるんだよ? お前の復讐だろ?」
「だって考えてみたら、貴方への報酬が全然足りないもの」
「……報酬? なんで? 最初に約束したものは、もう全部ちゃんと貰ったじゃん」
こちらが王女暗殺作戦に協力するに当たり、彼女と交わした約束は、作戦を実行に移すまでの間、当面の僕の生活費諸々を彼女に面倒見て貰い、ついでに魔法の先生として色々と教えて貰うという事だった筈だ。
実際その約束を、今日まで彼女は忠実に果たしてくれていた。
「最初の約束では確かにその通りだけど、考えてみたらその約束自体、かなり不公平なものじゃない?」
「どの辺が?」
「貴方、自分がどこかの組織に所属する軍人だったとして、“お前に一ヶ月分の給料を出してやるから、敵陣のど真ん中に飛び込んで、敵の大将の首を取って来い”、なんて馬鹿げた命令を出されて、まさか素直に従いたいと思うの?」
「そういう言い方をされると……、まあ確かにちょっとあれだけど……、でもこっちは他に魔法だって教えて貰った訳だし、その分でチャラでしょ?」
「あれは必要経費みたいなものよ。私自身の安全に関わる事でもあったし、それで実際、帰りは助けられたんだから、そこを報酬に含めるのはフェアじゃないわ」
「う~ん?」
何だか分かるような……、分からないような……?
僕に真面目だと言う割には、彼女も大概律儀だった。
「いっそ奴隷にでも何でも、好きにしたら良いのよ。貴方にだって、王国に自分の人生をいい様に弄ばれた挙げ句に、殺されそうになったんだから、その権利くらいはあるわ」
「権利ねぇ……。でもなぁ、そういうのは個人的にちょっと……」
奴隷とか言われると、どうしても元の世界で九年間を共に過ごした、あの毒親たちの事が頭に思い浮かんでしまう。
過去に自分が、そういった経験をしているが故に、その上で誰かを同じ目に合わせたいとかは、僕にはちょっと思えなかった。
「貴方が要らないっていうなら、彼女の事は殺すしかないわね」
「うっ……」
「まさか用件は済んだから後は野放しに……、なんて事はあり得ないし、大体、首輪も付けないで彼女を放置すれば、その後自分達がどうなるかも想像出来ない程、私だって愚かじゃないわ。貴方だって、それくらいの事は分かってるんでしょ?」
「まあねぇ……」
こんな目に合わされて、彼女は間違いなく僕達に恨みを持っている事だろう。
そんな状態で国へと返してしまえば、間違いなく僕達は指名手配される。
今後の人生で安眠出来るタイミングが訪れない事が、一生単位で確定する訳だ。
――彼女を殺すか、それとも奴隷として生かすか。
選択肢は、二つに一つだった。
「迷っているなら、もう一つ良い事を教えて上げましょうか?」
「……なにさ?」
ここで彼女が口にする良い事とやらが、絶対に本当に良い事である訳はないのだが、聞かずにいて後で後悔したくもないので、とりあえずは聞くだけ聞いてみる事にした。
「聖一、あなた疑問に思った事はない? 自分がどうして、これまで見た事も聞いた事もない筈のこの世界の言葉を、当たり前のように読み書き出来るのかって」
「はぁ? 今更何言ってんだ? んなもん出来て当たり前――、………?」
言葉の途中で頭に疑問符が湧いて、僕は言い掛けた言葉を飲み込んだ。
「……気付いたみたいね?」
「…………」
――おかしい。こんな簡単な事に、何故僕は今まで気が付かなかった?
一ヶ月前にこの世界へとやって来て、初めて見聞きした筈の新しい言葉の数々。
僕はこれまでそれを、ずっと当たり前の物として使い続けてきた。
しかもルイスからそれを指摘されるまで、その自覚すら無かったのだ。
この状況は流石に、異常と言わざるを得なかった。
「理由、教えて欲しい?」
「……ああ」
「じゃあ教えて上げるけど……、ちょっと覚悟して聞いてね。……いい? 聖一、貴方たち《勇者》の中には、召喚の魔法で生け贄となった、魔術師達の知識が入っているの」
「……?」
「何ならそれは“記憶”と言い換えても良いかも知れない。これまで余所の世界で暮らしてきた貴方たち《勇者》を、いきなりこの世界に呼び出した所で、まともなコミュニケーションなんて取れる訳がないでしょ? だからそれらの問題を解決する為に、生け贄となった魔術師達の頭の中から、言語や常識なんかに纏わる一部の記憶を、無理矢理抽出して、貴方たち《勇者》の頭の中に植え付けているのよ。それが、《勇者召喚》の魔法に隠された、もう一つの秘密よ」
「それは……、質の悪い冗談とかではなく?」
「どうしても信じられないのなら、そこで倒れている王国の王女様にも聞いてみたらいい」
「…………」
僅かに光の戻って来た瞳で、こちらの視線から微かに目を逸らす様に背けた彼女の反応が、ルイスが口にしたこの恐ろしい事実が、決して嘘や冗談などではない事を物語っていた。
「マジかぁ……」
落ち着いて思い出そうとすれば、自分が元の世界で使っていた文字も、言葉の発音なんかも明確に思い出す事が出来るのに、不思議とそれを自分で意図して使おうとしない限りは、最初からそれを使おうという気にはなれなかった。
僕がハンターギルドで最初に、依頼の書類に自分の名前を書き込んだ時ですらも、無自覚にこの世界で使われている文字の方を使っていたのだ。
「召喚の魔法で、生け贄となった魔術師たちは、何も術の負荷に耐えられなくなって命を落とした訳じゃない。召喚の魔法に組み込まれたもう一つの術式、つまりは頭の中の記憶を、無理矢理読み取られようとした過程で、脳の神経が焼き切れて命を落としたのよ。……こんなの人間の死に方じゃない。王国がこれだけの事をしたという事実を知って尚、貴方はまだ、この女に同情したいと思う?」
「…………」
――あまりの衝撃で、言葉が出て来なかった。
彼女から話された内容の衝撃は、僕がこの世界に来て経験してきた他の様々な出来事と比べても、群を抜いてショックの大きいもので、自分の頭の中に他の誰かの記憶が入っているかも知れないという事を思うと、まるで自分が自分がじゃなくなっていく様な、気味の悪い不安感があった。
「悪い……。ちょっと、考えさせてくれ」
身体からドッと力が抜けて、僕はベッドの上で仰向けになって寝転んだ。
心配の種だった王女暗殺作戦も無事に終わり、後はのんびりと今後の事でも考えようと思っていた矢先にこれだ。
矢継ぎ早に紡がれる新しい情報の数々に、頭の整理が追い付かない。
「はぁ~」
僕は深い溜め息を吐いて、ベッドの上を転がった。
自分が今置かれている状況を整理するだけで精一杯なのに、攫ってきた王女様の今後まで僕が決断を下さなければならないとか、無理難題にも程がある。
ルイスの奴が計画通り、初めから彼女を自分の手で始末していれば、僕の方も余計な事に頭を悩ませずに済んだというのに、なぜ最後の最後で、生殺与奪の選択権をこっちに放り投げるんだ? 新手の嫌がらせか?
「どうしても決められないなら、彼女を魔法の実験台にするっていう手もあるけど?」
部屋の天井を仰いだまま、僕がいつまでも選択を決められないでいると、ルイスがまたしても妙な事を言い出す。
「実験台……?」
「彼女を奴隷にするなら、何かしらの形で《魔法契約》を結ぶ必要がある。けれどそれにも、色々と種類があるのよ。簡単な条件で、従者側の行動を軽く縛るだけの物もあれば、主側の命令に逆らった時点で、従者側が問答無用で命を落としてしまう様な、かなり拘束力の強い物もある。加えて後者の場合は、最初の契約に失敗する事自体が、何かしらのリスクを孕んでいる場合が殆どね。けれど貴方が、そこの王女様を相手に契約を結ぶなら、何かしらそういった強力な魔法を使う必要があると思っていた方がいいわ」
「それってつまり、こっちにもリスクがあるって事じゃん。嫌だよ」
「大丈夫よ。私も全力でサポートするし、《魔法契約》で主側にリスクが発生するのは、自分よりも強い魔力を持っている相手に、無理に魔法で契約を結ぼうとしたなんて場合が殆どだから。王国によって召喚された異世界の《勇者》である貴方が、そこの彼女よりも魔法の資質で劣っているなんて事はまずあり得ないし、それにいざって時は、貴方に被害が及ばないよう私が全力でフォローに回ってあげるから」
「……要は、自分で決められないのなら、もう魔法の成否で全部決めちゃおうって訳ね」
「そういうこと」
人を実験台にするのは気が引けるが、優柔不断な僕が決断を下すキッカケとしては、確かに悪くないのかも知れなかった。
自分なりに理屈を付けてどちらかを選らんだ所で、後でその選択に後悔する事は確実だし、それならばいっそ、自分の今の実力で精一杯やった結果に全てを掛けた方が、僕としても後悔のない終わり方を迎えられそうだった。
「……分かった。僕は何をすればいい?」
「決まりね。待ってて、少し準備するから」
こちらの返答を聞き、今一度、部屋の隅に置かれている大きな鞄の方へと向かったルイスは、その中からやがて、分厚くて巨大な一枚の羊皮紙を取り出した。
紙の厚さだけで数ミリはあり、人が丸ごと乗れそうなくらいには大きさが巨大だった。
「そんなデカい紙、何に使うの?」
「魔法陣を描くのよ。魔導書に書いてあるのを、前に見せた事あるでしょ?」
「あー、あれか」
ルイスが所持している魔導書を、過去に何度か見せて貰った事がある。
魔導書は、魔法を使う際の補助に使われる道具で、魔法の詠唱に必要な呪文や、個別の魔法に関する知識などが記載されている。
特に魔法陣に描かれている類の物は、文字というか象形的な記号のような物が多いので、見るだけではサッパリと意味が分からなかった。
ルイスが羊皮紙に魔法陣を描いている間、部屋でする事もなく完全に手持ち無沙汰だった僕は、ひとまず散らばっているこの部屋を片付ける事にした。
彼女が魔法で色々と吹き飛ばしてしまったので、部屋の中は酷い有り様だった。
一通りの片付けを終えて、僕が綺麗になった部屋のベッドで腰を落ち着けていると、いつの間に用意していたのか、ルイスから魔法の詠唱に必要な呪文が書かれた、小さな紙を渡された。
本番ではカンペを見ながらでも構わないが、言い間違えないように、事前にしっかりと内容を頭に叩き込んでおけとの事だった。
やがて三十分程かけて、ルイスが羊皮紙に魔法陣を描き上げる。
大分時間が掛かっているように思えたが、これでも結構描くのは早い方らしい。
魔法陣の中には、円陣の外周部に描かれた例の象形文字のような記号の他にも、月やら太陽やらを、何か表していると思しきよく分からない図形までが描き込んであり、その辺りの造詣が浅い僕には、それらの図形が何を意味しているのか不明なものばかりだった。
「完成したの?」
「ええ。彼女を、魔法陣の上まで連れて来てくれる?」
「はいよ」
あれから三十分ほど経っても、件の王女様は、部屋の床に転がったままだった。
この部屋にはルイスの手によって、魔法で防音の処置が施してあるし、部屋の扉だって簡単には開けない様に、魔法でロックが掛けてある。
……が、それを彼女に説明した記憶は無い。
なのに隙を見て逃げ出そうともしないのは、一体どういう訳なのだろうか?
「…………」
「…………」
時間が経って、ほぼ正気を取り戻したであろう王女様と目が合う。
こうして彼女と正面から向かい合うのは、意外にもこれが初めての事かも知れない。
睨まれる訳でもなければ、恨み言を言われる訳でもない。
ただ力なく無気力に見つめてくるその瞳の奥に、今の彼女が何を思うのか。
彼女という人間を殆ど知らない僕には、その腹の内を知る事など出来なかった。
「悪いけど、魔法陣の上まで移動して貰ってもいいかな?」
こちらの言葉に返答はなかったが、彼女は特に抵抗するでもなく、若干の逡巡の後に、存外素直にこちらの指示に従った。
掛けられていたシーツで身体の前側を隠し、彼女は自らの足で、羊皮紙に描かれた巨大な魔法陣の上まで移動する。
「で、次は?」
「まずは彼女に、貴方の血を飲ませる必要がある」
「また血かよ……」
「血には、生き物の魔力が多く含まれているからね。《魔法契約》で血を媒体とするのは、よくある事なのよ。……さっ、諦めて手を出して?」
ここで文句を言っても意味が無いのは僕も分かっているので、渋々とルイスの方へ腕を差し出した。
容赦なく僕の肌が切り裂かれ、傷口が焼けるように熱くなる。
「……っ」
「面倒臭いから傷口から直接、彼女に血を飲ませちゃいなさい」
鮮血が溢れてくる自分の掌と、薄ピンク色の王女様の口元とを見比べる。
状況が状況だけに、何だか物凄く背徳的な事をしている気分だった。
目の前に差し出された僕の手に、僅かな逡巡の気配があった後、彼女は意を決して、僕の掌の傷口から血を啜ったのだった。
王女様が喉を動かして血を飲み込んだのを確認して、ルイスが魔法の説明を続ける。
「先に説明した通り、魔法陣の起動と、全体的な魔力のコントロールは私がやってあげる。貴方はどこでも良いから彼女の心臓に近い場所に手を当てて、その身体の内側へと、魔力を注ぎ込めるよう集中するの。私の魔力に反応して、足下の魔法陣が光るのが合図よ」
心臓に近い場所。
身体の前側――、は流石にあり得ないので、僕はそそくさと王女様の背中側まで回り込み、シーツに隠されていないその背中へと腕を押し当てた。
「ふぅ……、いつでもどうぞ」
しっとりとした肌の感触を掌で感じながら、僕は雑念を捨てる為に、自分の身体の中にある魔力の方へと集中力を高めてから、待機しているルイスに合図を送った。
「……いくわよ?」
緊張で、心臓の鼓動がバクバクと脈を打つ。
失敗したらどうしようと、触れている掌が震えるのが分かった。
そうして極度の緊張に苛まれながら、僕は足下の魔法陣が、紫色に淡く光を放ち出すのを合図に、左手のカンペ通りに魔法の詠唱を開始した。
『マニバス・ディシディラム、ロストーア・ディ・リクタ。アニマス・コア・ヴィクト、シィラ・ミル・サフィシア――』
魔法陣は、魔力の通り道だ。
今はルイスが、それを正確にコントロールしてくれているので、僕はその流れに逆らわず自分も魔力を込めながら、ただ間違えないように魔法の詠唱を紡いでいけばいい。
ゆっくりとだが確実に、僕は一句一句と詠唱の言葉を紡いでいった。
こちらが込める魔力に呼応して、魔法陣の光も徐々に強くなっていく。
『アール・ポーロ・マーレ、ネブエ・ジエ・エスタ。コンス・イット・スィールム、デラ・イ・サ・エンペルノ!!』
最後まで間違う事なく詠唱を完了させ、僕はゆっくりと顔を上げる。
魔法陣の光だけは強いままに残っているのに、これといって変化は感じられない。
「……もしかして、失敗した?」
これだけの用意を必要とする魔法を試すのは初めてなので、自分でも気付かない内に何かやらかしてしまったのかと思い、僕は改めてルイスの方を見て反応を窺った。
「……まだよ」
「……?」
言われて直ぐ、その違和感に気が付いた。
自らの意に反して、王女様の背中に当てた手が、離れなくなっていたのだ。
詠唱に合わせて流し込んでいた魔力の流れが途絶えても、その背中に掌を押し当てていた腕の箇所が、まるで凍り付いてしまったかの様に、こちらの命令を受け付けなかった。
「うっ!?」
続いて、腕の先から何かが逆流してくる感覚がある。
魔力の感覚とも違う、得体の知れない何か。
それが掌を背中に当てていた場所から、腕の中を通って迫り上がってくる。
「手を離さないで!」
隣でルイスが叫んでいるのが聞こえるが、最早僕の身体の自由は、殆どその得体の知れない何かによって蝕まれてしまっており、もう自らの意思では背中から手を離す事も出来なかった。
「あ、頭がっ!?」
侵食してきた感覚が頭に達すると、とてつもなく強い頭痛が走った。
身体の中に直接、電極を撃ち込まれたみたいな、身体の内側からの強い衝撃だった。
「――――っ」
――雑音が酷い。
頭の中で鳴り響く雑音が大きくなり過ぎて、ついにはすぐ側で叫んでいるルイスの声すらも聞こえなくなっていた。
このまま痛みで、内側から身体が裂けるんじゃないかと思う程だった。
「…………」
そんな中でも、僅かに残っている魔力の感覚。
自らの命の危機にあっても手放さなかったその感覚だけが、今の僕の全てだった。
――この繋がりを切れば、恐らく僕の痛みは止まる。
だがそれをすれば、間違いなく目の前の彼女は死んでしまうのだろう。
全ての感覚が曖昧になった意思の合間で、僕は本能でそれを感じ取っていた。
「――――」
頭の中で鳴り響く、誰かの声。
言葉としての体すらも為さないままに、その声は僕の頭の中で何かを叫び続けていた。
荒れ狂う思念の奔流の中で、その声は激しい痛みとなって、僕の中を何度も鳴り響く。
「…………」
……ああ、僕は何でこんな事に必死になっているのだろうか?
別に目の前のこいつの事など、最初は死んだって構わないと思っていた筈なのに、僕は何を必死になって、こんな奴の命を繋ぎ止めているのだろうか?
ルイスのお兄さんを殺し、僕達《勇者》の人生だって、こいつら王国の所為で大勢狂わされた。
僕が命を掛けてまで、こんな奴を守ってやる価値など無いだろうに。
「――――――っ」
「………?」
それまでずっと、頭の中を乱雑に鳴り響いていた誰かの声が、ふとした瞬間に、僕の記憶の中にある他の誰かの声と重なる。
徐々に鮮明になっていくその意識の声の中で、僕はその声の正体が誰であるかを自覚したのだった。
……これは、ルイス?
何故、関係ない筈の彼女の声が、いま頭の中に響いているのだろうか?
僕が彼女に協力すると決めたあの日、恨み後悔も自分の中にある物を全て曝け出して、必死になって気持ちを訴えていた彼女の姿が、無意識に目の前の王女様の姿と重なる。
己の生死の淵を前に、それでも自分の生き様を恥じる事なく、堂々と口にした彼女。
そんな彼女に感じた物を、僕はあの日――、ルイスにも感じた筈だったんだ。
その輝きを――、僕はただ、消したくないと思っただけなんだ。
「……ふっ」
……なんだ、簡単な事じゃないか。
僕の行動の意味なんて、あの日から何も変わっちゃいなかった。
自分には何もないからこそ、憧れた彼女達の生きる光。
それを理解した瞬間に僕は、自分の中に流れてくる全ての物を、抵抗せずに受け入れていた。
「――聖一っ!?」
隣でルイスが、僕の名前を叫ぶのが聞こえる。
気が付くと、僕は部屋の壁に背中を強く打ち付けていた。
ゆっくりと目を開けてみると、右腕の皮膚が破けて全体が血だらけだった。
半ば感覚まで麻痺しているお陰で痛みは無かったが、代わりに腕にも力が入らなかった。
「聖一っ! 大丈夫なの!?」
「ああ……、多分な」
現実に響く彼女の声が、いつにも増してハッキリと聞こえる。
「馬鹿っ! 途中で手を離してって言ったのに、どうして聞かなかったのよ!? もう少しで貴方まで、本当に危ない所だったのよ!?」
皮膚が破けて出血した右腕の状態を見るに、彼女の言う事は事実なのだろう。
もう少しで、本当に戻って来られない所まで行く所だった。
「それより、彼女はどうなった?」
「大丈夫、ちゃんと息はあるみたい」
「契約は? どうなった?」
「生きてるんだから成功に決まってるでしょ? そんな事より自分の心配をしたらどうなの?」
「そっか……」
何故か怒りながら、僕は彼女にそれを言われてしまった。
けれど怒られているのに、僕の口元には不思議と笑みが浮かんでいるのだった。
「部屋……、また散らかっちまったな」
魔法の準備が整うのを待っている間、さっき片付けたばかりだというのに、部屋の中はまたゴミが散乱していた。
これでは僕も、ルイスのやった事に文句は言えないか。
「……腕が痛い」
「当たり前でしょ。もう少しで右腕の魔力回路が完全に焼き付いて、本当に使い物にならなくなる所だったのよ? 暫くは、魔法を使うのも控えなさい」
腕に痛覚が戻ってくると、右腕全体が内側から焼ける様に痛かった。
あまりの痛みに、僕はもう二度と、誰かと魔法契約なんて結びたくないと思うのだった。
―――ドンドンドンッ!
「「っ!?」」
部屋の天井を仰いでボーッとしていると、突如けたたましい音と共に、部屋の扉がノックされる。
僕とルイスは驚いて、反射的に扉の方を振り返った。
「ちょっと! アンタ達! さっきから部屋の中で何やってるんだいっ!? 凄い音がしてるんだよ!? 早くこの扉を開けなっ!」
「……なんかマズくない!?」
「マズい! 宿の女将さんが来ちゃった!」
「はぁ!? 部屋に掛けてある、例の防音の魔法とやらはどうなったんだよ!?」
彼女が部屋に掛けた防音の魔法がある限り、この部屋の中で発せられた音は外へ聞こえないという筈だったのに、この宿の女将さんの怒り様は尋常じゃなかった。
「さっきの騒動のどこかで壊れちゃったんでしょ! それよりも 早く! そこの裸の――、アレをさっさと片付けて! 女将さんに見られたら、更にマズい事になる!」
「んな、片付けるったってお前……、だから何処にだよ!?」
こんな狭い部屋の中で彼女を隠そうにも、ゴミが散乱して部屋の中は既に荒れ放題。
人一人を隠しておけるだけの場所など、頑張った所で何処にもある筈がなかった。
「そこら辺にほら! 例の指輪が転がってるでしょ! 早く何とかして見つけ出して!」
「無茶言うな! んな物それこそ何処にあんだよ!?」
そこら中にゴミが散らかっているこの状態で、直径数センチ程の大きさしかない、小さな金色の指輪一つを探し出すのは、どちらにしても至難の業だった。
「部屋の左奥! ベッドの下!」
身体を張って部屋の扉を押さえに入ったルイスが、指輪を見つけて僕に指示を出す。
僕は急いで、その視線の先にあったベッドの下に身体を突っ込むと、意外と近くに転がっていた蛇の模様をしたその金色の指輪を、身体をぶつけながらもどうにかして引っ張り出した。
「いってぇ!」
後頭部をぶつけた痛みに文句を言いながら、僕はそのまま急いで、床に敷かれた魔法陣の中央で眠っている元王女様の元まで歩み寄り、無防備なその身体へと指輪を宛がった。
「騒がしいですね……、さっきから何を――」
寝ぼけて何かを言い掛けた彼女の言葉を遮り、その身体が閃光に包まれる。
光が消えた時にそこにあった茶白色の小さな身体をシーツの中へと丸め込み、僕はそれが決して女将さんの目に付かないよう、部屋の隅にあるベッドの向こうへと放り投げた。
――直後、扉の前で身体を張っていたルイスを押し退けて、女将さんが力尽くで宿の部屋の中まで入り込んでくる。
魔法も使っていないのに、凄い怪力だった。
「「「…………」」」
ぎこちない愛想笑いを浮かべて固まるしかない僕ら二人と、ただ無言で惨憺たる部屋の惨状を眺めている宿の女将さん。
がっしりした体型が、余計に威圧感を放っていた。
「出てっとくれ」
やがて紡がれたドスの利いた女将さんの言葉に、僕は腰が引けて動けない。
これまで散々、恐れ知らずな一面を僕に見せてきたあのルイスですらも、その女将さんが滲ませる怒りに飲まれて、ビクビクとどこか動きが頼りなかった。
「えっと……、それって今すぐにですか?」
「馬鹿言ってるんじゃないよ! この散らかった部屋を、全部片付けてからに決まってるだろうがっ! 壊れたもんの代金も、きちんと全部弁償して貰うまで、アンタ達二人とも、一歩たりともこの宿から外には出さないからね!」
―――バンッ!
荒々しく閉じられた扉の音を前に、僕らは揃って肩を竦ませた。
宿の廊下の床を、ドシドシと激しく踏みならしながら去って行く女将さんの足音が完全に消えても、僕達は暫く、親に叱られた子供のように固まって動く事が出来なかった。
「……片付け、ましょうか?」
「……だな」
何とも締まらない、僕達らしい幕の引き方だった。
この話を読んだ後に、第13~15話くらいのルイスの行動を見返すと、少し気付く事があるかも知れません。