第22話 ロベリア・カディーナ・フランドル
少し話が、長めかもです。
「「かんぱーいっ!」」
約九日ぶりに帰ってきた、《イウムの町》の懐かしき宿の一室で、僕とルイスの二人は、王女暗殺作戦の成功を祝って盛大に祝杯を挙げていた。
夕方、出店が閉まるギリギリの時間に町へと戻って来た僕らは、店先で売れ残っている品を手当たり次第に買い込んで、狭い宿の自室へと持ち込んでいた。
「しっかし、こんなに上手くいくとは思わなかったなぁ。一国の王女様を襲撃って言ったら、なんかこう……、もっと大勢の兵士達に囲まれてー、みたいなのを想像するじゃん?」
「そうなる事を避ける為の作戦でしょ? 今回はあくまでも暗殺が目的だったんだから、先に敵に気付かれちゃった時点で失敗よ」
「そりゃそうなんだけどさ……。ちょっと拍子抜けというか。終わってみると、思ったよりも歯ごたえが無かったというか」
「でも貴方、一応は王国の兵士達とも戦ったじゃない」
「あれかぁ? あれはだってほら……、ねぇ?」
あんな捨て駒みたいな部隊と戦った事を、果して勘定に入れてもいいものだろうか?
苦労の勘定には勿論入れたい所なのだが、王女暗殺作戦の障害として、彼らを計算に入れたいかはまたちょっと別の問題な気がした。
「まあ、そんな事はどうでも良くてだな……? こっちとしては、そろそろそっちの理由も、教えてくれても良い頃だと思うんだが?」
雑多に買い込んだパンや菓子類などが並ぶ中、それら食品類に混じって、白と茶の羽毛に包まれた一匹の小鳥が、部屋のベッドの上で気を失ったまま鎮座していた。
――ロベリア王国第一王女、ロベリア・カディーナ・フランドル。
例の指輪の力で、今でこそ彼女は小鳥の姿へと形を変えられてしまっているが、事情を全て知っている僕達からしてみれば、それが紛れもない王国の王女様本人である事は、確認するまでもない事実だった。
「確実に命を取れたあの場面で、わざわざ計画を直前で変えてまで彼女を生け捕りにしたんだ。ちゃんと納得出来るだけの理由があるんだろ? お陰でこっちは、余計な苦労をする羽目にもなったんだし、そろそろ理由くらい教えてくれても良いんじゃない?」
帰りの道中、それとなく何度か彼女に尋ねてみたのだが、まだ早いとか何とか適当にはぐらかされるだけで、今日まで、まだその理由をちゃんと教えて貰えていなかった。
「そうね……、頃合いかしら」
そう言うとルイスは、徐にベッドから小鳥姿の王女様を拾い上げた。
「他にちょっと、使い道を思い付いてね」
「使い道?」
僕が疑問の視線を向けると、彼女は不敵にニヤッと笑って答えた。
「貴方は人間って、動物に入ると思う?」
「生物学的な話? ……まあ広義には、人間も動物に入るんじゃないの?」
元の世界でもこちらの世界でも、学術的な事は僕には分からないので、ただ思っている自分の感想を述べてみた。
「この《ミテラの指輪》がどういう物かは、貴方も覚えているわよね?」
「実際の計画でも使ったからな。他の動物の姿に変身出来るってやつだろ?」
「その指輪の力で、“人間にも変身出来る”としたら?」
「おいおい……、まさかとは思うが、お前……」
「そのまさかよ」
「相変わらず、おっかねぇ事考えんなぁ……」
確かに、これなら余計な苦労をしてでも、あの王女様を生け捕りにした事にも説明が付く。
行方不明となった王国の王女様の姿に、いつでも変身出来るだけの力を秘めている指輪となれば、その利用価値は計り知れない物となるだろう。
「変身する先の動物は、どうやって変えるの?」
「そういえば話した事なかったわね。簡単よ。指輪を、変身した相手の血に浸すのよ」
「血……、これまたブラックな話だな」
この《ミテラの指輪》には、古い時代の強力な魔法の力が込められているとの事だったが、指輪を付けてしまった者は自力ではそれを外せない事といい、変身先の動物を書き換える為のその手段といい、どちらかといえば”呪い“とか”黒魔術“に近いものを感じていた。
「……っていうか、そもそもまだ生きてんのソレ?」
部屋の床に置かれた王女様は、誘拐してきた四日前の時点から、ずっと気を失ったままだった。
人が水無しで生きられるのは、精々三日程度が限度である事を思えば、如何に彼女が気を失った状態で過ごしているとはいえ、そろそろ限界が来ていてもおかしくはなかった。
「帰り道でも定期的に確認していたから大丈夫よ。ちゃんと心臓も動いてる」
「ほんとに……?」
「けど、確かにそろそろ危ないかもね。一度指輪の変身を解いて、ちゃんと無事を確かめておきましょうか」
床に横たわっていた小鳥の身体をひっくり返し、その右足に付いていた金色の指輪をルイスが迷う事なく抜き去ると、小鳥の小さな身体が白く眩しい光に包まれ、その見慣れた光の中で、中心にある影の輪郭が徐々に大きくなっていった。
「――ぶふぉ!?」
そして目の前に現れた肌色の光景に、僕は飲んでいた水を盛大に噴き出した。
変身の光が収まった時、目の前の部屋の床には、豊満な体付きをした全裸姿の女性が、一糸纏わぬ姿で自らを隠す事もなく横たわっていた。
「ちょっと!? 汚いじゃない!?」
「わ、わりぃ……」
ゲホゲホと激しく咳き込みながら、僕は肺に入りかけた水を必死になって押し戻した。
暗殺作戦が全て無事に上手くいって、《ミテラの指輪》の力で変身している人間が、今その時どういう状態であるかなど、僕はすっかり失念していたのだ。
「……んぅ?」
騒がしい部屋の真ん中で、微かに呻き声が響く。
どうやら今の騒動で、変身を解かれた王女様も目を覚ましてしまったらしい。
固い部屋の床の上で眠そうに瞼を擦りながら、彼女はゆっくりと上体を起こした。
「うっ……、ここは……?」
寝過ぎの頭痛に頭を押さえた王女様は、見覚えのない部屋の景色にも、戸惑っている様子だった。
剥き出しのフローリングに、色気のない木製の茶色で統一された部屋の家具たち。
彼女が城で意識を失うまで過ごしていた、あの美しい調度品で整えられた城の寝室の様子とは、似ても似つかない。
彼女の困惑は、至極当然のものだった。
暫くは、そうして見覚えのない部屋の様子に戸惑っていた彼女だったが、やがて寝起きの掠れた視界の中を、すぐ側にあるベッドの上から自分を見下ろしているその存在に気が付いて、彼女は驚愕に目を見開いて叫ぶ。
「貴方――っ!?」
城で襲われた時の記憶が残っていたのか、王女様は自分のすぐ近くにあるベッドの上に座っているルイスの存在に気が付くや否や、後ろに飛び退いてそれを叫んだ。
「誰かっ! 賊です! 私の部屋に、賊が―――、……?」
言葉の途中で現実を思い出したのか、彼女の言葉は、尻窄みとなって消えていった。
「「「…………」」」
――沈黙が、狭い宿の部屋を包み込む。
三者三様の理由で、誰も言葉を話そうとはしなかった。
無言のまま部屋の中を警戒していた王女様が、もう一つ自分に向けられていた僕の視線を捉える。
するとその視線が、妙に定まらず辺りをウロウロとしているので、それを訝しんだ彼女も必然的に、今の自分の状態にも気が付いてしまった。
「……っ! ………下劣な!」
自分が裸である事に気付いて、一瞬ビクッと身を竦ませた彼女だったが、それで下手に大声を出したり狼狽えたりする様な事はせずに、ただ自分の大事な場所を、腕と脚で覆い隠すよう動いたのみで、僕に蔑みの言葉を吐き掛けた。
王女の暗殺を企てたのが彼女なら、貴方を裸にひん向いたのもまた、僕ではなくそっちに座っているルイスの仕業なのだが、何故かこちらが男だというだけで、彼女の中で僕が全ての犯人扱いされている気がするのが理不尽だった。
「……私を、どうするつもりですか?」
しかし計画の主犯はルイスなので、僕は王女様に視線と顎で、あっちに聞くよう促した。
「人質に取るつもりですか?」
「察しが良いわね。ちょと違うけど、まあ似た様なものかしら」
「……無駄です。例え王族とはいえ、私の王位継承順位は第三位と、兄弟たちの中でも一番下なのですから。私の身柄を盾に、王国へ何かを要求出来るとは思わない事です」
「ふぅ~ん? 随分と覚悟が決まっているのね。そういうの嫌いじゃないわ」
「馬鹿にして……、ならやはり私を辱めるのが目的ですか。下衆め」
「…………」
……頼むから、こっちを見ないで欲しい。
裸の女性を相手に、この状態だと目のやり場に困るのだ。
かといって状況的に自分を確実に恨んでいるだろう相手から、完全に意識を背ける訳にもいかないし、ホントどうすれば良いのか誰か教えて欲しい。
「最初は、あの場で貴方を殺すつもりだったんだけどね。気が変わったの」
「ふん、精々辱めてから殺そうとでも?」
「貴方がそうして欲しいのなら、私はそれでも構わないけれど……、どう?」
「……知らん。こっちに振るな」
自分のお兄さんを殺した相手に、その被害者であるルイスとしては、さぞかし思う所があるのだろうが、これ以上僕を余計な事に巻き込まないで欲しい。
そんな気軽な感じで言われても、嫌なものは嫌である。
「私を殺したいのなら、早くそうすればいいでしょう!? 辱める事も目的でないというのなら、一体何が目的で私を生かして捕らえたのですか!?」
「それを貴方に、教えて上げる理由は無いわね」
――まさしく、万事休すとでも言うのだろうか?
こちらは体調も良好で、ここから何が起きても万全の状態で対処出来るくらい、余裕綽々といった感じだが、反対に裸にひん向かれて捕えられた王女様の方は、今の自分の現在地も、この状況に至った経緯までもが全て不明であり、正体不明の僕達を相手に、既に限界まで追い詰められた状況だった。
それでも裸の王女様は、この状況に一切怯む事なく言葉を続ける。
「――殺しなさい」
押し殺した様な、彼女の低い声。
顔を見ずとも、その言葉に秘められた強い決意の意思が伝わってきた。
「嫌だと言ったら?」
ベッドの上から自分を見下ろし、どこまでも挑発するようなルイスの態度に、王女様は突如、裸のまま床から立ち上がり、臆する事のない堂々とした姿で叫んだ。
「私は! 誇り高きロベリア王国が第一王女、ロベリア・カディーナ・フランドルです! 国を背負う父の名と! かつて帝国を救った英雄である、母の家名“フランドル”の名に掛けて! 貴方たちの様な下劣なテロリスト如きに、屈する謂れはありませんっ!」
――絶体絶命の窮地。
それでも一糸纏わぬ姿で立ち上がり、自らの胸に手を当て堂々とそう宣言する彼女の姿には、敵である僕の心にも、不思議と引き付けられるものがった。
「例え衣服を脱がされようと! 王族という名の権威の衣を剥がされようとも! 私のこの、国を愛する心に、嘘偽りはありません! もし、この身が王国に害を為すというのなら、私は迷う事なく死を選びますっ! さあ、殺しなさい! そこにあるナイフで、私の心臓を貫くと良いでしょう! 正面から受けて立ちますっ!」
部屋のテーブルの上に転がっているナイフを指して、彼女は恐れる事なく自分を殺せと宣言する。
「……言ったでしょう? 嫌だって」
「はっ! そんな事を言って、本当はただ人を殺すのが怖いだけではありませんか!? 実際に自分の手を汚すだけの勇気が無いから、その言い訳として! 私をここまで生かして連れてきたのではないのですか!?」
「………っ」
王女様の言葉を受けて、ルイスが僅かに逡巡するのが分かった。
そんな彼女の動揺は、敵対者である王女様にも当然伝わっていた。
「……図星ですか? みっともないっ! 王族である私に手を掛ければ、国が一体どれだけ混乱するか! まさかその意味も分からずに、こんな凶行に及んだのではないでしょうね!? 私は一人の人間として、貴方という人間を軽蔑します!」
「貴方に……、私の何が分かるの?」
「知りません! そんなものには興味もありません! 所詮、王族である私と貴方では、背負っている物の重みが違う! それを理解出来ない貴方の気持ちなど! 私には知りたくもありません!」
「背負っている物……? なら、その為なら、無関係な人が幾ら巻き込まれても構わないっていうの? 随分と傲慢なのね」
「この世に生きている限り、全てにおいて無関係などという事はあり得ませんっ! ただ今までを平和に生きてきたというのなら! それは貴方からは見えない所で、他の誰かが苦しんでいたに過ぎません! その事実から目を背ける者に! 今の平和を享受する資格などありますかっ!?」
「……そうね。それについては、私も否定はしない。……けれど、なら他の誰かが幸せに生きる為に、平和を奪われた側の人間はどうしたらいいの? 大切なものを奪われて、その上、奪った側の人間から押し付けられた平和を、ただ文句も言わずに、黙って享受していればいいっていうの? 地獄じゃない……、そんなの」
「哲学の話でもしたいんですか!? 全ての人にとって都合の良い世など、この世界のどこにも存在しはしません! 人はそれぞれ、生まれながらに何かしらの集団や組織に所属していて、その中で精一杯足掻いて、自らが欲しい物を勝ち取っていくしかないんですっ! そして私は、《ロベリア》という国の王女として、この世に生を受けた! だから私は、その地に生きる全ての民の為に! 他の全てを犠牲にしてでも、民が願う物を勝ち取っていかなければならないんです! この意味が、貴方に分かりますかっ!?」
「知らないわ、そんなもの。だって私は貴方の国の民じゃないもの。それによって虐げられる側の人間よ。奪われる側の苦しみを無視する貴方を、私だって理解なんてしたくもない」
「では動機は復讐ですか!? 下らないっ!」
「…………下らない?」
「……っ」
平行線に思える話し合いが続く中、僕は不意に背筋にゾクッとしたものがして、本能的に何かを感じ取った。
僕が感じた危機感を余所に、彼女達が続けるやり取りは、その後も段々とヒートアップしていく。
「そうでしょうっ!? その復讐によって、貴方が得る物とは何ですか!? 結果として貴方自身が、他の誰かから大切な物を奪い取っているだけではありませんか! どこまでも自分本位な! それを下らないと言って何が悪いのですっ!?」
「大切な物の価値は、人によってそれぞれ違う。その重さを、どうして貴方が決められるの? 失った物の価値よりも、残された物の方が価値が重いなんて、どうして誰かが決められるっていうのよ? 自分が神様にでもなったつもり?」
「それは私が、この国の王女だからです! 民にとって何が大切なのかを選び! その選択の責任を負う義務が、王族である私にはある! それが民の為だというのなら、私は喜んでこの手を血に染めてみせましょう! 自分のちっぽけな欲望の為でしか動けない、貴方なんかとは違って! 私はこの王国の地に生きる全ての民の命と、その責任を背負って、毎日を生きているのです! その重さも意味も分からずに! つまらない復讐心などに囚われただけの貴方が! 平和に生きようとする人々の権利を! 未来を生きようとする人々の幸せを奪う権利が! 貴方なんかにあって堪るものですかっ!」
「ハ……、ハ……ッ!」
宿の部屋に、乾いたルイスの笑い声が響いた。
部屋の天井を見つめて笑う彼女の瞳には、何も映っていないかの様な空虚さがあった。
不気味で朧気で、虚ろな光だけが、過ぎ去った過去を見つめるその瞳の奥で、薄ら寒い気配を湛えて怪しげな光を放っていた。
「ふん……、言い負かされて反論も出来ませんか。所詮、暗殺などという下劣な手段に頼る貴方たちでは、その程度が限界なのでしょう。私怨なんて下らないもので動く貴方たちには、どうせ私の背負っている物の重みなど一生理解できない!」
「…………」
矢面に立っていたルイスが黙ってしまったので、同じ部屋の中、事態に何も言わず静観していた僕の方にも、やがては王女様の怒りの矛先が向けられる。
「貴方もです! この様な卑劣な行為に荷担して、貴方にとっての信念はどこにあるのですか!? 貴方の顔には覚えがあります! 私の元を逃げ出した、例の《勇者》でしょう!? 行方を追っていた兵士達からは、死んだと報告を受けていましたが、そんな事は今はどうでも良いのです! 他の勇者たちより、せめて一人逃げ出すだけの気骨はあるかと思っていたら、結局はこの様な下劣な行為に手を染めている始末っ! 心底見損ないましたっ!」
「いやぁ……」
勝手に見損なわれても困るのだが……、まあ、どうでも良いか。
自分だって善行を働いたつもりは全く無いし、なんなら僕達《勇者》を、無理矢理この世界へと呼び出したのは、貴方たち《ロベリア王国》の方なのに。それで半分は仕方なく自分の生活の為に働いた僕を非難するなんて、一体どの口が……?くらいには思うが。
「いつまでも黙ってないで、いい加減、貴方も何か言ったらどうですか? この臆病者!私の様な小娘一人を殺す決心すら、まだ出来ないのですか?」
「…………」
立場が逆転して向けられた、明らかな挑発の意図を持った王女様の言葉だったが、それに対してルイスは、ずっと部屋の天井を見つめたままで固まっていて、自分を貶すような言葉の数々に対しても、何も返す事はしなかった。
「やはり口だけですか。中身の無い。そんなちっぽけな人間が、よくもこんな大逸れた事を実行出来たものです。大勢の人間に迷惑を掛けて、結局は何も出来ずに終わる。貴方の様な人間にはお似合いの末路です。どうせ亡くなった貴方の知り合いとやらも、所詮はその程度の――」
――その言葉が、彼女にとっての最後のトリガーだった。
「………黙れ、ダマレダマレダマレ、ダマレエェェェーーッ!!」
獣の様な咆哮がルイスの口から迸り、それは衝撃となって部屋を突き抜ける。
あまりの衝撃に目を閉じた瞬間にも、僕の視界からは二人の姿が消えていた。
「かっ!?」
「私はっ! お前たち王国に大切な物を奪われたっ! 最愛の家族を奪われたっ! 人生の目標を奪われたっ! なのに! それを下らないだとっ!? 巫山戯るな巫山戯るな巫山戯るな、巫山戯るなぁぁーーっ!!」
「ぐぅぅ!?」
「私の兄スレーナ・リアトリスは、優秀な魔術師だった! 当代に並ぶ者なしと謳われた、天才的な魔術師だったんだ! 愛していた! 家族だった! 私にとって生きる意味だった! なのに! それをお前たちの身勝手な理屈で奪っておいて、私のことを卑劣だと!? どの口がどの口がどの口が、どの口がそれを抜かすっ!?」
「……っ!」
「兄はお前達の国へ行ってからも、多くの貢献をしてきた筈だ! 失われた魔法技術の研究! 帝国時代の遺産の再建! 果ては魔物を利用した、新しい兵器の開発に至るまで! お前たち王国だけでは何十年と掛かっても出来なかった様な事を、その身一つで数多成し遂げてきた筈だっ! それを知らないなどとは言わせない! 言わせてなるものかぁーっ!!」
王女様の首根っこを掴み上げたルイスが、それを怒りに任せて、何度も部屋の壁へと叩き付ける。
衝突の度に空間が震え、この宿の建物ごと、その怒りに震え上がっているかのようだった。
「私の大切なものを踏み付けにしたお前たち王国を、私は絶対に許さないっ! まして、それを良しとして生きるお前たち王国の民の事など! その幸せを! この私が願えてなるものかぁ! ――殺してやるっ! 絶対に! 今ここで!跡形もなく消し飛ばしてやるっ!!」
かつてない本気の殺意を迸らせたルイスの左手に、恐ろしい程にまで凝縮された魔力の塊が、渦を巻いて集まっていく。
まだ魔法の詠唱も始まっていないのに、空間が歪んで見える程に濃縮された魔力の渦が、部屋の狭い空間の中で、ミシミシと音を立てて集まっていた。
「…………」
首を万力の如き力で締め付けられ、生唾を飲み込む事も出来ずにいた王女様は、持ち上げられたその首の先で、口の端から涎を垂らしながらその様子を見つめ続ける。
アレに触れれば、確実に命は無い。
無造作に吹き荒れる風の余波だけでも、見ているこちらの身まで吹き飛んでしまいそうだった。
「馬鹿っ! 落ち着けって! 本当にこの部屋ごと、全部吹き飛ばすつもりか!? 何の為に、彼女をここまで生かして連れてきたと思ってるんだよ! その努力まで、全部なかった事にするつもりかっ!?」
このままでは開放された魔力の余波で、本当にこの部屋どころか、宿の建物ごと吹き飛んでしまってもおかしくないと思ったので、僕は慌ててルイスの事を止めに入った。
準備段階のこの時点で、彼女のその左手に込められた魔力は、何時ぞやに草原で魔物達の巣をまとめて吹き飛ばした時と比べても、それを遙かに凌ぐ程のものがあった。
……耳鳴りがする。
急激な気圧の変化で、耳の音が段々と遠くなっていった。
こんな状況下で、自分の声が本当に彼女へ届いているかは分からないが、それでも僕は最後まで、自分の言葉を必死で彼女に伝え続けたのだった。
「はぁ……、はぁ……、はぁ………っ」
急なタイミングで荒れ狂っていた風の渦が消失して、それで狭い空間の中をドタバタと暴れ回っていた部屋の家具たちも、推進力を失ってボトボトと部屋の床に崩れ落ちていった。
「………………」
「はぁ~……」
締め付けていた首の拘束が解かれ、裸の王女様の身体が壁から崩れ落ちる。
その様を見て、僕も張り付いていた自身の緊張が解け、力なくベッドの上に崩れ落ちた。
荒いルイスの呼吸音だけが、一転して静けさに包まれた部屋の中に響いていた。
自分の短い十余年の人生の中で間違いなく、一番命の危機を感じた瞬間だった。
「大丈夫か?」
ベッドの上で、仰向けになりながらルイスに訊ねる。
「ええ……、少し頭痛がするだけ」
首だけ起こして状況を確認すると、ルイスも自分のベッドに腰掛け、頭痛に頭を押さえている様子だった。
ついでにもう一人の方も、状況を確認しておこうと僕は起き上がり、部屋の床で倒れたままの王女様の元まで歩み寄る。
「息は、まだあるみたいだな」
相変わらず、眩しい白い肌の色が目の毒だが、今はそんな事を気にしている場合でもなかったので、僕は彼女の首に手を当てて脈を確かめた。
静かになった部屋で耳を澄ますと、微かに、彼女の掠れた呼吸音も響いている。
「……で、どうするの?」
こんな目に合わされた彼女を見れば、個人的には彼方に同情したい気持ちも多々あったが、この状況に彼女を追い込んだ責任の一端は僕にもある。
下手な同情心で行動を変えるのは、却って無責任というものだった。
「貴方の、指輪を貸してくれる?」
「指輪? ……って、まあアレしかないか」
部屋に散乱していた物の中から、僕は作戦時に自分が持って行っていた鞄を探すと、その内側のポケットの一つから、蛇の装飾が施された《ミテラの指輪》を取り出した。
「んじゃ、はい。これ返すよ」
この指輪も、元は彼女の持ち物(?)なので、僕達の最終目的である王女暗殺作戦も無事に完遂させた今、これ以上僕がこれを所持しておける理由もなかった。
指輪の力で、もう鳥になれなくなってしまうのは残念だが、どのみち僕一人では、指輪の効力を解除して人に戻る事が出来ないので、片方だけ所持していた所で意味のない物だった。
僕から指輪を受け取ったルイスは、暫くは手にとってそれを眺めていた後、やがては何も言わず懐へと仕舞い込んだ。
それから彼女は、部屋の隅の大荷物。暗殺作戦実行の時に持って行ったのとは別に、彼女が長旅用の荷物を色々と溜め込んでいる方の鞄へ向かうと、ゴソゴソとその中を漁り、銀製の短剣と、傷の無い白磁の小皿を一枚取り出した。
「腕、押さえててくれる?」
「分かった」
ルイスの指示に従い、僕は倒れている王女様の腕を持ち上げる。
「…………」
「…………」
一瞬、無言のまま王女様と目があったが、それで特にお互い何かを語るような事はせず、僕は消えかけの光が瞳に宿る彼女の腕を取り、それを黙ってルイスの方へと差し出した。
「…………っ」
腕に短剣が通った瞬間、ほんの少しだけ、王女様の腕の筋肉が強張る。
玉の様な白い肌を鮮血が伝い、新雪を汚しながらその雫は小皿へと溢れ落ちていった。
小皿の中で大きくなっていく血だまりを、僕は何とも言えない気持ちで眺め続ける。
「もういいわよ」
「ん……」
血の溜まった小皿をルイスが引っ込め、僕は腕から垂れてきた血を、若干躊躇しつつも自分の膝で受け止めた。
そのまま部屋の床に、血が垂れないよう気を遣いつつ、ポケットに入っていたハンカチでの彼女の止血を試みる。ハンカチはあまり綺麗ではないかも知れないが、まあ無いよりはマシだろう。
指輪の変身先の書き換えが完了するのを待っている間は暇だったので、僕は部屋中に散乱していた物の中から、元は自分のベッドに掛かっていた一枚の薄いシーツを引っ張り出すと、圧迫して彼女の呼吸を邪魔してしまわないように、裸の王女様の上から、そっとそれを覆い被せたのだった。
「……終わったの?」
見つめている先で、血の池に浸っていた金色の指輪の、ちょうど蛇の目に当たる部分の装飾が、怪しく紫色の光を放った気がした。
そしてそれを合図に、ルイスが小皿から指輪を取り出す。
「ええ。これでこの指輪を付ければ、そこの王女様の姿に変身できる筈よ」
「ホントかよ……」
「試してみる?」
「質の悪い冗談はやめろ。目の前で他人が自分の姿になるとか、どんなホラーだよ」
「そう? 男の人って、生まれ変わったら女の子になってみたいって人が、意外と多いみたいだけど……、それを実現できる貴重な機会じゃない?」
「本気か……? とにかくこっちは絶対に御免だ。倫理的に何かこう……、とにかく色々とヤダ」
「貴方って、変な所で真面目よね」
僕が真面目というか、ルイスの方が大概色々とおかしいのだ。
実際、その好奇心が原動力となって、彼女はここまで魔法の腕を伸ばしてきたのだと思うが、代わりに多少の倫理観がぶっ飛んでいる気もしていた。
魔法が上手い奴って、他にも皆こうなのか……?