第13話 偽名
「ぷっは! ……おい!? いきなり何しやがるっ!?」
後ろから、いきなり頭に水をぶっ掛けられて、僕は堪らず抗議の声を上げた。
昼下がりに吹く草原の澄んだ風が、冷えた身体によく染みる。
町外れにある馬車の停留所へやって来るなり、酷い仕打ちだった。
「何って、身体を洗うに決まってるじゃない。 あなた不衛生そうだから、私も洗うの手伝ってあげようかと思って」
「だからってお前……、何の断りもなく、いきなり人に水ぶっ掛けるか普通!?」
「そんな事よりほら! さっさと身体洗って着替えちゃってよ! せっかく新しい服も買ってあげたんだから!」
「分かった! 分かったからっ! 身体くらい自分で洗えるから!」
停留所で馬を洗う用に溜められていた水を汲み上げ、容赦なくこちらへぶっ掛ける為の二射目を用意していたルイスから、僕は急いで距離を取った。
「……ちゃんと下も脱いでよ?」
「ここで裸になれとっ!?」
草原の野風に晒されながらも、僕が渋々と服を脱いで、濡れタオルで身体を拭いていた所、またしてもルイスからとんでもない要求が飛んできた。
「だって貴方、下着まで全部泥だらけじゃない。そんな状態で着替えられても、せっかく買ってあげた新しい服まで一緒に汚れるだけよ。それにちゃんと替えの下着だって………、買っては、いなかったわね。……忘れてた。私ちょっと買いに行ってくるから、貴方はその間に、ちゃんと全部済ませておいてよ!」
「あっ!? おい!」
殆ど野晒しの中、停留所にパンツ一丁の僕を放り出して、ルイスは颯爽と町の中心街の方へと駆けて行ってしまった。
買い忘れに気付いてから行動に移るまでが早過ぎて、止めようと声を掛ける暇すら無かった。
「マジかよ……」
呆気に取られて僕は呆然と、馬と一緒に停留所に佇んでいた。
近くに停められていた馬が、まるで変な物を見る様な目で、隣でパンツ一丁で佇んでいた僕の顔を覗き込んでくる。
「兄ちゃんも大変だなぁ……」
「は、は……」
停留所で、普通に自分の馬を洗っていたベゴニアさんから慰めの言葉を掛けられるも、余りにも常軌を逸した彼女の行動に、僕の口からは乾いた笑いしか出て来なかった。
……やっぱり、彼女に協力すると言ってしまったのは、間違いだったかも知れない。
暫くして、新しく替えの下着を買って戻って来たルイスと、僕は若干揉めながらも着替えを完了させ、昨日散々お世話になった御者のベゴニアさんにも、改めてお礼を伝えてから、僕達は町外れにある馬車の停留所を離れて、町のギルドを目指したのだった。
《ハンターギルド》の窓口は、同じ建物の中でも一番隅の方にある。
こんな平和な田舎町では他に利用者も居ないのか、カウンターの奥では昨日と同じ職員のお姉さんが、一人で頬杖を付き、暇そうに書類仕事をしていた。
「いらっしゃいませ」
来訪者の存在に気付いたお姉さんが、一転して仕事モードになって顔を上げる。
今日、僕達がここへやって来たのは、昨日受けた依頼の達成の報告をする為と、僕がギルドで、正式にハンターとしての登録を行う為でもある。
これから本格的に魔法を習うに当たって、実践形式でそれを試す必要もあるだろう。
ならば先に、ギルドでハンターとしての登録を済ませておいた方が、依頼の達成も兼ねられて便利だと、ルイスからの助言があっての事だった。
「活動名って、本名でも良いんですよね?」
「はい、問題ありません」
登録の為に、新しく名前を考えるのも面倒だったので、僕が記入用紙に、ただ何も考えず自分の名前を書き入れようとした所で、横からそれを見ていたルイスに引き留められる。
「――待ちなさい」
「……なんだよ?」
「貴方まさかとは思うけど、自分の本名で登録するつもり?」
「……そうだけど?」
実際、職員のお姉さんもそれで良いと言っていたのだから、何も問題はないだろうに。
なのに何故、こいつはこんなにも不満そうなんだ?
「呆れた……。ちょっとこっちに」
ルイスから強引に腕を引かれ、僕は、人気のない建物の隅っこまで引っ張って来られた。
「正気なの? 貴方自分が誰だか、忘れた訳じゃないでしょうね?」
「……はぁ?」
本当に何の事だか分からないという僕の態度を見て、彼女は本心から呆れ果てている様子だった。
こめかみに手を当てながら頭痛を抑え、まるで救いようの無い馬鹿を相手にしているといった態度だ。
……なんだかコイツに、こういった常識を疑われる様な態度を取られると、自分でも人並みに良識はあると自負している僕としては、物凄く心外なのだが?
「あのねぇ……、貴方はロベリア王国に召喚された、異世界の《勇者》なのよ? その名前の響きからしても、この世界の一般的な人のソレとは異なるの。だから事情を知っている人が聞けば、一発でその正体まで辿り着かれてしまう危険性もあるのよ?」
「あ……」
彼女から指摘されて、僕は本当に初めてその危険性に気が付いた。
未だ王国から追われる身として、色々と気を付けねばならない立場にあるのに、相変わらず警戒心が薄いにも程がある。とんだ間抜けっぷりだった。
「でも昨日、依頼を受ける時に、既に一回本名で名前書いちゃったんだけど……?」
「それは……、まあ良いわ。どうせ正式なハンター登録をせずに受けた時の依頼でしょ? 暫くすれば記録も処分されるだろうし、実際にギルドで登録をした時の名前と違えば、貴方がその人と、同一人物だという証拠にもならないと思うから」
「さ、さいですか……」
「はぁ……、これからは気を付けてよね」
「はい……、すみません」
これについては完全にこちらが悪いので、僕はただ反省して謝る事しか出来なかった。
「とにかく本名で登録するのは絶対に禁止ね。今後は人前で名乗る用に、何か新しく、こっちの世界の人らしい別の名前を考えないと」
「偽名か……」
偽名といえば、僕のこの“穂高聖一”という名前も、元は預けられていた孤児院の人達が適当に付けてくれた名前なので、嫌いでは無いがこれといって思い入れもなかった。
なので、さっきは面倒臭くて考えるのを放棄したが、いっそこの機会に、これから新しく名乗っていく用に、自分で何か格好良い名前を考えてみるのも良いかも知れない。
「……でも、この世界の人らしい名前って、そもそもどういうのだよ?」
「思い付かないなら、私が何か適当に考えてあげても良いけど?」
「例えば?」
名前に特に拘りは無いが、下手に格好付けようとし過ぎて、自分でも気付かない内に、元の世界で言うキラキラネームみたいな恥ずかしい名前になっていても嫌なので、ここは参考までに、元からこの世界の住人であるルイスの意見も伺ってみる。
「そうねぇ……、例えば、“トーレス”とか」
「…………それ、お前のお兄さんの名前から取ってない?」
「………………」
「な、なんだよ?」
何となく、自分がただ思った事を口にしただけなのだが、まるで信じられない物を見る様な、驚きに見開いた目でルイスが僕の事を見てくる。
「………別に」
しかもそれ以来、彼女は明らかに何かありますといった、思わせぶりな態度で黙ってしまう。
僕としては、何故か記憶に残っていた、“スレーナ・リアトリス”という彼女のお兄さんの名前と、どこか名前の響きが似ていると思ったからそれを口にしただけで、これといって他意は無かったのだが……、まさか本当に?
流石に故人の名前を使うのは僕としても気が引けるし、何より、これからその人を殺された復讐を果たそうという時に、彼女の協力者である僕がその名前を名乗るのは、お互いに色々と拗らせそうで怖かった。
「………ダメだ。思い付かん」
黙りっきりになってしまった彼女の代わりに、他に自分でも使えそうな名前を考えてみたのだが、如何せんサンプルが足りな過ぎて、それらしいものが思い付かない。
僕がこの世界で知っている名前なんて、精々、ルイスと彼女のお兄さん。それから御者のベゴニアさんに、あの王国の王女様くらいのものだった。
終いには、こんなどうでも良い事で頭を悩ませているのも面倒になり、僕は結局は、ルイスが口にしたあの“トーレス”という名前を使う事にしたのだった。
他ならぬ身内である彼女自身が、一度はそれを良しとしたのだから文句はあるまい。
「登録名は、“トーレス”さんで宜しいですか?」
記入用紙に書き込まれた名前を、受付のお姉さんが復唱する。
……なに、どうしても気になるなら、またその時に考えればいい。
そのくらいの軽い気持ちで、僕はギルド側の最終確認に対しても、首を縦に振って答えたのだった。