第9話 スレーナ・ルイスワーデ
近くにあった家の壁を背に座り直し、僕は彼女に話の続きを促す。
『スェラ・フルゥーウ・リッタ・アウラ、レコール・セント・プラム・シィールト』
見上げている先で、彼女は何かの詠唱らしきものを口ずさんだ。
すると、彼女を中心として発せられた淡い水色の光が辺りを包んでいき、やがては青空に溶ける様にしてその光は消えていった。
周囲にある家の壁や、僕自身の身体をも通り抜けてその光は広がっていったが、それによる変化はこれといって感じられなかった。
「この辺りに、私の魔法で防音の処置を施したわ。これで他の人からは、私達の会話は聞こえない筈」
防音……、魔法にはそんな事も出来るのか。
てっきり水や炎みたいな、形のある物を生み出すだけの力かと思っていた。
「恐らくは私も貴方も、他の人に聞かれたくない事情がある。……違う?」
「こっちがそうだってのは……、まあ分かるけど。アンタがそうだっていうのは?」
「……まず先に、自己紹介から始めましょうか。私の名前は、スレーナ・ルイスワーデ。ここからずっと北にある、《ノースポーラ》って国の出身よ。私自身は、誰かから直接追われる身とかではないんだけど、訳あって人を探していて、今はあまり目立ちたくないの」
「ふ~ん?」
「私からも、先に一つ確認をしてもいい?」
「ああ」
「貴方は《ロベリア王国》に召喚された、異世界の《勇者》ってことで、いいのよね?」
「少なくとも、連中はそう思ってるみたいだな。……全く自覚は無いけど」
「自覚が無い? 魔法は使えないの?」
「さあ? 試した事すらないんでね」
「……まあいいわ、話を続けましょう。貴方が本当に、王国が召喚した《勇者》当人であるなら、この世界に召喚されたその儀式の場で、何かを見た筈。それを私に教えて」
「何かって、言われてもなぁ……」
あの時は、この世界に来たばかりで見る物全てが珍しかった。
ルーペンス城の庭園は綺麗だったし、そこで出会ったあの銀髪の王女様も、自分の中学時代の元同級生たちが、実は人間ではなく猿だったんじゃないかと思える程、外見だけなら美しい姿をしていた。
あと他に、あの空間で特筆すべきものと言えば――、
「王国が《勇者召喚》の魔法を使ったのなら、他にも誰か、近くには関係者が居た筈。その辺りに何か覚えはない? 例えば、儀式を行った王国の魔術師とか」
「魔術師? 黒い変な格好の人達なら、確かに何人か居たと思うけど」
「その人達が今どこに居るか分かる!?」
いきなり血相を変えて食い付いてきた彼女に、僕は気圧されながらも話を続けた。
「いや……、けど多分、あの人達もう全員死んでると思うけど? 出血とか、相当酷かったし、動いてる人も、見た限りじゃ一人も居なかったから」
「……っ!」
その時、初めて正面から見た彼女の瞳が、ほんの少しだけ光に揺れた気がした。
こちらから視線を逸らし、微かに俯いた彼女の反応を見て、僕は自分がしてしまった失言に気が付いた。
「そう……、やっぱり、そうなのね」
如何に人付き合いが苦手な僕とて、この状況の意味が分からない程、愚かではなかった。
何かを噛みしめる様に沈黙を続ける彼女に、僕も気不味くなって目を背ける。
「…………」
「…………」
そうして訪れた長い長い沈黙の後に、彼女はポツポツと言葉を紡ぎ出す。
「……私の兄、スレーナ・リアトリスは、とても優秀な魔術師だった。百年に一度の天才と謳われ、魔法の研究に携わる者なら、若くしてその名を知らぬ者は居ないと言われる様な、天才的な魔術師だった。その魔法の才を買われて、祖国から遠く離れたロベリアの地にまで、魔法研究の賓客として外部から招かれていたの。……とても尊敬していたわ。幼い頃からずっと、大切な家族だった。……けれど才能溢れる兄にとって、私達の国は小さ過ぎたから。自分の夢の為に国を出る決意をした彼を、私達家族には止める事なんて出来なかった。例え《ロベリア王国》は、今は衰退していても、帝国時代に築いた魔法研究の遺産が、今も多く残っている国だから。兄が自分の才能を活かす上で、これ以上の環境はないと思ったの」
《ロベリア王国》の前身となった、かつての《ロベリア帝国》。百年前に起きた魔族との戦いで衰退する以前には、人間の国でも最大勢力を誇っていたらしい。
恐らくは魔法の研究でも、当時の最先端を行っていたのだろう。
今の王国が抱えている様々な問題だって、元を辿れば全て、この帝国時代の遺産をどうやって分割するかという問題に帰結する。
「祖国から遠く離れた地へ兄が行く事に、不安がない訳じゃなかった。今のロベリアが周辺国との仲が悪いって話は、そこから遠く離れた地に住んでいる私達の耳にも、ちゃんと届いていたから。……ただ、私達の国 《ノースポーラ》は、昔あった魔族との戦争で助けられた縁もあって、比較的ずっと王国との仲は良かったから、大丈夫だろうって思ったの。……兄が王国へ行った後も、定期的に手紙でやり取りはしていたわ。三ヶ月に一度くらいは、私達の国との間でも定期便があったから。例え届いた手紙が、それが書かれてから大分時間の経っている物だったとしても、私達家族にとっては、彼が無事にやっている事を確かめられるだけでも嬉しかった。……けれど、一年くらい前になって、急に手紙が来なくなった。初めの一回くらいは、兄も研究で忙しいだろうし、まあ偶にはそういう事もあるかと思って、諦めていたのだけれど……、それが二回、三回と続けば、流石に心配にならざるを得なかった。……それで、過去に彼から届いていた手紙を見返していて気付いたのよ。連絡が途切れる直前に届いていた手紙には、もう一つ別のメッセージが隠されているって」
「別のメッセージ?」
「ちょっとした暗号文よね。注意して読めば、そこまで難しいものではなかったけれど、複数の手紙に分けてその暗号は書かれていたから、王国側の検閲でも流石に気付けなかったみたい。そこに、貴方たち《勇者》についての情報も書かれていたのよ」
「……なるほど」
「私達の世界とは異なる世界から、優れた魔法の力を持った者達を召喚する。そんな馬鹿げた話、とてもじゃないけど最初は信じられなと思った。でも兄は、冗談でこんな話をする様な人じゃなかったし、それをわざわざ暗号でなきゃ伝えられない状況的にも、最終的には私も信じざるを得なかった。あとで国の文献を調べてみて、過去には確かに、そういった人達が存在したという記録がある事も、私も自分の目で確かめたわ」
……僕たち以外にも、過去に余所の世界から、この世界へとやって来た人がいた?
それは僕達と同じ世界から?
それとも僕達も知らない、更に別の世界から?
その人達はこの世界にやって来た後、どうなったのだろうか?
「兄は手紙の中で、自分が王国に殺されるだろうとも書いていた。《勇者召喚》の魔法で生け贄とされる魔術師の一人に、自分は選ばれるだろうって」
「生け贄……」
――忘れようもない、この世界で最初の記憶。
鮮烈な血色の記憶と共に、僕の脳裏には彼らの姿が焼き付いている。
「ねぇ……、亡くなった魔術師達の中に、私の兄の姿はあった?」
「ごめん……、流石にちょっと、そこまでは」
「そう、よね。……ごめんなさい。貴方には、彼の姿も分からないのに……、こんなこと貴方に聞いたって、答えられる訳がないって……、ちょっと考えれば、すぐに分かる筈だったのに……、何やってるんだろ、私……」
「…………」
自分がこの世界に来た所為で、他の誰かが死んだかも知れない。そんなこと最初から分かっていた事ではあるが、今ここに来てその事実が、僕の心に重くのし掛かっていた。
ここで自分には関係ない、自分も同じ被害者なのだと開き直れれば、どれだけ良かった事か。
しかし目の前に立っている彼女にとっては、今こうして僕がこの場所に存在している事自体が、身内の死を証明する唯一の現実なのだ。
その視線から目を背けて逃げる事など、僕のちっぽけな心では到底出来なかった。
「私は……、こんな事をした王国が許せない! 私から大切な家族を奪った王国が、絶対に許せないの! だって私には、王国の事情なんて関係ない! 帝国時代の復権だとか、今の王国がどういった問題を抱えているかなんて、そこから遠く離れた土地で生まれ育った私達には、何の関係もない! なのに! そんな身勝手な理由で、人の人生を弄んで奪って殺して、私はそんな王国が絶対に許せないの! ……だから私は、《ロベリア王国》に復讐する! 私から大切な家族を奪った事を、絶対に王国に後悔させてやるの! 貴方だって、王国に自分の人生をいい様に弄ばれて、少なからず恨みはある筈でしょ? だから私達、協力出来ると思うの! どうかお願い、私の復讐に力を貸して!」
真っ直ぐに向けられた、彼女の瞳。
その瞳に宿る輝きは、身内を殺された復讐を謳うには余りにも、純粋で真っ直ぐなものだった。
これまでの人生、ただ卑屈に、退屈に生きてきただけの僕にとって、彼女のその瞳の輝きは、どんな宝石の輝きにも負けない程、美しくて眩しくて、輝いて見えたんだ。
だからこそ――、
「僕は―――」