第7話 緑の風
「しまっ――!」
瞼を焼く陽光の眩しさに、僕は慌てて飛び起きた。
寝起きの思考も冷めやらぬままに、朝日の存在を感じた身体が反射的に跳ね起きる。
あれだけ眠らないよう注意していたのに、結局はあのまま眠りに落ちてしまったらしい。
頭上から差し込む木漏れ日の存在で、僕はとっくに夜が明けている事を知った。
「……?」
慌てて周囲の状況を確認するも、僕は更なる混乱に包まれる。
ここは……、一体どこだ?
目が覚めると、またしても周囲の景色に見覚えがなかった。
昨日は確かに、森を流れる小川の近くで意識を失った筈なのに、この辺りにはそれらしき川も、その存在を感じさせる音や匂いの類も一切が存在しない。
一応、周囲をどことなく見覚えのある植生の木々に囲まれているので、ここが同じ《クユリナの森》の中の何処かである事は確かなのだろうが、目の前の景色には全く覚えがなかった。
……もしかして、寝ている間に誰かに移動させられた?
けれどあんな深い森の中で、一体誰に?
可能性として一番高そうなのは、昨日森で夜遅くまで僕を探し回っていた、ロベリアの王国兵辺りだろうか?
昨日、小川の近くで、堂々とこちらが眠りこけている所を発見され、それで森の中にある奴らの拠点まで、意識を失っている間に連れて来られたとか。
しかしだとすると、何の拘束具もなく森に放置されているのは、少々不自然だ。
こんな状態で森に放置すれば、一度は逃げ出した僕が再度逃走を企てる事など、連中としても重々承知の筈だし、近くに見張り役の兵士が一人も居ないのも尚更不自然だった。
森の中で行き倒れていた僕を、誰か偶然近くを通り掛かった旅人が助けてくれた、なんていう都合の良い展開も考えられないし、考えれば考える程に謎は深まるばかりだった。
「まさか、また別の世界に……、とかないよな?」
なまじ一度経験してしまっているが故に、それが全くないと言えないのが、今の僕の恐ろしい所だった。
寧ろこの状況、自分が実は極度の夢遊病患者でした、なんていう巫山戯たオチを除いた場合には、それが可能性として一番あり得るかもとすら思えてしまう。
「……まあ、どっちでもいいか」
考えた末に、僕はふと冷静になって呟いた。
見覚えの無い景色に一時はパニックになり掛けたが、よくよく考えてみれば、ここが昨日まで居たあの異世界だろうが、意識を失っている間に、また新しく召喚された先の更に別の異世界だろうが、僕のやるべき事に変わりはなかった。
適当に一人でも食っていけるだけの稼ぎを得て、今度こそ誰に縛られるでもない、自分だけの自由な生活を手に入れる。
着のみ着のまま、新しく人生を再スタートさせなくてはいけないという点では、昨日から何も変わってはいなかった。
未だこの状況に疑問は多々残るが、とりあえずは此処がまだ《ロベリア王国》の南西部、《クユリナの森》の中の何処かであると仮定して、暫くは当初の予定通り、隣国を目指して森を西へ進むとしよう。
「……光?」
気持ちを切り替えて、鬱蒼と生い茂る森の中を進んでいると、僕は前方の一画に、一際強く太陽の光が差し込んでいる場所を発見した。
遠くから見た限りでも、そこには森の木々全体が光っている様な眩しさがあった。
そうして光に導かれるがままに森を進み、やがて目に飛び込んできた光景を見て、僕の瞳は再度、驚愕に見開かれるのだった。
「…………」
見渡す限り一面の緑。
水平線まで続く緑の大平原が、目の前には横たわっていた。
眩しさに目を覆いたくなる程の緑。眺めていると目の奥がジンジンしてくる。
……もう何が何やらだ。
一昨日から驚きの連続過ぎて、考える気力すら湧いてこない。
「一体、何処なんだよ……」
楽観的に考えるのなら、ここは既に《ロベリア王国》隣国の領土内で、僕は昨日から森を彷徨っている内に、いつの間にか国境まで越えてしまっていたという事になる。
――しかし、残念ながら実際にはそれは有り得ない。
一昨日、ルーペンス城で見せて貰った地図の縮尺を元に考えると、隣国との国境を跨いで広がるこの森林地帯を抜けるには、最低でも徒歩で三日は掛かる計算だったからだ。
只でさえ体力の無い僕が、僅か半日やそこらで、到底踏破出来る距離ではなかった。
「……どうする?」
何の心構えも出来ないままに、唐突に目の前で森が終わってしまったので、次は何を目指したら良いのかも分からない。
命より大事な物はないと、まずは王国から逃げ出す事を優先に動いていたので、現時点で本当に隣国へ入れていたのだとしても、その先の具体的なプランがゼロだった。
とりあえず、何もない草原のど真ん中を進むよりは、緑豊かな森の近くに居た方がまだ水も食糧も確保出来そうだし、何か人工的な建造物が見付かるまでは、ひとまず森との境界に沿って草原を進んでみるべきだろうか?
「おーいっ!」
「っ!?」
意識の外から、突然こちらを呼ぶ大声がして、僕は驚いて声の方を振り返った。
視線の先、鮮烈な緑が視界を覆う中で、遠方の青い山々を背景に、馬車を駆け遠くから近付いてくる人の姿があった。
いきなり声を掛けられて、僕が逃げるべきか判断を迷っている内にも、その人影はどんどんと此方へと近付いて来る。
ここまで近付かれては、今更逃げ出す事も出来ないので、僕は密かにポケットに忍ばせたサバイバルナイフに手を添えて、その人物との接触に備えた。
「見間違いかとも思ったが……、まあ、なんだ。おめぇさん、この辺じゃ見ねぇ格好してんなぁ? 軍人さんかい?」
軍人――、僕の学生服を見て、そう判断したのだろうか?
濃紺色のブレザーに、ほぼ黒に近い配色のスラックス。確かに事情を知らない人が見れば、中学時代のこの制服は、軍服と勘違いしてもおかしくないデザインだった。
「それによく見りゃおめぇさん、身体中ボロボロじゃねぇか。随分と怪我もしてるみたいだし、まさかその状態で一人で森を抜けて来たのかい? よく無事だったなぁ……」
この距離からでも、彼にあまり敵意は感じない。
年齢は推定、三十代後半から四十代の前半といった所。
見知らぬ僕にも気さくな調子で話し掛けてきて、根が悪い人には思えなかった。
先に遠くから、大声で自分の存在を知らせてくれた事からしても、差し当たってこちらへの敵意は無いと判断しても良さそうだった。
「で、怪我は大丈夫なのかい?」
「えっと……、はい」
「そうかい? 俺には、どう見ても大丈夫な様には見えねぇが……」
森の中を何度も転んだ所為で、僕の身体は全身が泥と擦り傷だらけ。
これでは大丈夫だと言われても、信じられないのも無理はなかった。
「おめぇさん、ひょっとして……、お隣さんからの脱走兵だったりしないかい?」
「脱走……、兵?」
この状況、さてどう言い訳したものかと僕が頭を悩ませていると、先に相手の方から予想外の単語が飛んできた。
脱走兵とは、どういう事だろう?
「ああ、この辺りは国境が近いからな。何もそういうのが居たって別に不思議じゃねぇ。俺も実際、自分の目で見るのは初めてだが、仕事でもっと北の方の国に居た頃にゃあ、そういった連中を見たって奴の話は、結構耳にしたもんだぜ」
「…………」
「あっちの方は、もう大分きな臭ぇからなぁ。いつ戦争が始まるんじゃねぇかと、こっちもヒヤヒヤもんだぜ。……しっかし、おめぇさんみたいな若ぇもんまで逃げ出さなきゃならねぇとなると、この辺りもいよいよって所かね」
相変わらず彼に、こちらへの敵意はなさそうだが、その表面上の態度だけで、どこまで信用して良いものやら。
彼は僕のことを、王国からの脱走兵だと勝手に勘違いしてくれているみたいなので、まずは適当に話だけでも合わせて、可能な限り情報を引き出してみるべきか?
「……乗ってくかい?」
「………?」
言われている事の意味が分からずに、僕は疑問の表情で顔を上げる。
「俺はこの辺りで、荷運びの仕事をしているんだがよ? 今は西の方にある町まで、荷物を運んでいる途中なんだ。だからおめぇさんさえ良けりゃ、ついでに乗せていってやろうかと思ってな」
「……いいん、ですか?」
思ってもない申し出に、僕はつい警戒心も忘れてそう返事をしてしまう。
「まあ、乗せていく荷物が一つ増えるだけだからな。大した手間じゃねぇよ。別にお代を取ろうとも思っちゃいねぇから、その辺は安心しな」
「あの……、先に一つお聞きしても良いですか?」
暫く考えた末に、僕は先に確かめておかなくてはならない事を思い出して彼に訊ねた。
「おう、なんだい?」
「この辺りがどこかって、その……、分かりますか?」
「ここかい? ここは《フォルシア》の……、まあ東の方だな」
フォルシア――、確か《ロベリア王国》の西隣にあった国が、そんな感じの名前だった筈だ。
これで此処が、昨日まで居たあの異世界と同じだと確定した。
それが僕にとって、良い事か悪い事かはさておき。
「えっと……、じゃあ、お願いしても良いですか?」
これ以上黙っていると逆に不審がられるので、僕は迷いながらも彼の提案に乗せて貰う事にした。
ここが隣国なら、町に着いていきなり捕えられる様な事もないだろう。
まずは人の多い場所に行って、そこで情報を集めつつ今後の事を考えれば良い。
「よしきた。あっちの方に俺の馬車が停めてあるから、着いて来てくんな」
彼の進んでいく先には、草原の真ん中に一台の荷馬車が停めてあった。
こんな遮蔽物も無い広々とした場所を、これまで堂々とこの荷馬車が走っていたというのに、相手から声を掛けられるまでそれに気付かなかったとは、自分のさっきまでの呆けっぷりがよく分かる。
停めてあった荷馬車の元まで辿り着き、僕は髪や身体中に付いていた泥を、せめて精一杯両手で払い落とした後、後方から馬車の荷台へと乗り込んだ。
草原を走る馬車の上で揺られながら、僕は改めて名前を“ベゴニア”さんというらしい御者の彼と、雑談がてらに情報を集め続ける。
この世界の情勢について、《ロベリア王国》の偏った視点以外からの情報が欲しかった。
――ただ意外な事に、史実に関しては、王国側が語った内容に殆ど嘘偽りはなかった。
それでも強いて言うなれば、近年周辺国と積極的に揉め事を起こしているのは、どうにも《ロベリア王国》の方らしいということ。
帝国時代の復権を狙い、武力闘争も辞さない構えで、かつては帝国領だった周辺の国々と、様々な問題を引き起こしているらしい。
昔の事情はどうあれ、僕達にとっては迷惑な話だ。
そんな身勝手な都合で、ただ巻き込まれた側の身にもなって欲しい。
王国からの脱走兵が増えるのも、当然の理由だった。
「ふわ~ぁ……」
長い間、馬車に揺られていると、不意に大きな欠伸が口を吐いて出た。
定期的に揺れる馬車の振動が、疲れた身体に心地良い眠気を運んできた。
頬を撫でる風の感触が気持ち良い。草原を流れていく緑の風が、これまで溜め込んでいた嫌な記憶も、風に乗せて全部洗い流してくれるかのようだった。
とても長い時間、馬車に揺られていた気がする。
荒く整備された草原の道なりを進み、時折、小石を撥ねてはカタカタと揺れる馬車の上で、僕はゆったりと微睡んでいた。
軽快な音を響かせて、馬車は街道を進む。
遮る物一つない一面の緑に囲まれて、ただ車輪の跳ね回る小気味の良い音だけを響かせながら、馬車はどこまでも続く草原の街道を、西へ西へとひた走るのだった。