⑦
「ああ、あの時の」
早川は思い出した。貴明の顔をマジマジと見てみる。シワは増えているし、体系も変わっているが、あの時の男性だ。春馬は………さすがに、変わりすぎている。あの頃の面影はない。
「改めて、あの時はありがとうございました」
貴明が深くお辞儀をした。
「いえ、いえ、あれはセナがそうしたいといったものですから」
早川は両手を胸の前でふって恐縮した。
「セナがそう言ったの?」
春馬が興奮したような声で顔を突き出してきた。変声期を終えて、第二次反抗期を向かえ、おそらく自分の遺伝子を次に伝達する手段を持ち合わせ、その伝達方法を知識として認証している十五歳の声は力強かった。早川は春馬の熱さに押されながら答えた。
「ええ、そうですよ」
「そう………か」
喜んだ顔を人に見せたくないのか、首の間接を前に曲げて早川の足元に視線を向けながら、春馬は頬の筋肉を重力に逆らって上にあげた。
春馬の表情に気づいたのか、貴明が「お前もお礼を言いなさい」と春馬の頭を後ろから押した。早川の足元を見ていた春馬の頭は最初から下を向いている。貴明の手は春馬のツムジのあたりを軽く触れて春馬に頭を下げさせたように見えた。
「さあ、試乗の時間は決められていますから、行きましょう」
早川は四人をピットの方向へ案内をするため、腰を少しだけ曲げて手で交通整理の誘導員のように弧を描いた。四人は早川にうながされて、ピットの方向へ歩き出した。
ピットクルーから試乗車の鍵を預かった早川は、鍵を貴明へ渡した。
「どうぞ、熊谷さん」
貴明は鍵を受取ると、ワイヤレスキーのボタンを押した。「カチャ」と音がして、試乗車のドアロックがはずされた。後部座席のドアに触れるとドアはゆっくりとスライドされて、後部座席への入口が開かれた。
「うわ、広い」
小学生の凛が感嘆の声を上げた。
「そうね、これなら家族旅行も楽しくなるわね」
妻の真由子が車内を覗きこみながら凛に続いた。貴明は運転席のドアを開けて、シートに座り込んだ。
「視界もいいし、シートの座り心地もいい」
貴明は、フロントガラスの先に見える公園の木立を目を細めながら確認した。
「どうぞキーを差し込んでみてください。インパネも綺麗で見やすいですよ」
早川に勧められるままに、貴明はキーを鍵穴に差し込んだ。キーを時計回りに回転させると「カチッ」と音をさせて、インパネに明かりが点った。
デジタル式に速度と、エンジン回転数を知らせるアラビア数字が0と映しだされた。
「すごい。最近の車はこうなっているんですね」
貴明は興奮した様子でハンドルを握った。
車外で一人、クールに決めている男がいる。春馬だ。早川は一人だけ冷めた空気を発する春馬の視線の先を確認した。
視線の先にはCR1があった。春馬はスポーティーカーのCR1が気になるのだろう。そのブレのない視線に、早川は少しだけうれしく感じた。
「春馬、お前はどう思う?」
運転席から貴明の声が聞こえる。春馬は貴明が座る運転席の方向へ視線を変えた。
「うん?いいんじゃない」
「そうか。いいか」
貴明はうれしそうだ。早川は春馬の表情を記憶の中に保存しながら、ハッチバックのボタンを押した。ハッチバックは「カチャっ」と音をたてて、金属製の扉を少しだけ上へあげた。
「どうぞご覧になってください」
早川はハッチバックを上に押し上げて、トランクと後部座席を春馬の視界に入れた。春馬は早川の声につられて、トランクと後部座席の中に視線を移した。
「どうですか。これだけ広ければ、ボードも楽々入りますよ」
早川は三列シート最後部の座席を折りたたんでみせた。春馬は早川の隣に体を移動させて、トランクルームをのぞきこんだ。
「どうですか?春馬さんが、大学生や社会人になっても、お友達とスノボやサーフィン、キャンプに行くにも便利ですよ」
「えっ、ああ」
春馬は興味があるのだか、ないのだか解らない声を出した。
「それに」
早川は三列シートの二列目と三列目をスライドさせて、距離を調整した。背もたれは真っ直ぐ後ろへ倒した。室内には水平になったシートが、心地よい雰囲気をかもし出している。
「こうすれば、車内で仮眠も取りやすいですし」
早川の言葉に、春馬は「チッ」と舌打ちをした。
「ダッセ。そんなところで寝ないで、ホテルで寝るよ」
「そっ、そうですか………」
早川も心の中で舌打ちをした。〈チッ、反抗期のガキはあつかいやすいんだか、あつかいにくいんだかわからん。めんどうくさいな〉
「早川さん、これはなんですか?」
春馬との空気を気にしたのだろうか、真由子がフロントガラスの上に取り付けられた黒い突起物をさわりながら尋ねてきた。
「ああ、それはドライブレコーダーのカメラです」
早川はフラットになった三列シートの三列目に両手を付いて、上体を前へ乗り出しながら答えた。春馬は興味無さそうに視線を外へ向けた。
「事故などの衝撃がバンパー付近に発生すると、三十秒前にさかのぼって録画を自動的に保存します。弊社の新車には全て取り付けられています」
早川は助手席側からカーナビ用のディスプレーを捜査して、画面をフロントカメラの映像に切り替えた。
「あら、これ夕方のニュースで見たことがあるわ。タクシーとかについている奴ですよね」
真由子は自分の知識をひけらかすように、明るい口調で論じた。
「ええそうです。あと、この画面には」
早川は画面右下に映されたアイコンを人差し指の先でタッチした。画面がテレビに変わった。
「テレビ、DVD、インターネット、それに車をバックさせるときに便利なリアカメラの映像を映すことができます」
早川の説明に、凛が真由子の腋の下から顔を覗かせた。
「同じ映像を助手席裏側に取り付けられた十四インチの画面にも映すことができますから、渋滞のときにもお子さんたちは退屈はしません」
早川は、助手席後ろに取り付けられた十四インチの液晶画面のスイッチを入れた。液晶画面には、カーナビ画面と同じテレビ番組が映された。
「ママ、これいいよ」
「そうね」
凛と真由子は見つめあって笑った。
「お気に召しましたか?」
早川は営業スマイルで、カーナビ画面の映像をフロントカメラの映像に切り替えた。貴明は凛と真由子の反応を確認した。凛も真由子もうれしそうだ。
「よろしければ、そろそろ公道を試乗されてみてはいかがでしょう?」
早川は貴明、凛、真由子の順番で表情を確認した。三人とも小さくうなずいた。
「春馬、お前も乗るだろ?」
貴明が開いたままの運転席側ドアから顔を出して、春馬の顔を確認した。
「あっ、ああ」
春馬は遠くに向けられていた視線を貴明の方向へ戻した。早川は春馬の視線が向けられていた方向に、何があるのか確認してみた。
そこにはイベントスタッフの手により、ピカピカに磨かれたCR1が、秋の日を浴びて輝いていた。
試乗中も春馬は反抗期独特の感情表現ばかりしていた。早川はそんな春馬のことが気にはなったが、いまは車を売ることが先決だ。
「いかがです?乗り心地は?」
助手席に座った早川は、二列目に座る凛と真由子の方向へ顔を向けて尋ねた。家族向け自家用車の購入決定権は女性が持っている事が多いからだ。
「ええ、足元も広いし、揺れも気にはならないし、ねえ凛ちゃん」
真由子は隣に座る凛に笑顔を向けた。凛も笑顔を返した。
「うん。快適」
凛の答えに早川も笑顔を返した。
「春馬君は………」
早川は三列目に座る春馬へ話しかけようとしたが、やめる事にした。春馬は両腕を肩の高さからシートの後ろに回している。顔は九十度曲げて、外の景色を見ている。
「済みません。反抗期なもので」
貴明が運転席から頭を下げた。
「いえいえ」
早川は小さく首を振った。車内を沈黙が牛耳った。沈黙を嫌った貴明が口を開いた。
「早川さん、お子さんは?」
「いえ、結婚もしていません」
車内を再び沈黙が牛耳った。「ゴホ、ゴホ」ストレスを感じたのか貴明は咳き込んだ。
「パパ、大丈夫?」
凛が後ろの席から声を掛けた。
「ああ、大丈夫だよ」
「そうだよね、パパは体のことをよく知っている先生だから、大丈夫だよね」
「えっ、お医者さんなんですか?」
早川が、親子の会話に口をはさんだ。
「いや、医者というわけではないのですが………」
貴明は照れくさそうに笑った。
「大学で助教授をしているんです。お父さんの仕事はどんな仕事なの?と凛に尋ねられたときに、助教授というよりも先生と表現したほうが解りやすかったので、凛には先生と伝えています」
真由子が後ろの席から口をはさんだ。
「そう。パパはノーベル賞を取るんだよね」
「ははは、取れたらいいね」
早川は真由子、凛、貴明の順番で顔を向ける方向を変えた。
「ノーベル賞って?そんな有名な方なんですか」
「いえいえ、取れたらいいな………っていうレベルですよ」
貴明はフロントガラスの上部に視線を移動させた。右足はアクセルペダルから、ブレーキペダルの上へ置き換えられた。山なりに盛り上がった貴明の右太ももは、ゆっくりと沈められていく。五人を乗せたワンボックスカーはゆっくりと速度をおとしていった。
「ギィィ」
貴明は左足でサイドブレーキペダルを踏んだ。フロントガラスの先には赤信号が点っている。
「今、私は、医大に勤務している、助教授です」
貴明はハンドルを握ったまま、視線は前方の赤信号へ向けた状態だ。
「今私が、研究しているのは、記憶に関してです」
早川は、記憶というと脳神経が専門なのかと思いながら、貴明の話に耳を澄ました。
「早川さんもご存知だと思いますが、記憶は脳だけではなく臓器でもできるんです」
貴明が一瞬だけ、助手席の早川の表情を確認した。早川は臓器が記憶ができるという説に知識はなかった。貴明はその表情を確認した。
「アメリカの学会ではすでに、発表されているんですが、心臓、肝臓、腎臓、胃、腸。すべての臓器に生活習慣や、嗜好の分別を記憶することができるんです。臓器移植を受けた人の食の好みが変わったりすることは、事例としていくつも報告されています」
交差する車線の信号が黄色に変わった。貴明は左足でサイドブレーキを踏み込んで、話を続けた。
「今私が研究しているのは、細胞も記憶ができるのではないかということです」
「細胞も、記憶?」
早川は、細胞と臓器の違いがいまひとつ理解できなかった。臓器も脳も細胞が組織されて作り上げられているはずだ。
早川の表情を読み取った貴明は、「いや、済みません」と、笑顔で詫びを入れると、両手でハンドルを強く握った。視線は、フロントガラスの奥に点る赤信号に合わせた。
「済みません。ややこしい話ですね。早川さんはデジャブって、ご存知ですか?」
貴明の横顔を見ながら、早川は小さくうなずいた。
「ええ知っています。いま、見たこと。体験したこと。同じことが過去にもあったのではないかと、脳が錯覚することですよね」
「錯覚?早川さんは、いま、錯覚とおっしゃいましたね」
貴明は、サイドブレーキを踏み込んだ左足をゆっくりとはなして、ブレーキペダルを踏み込んでいた右足をアクセルペダルへ、移動させた。車はゆっくりと前進していった。
貴明が焦点を合わせていた信号が、赤色から青色に変わった。貴明は、アクセルペダルに合わせた右足甲の腱と、アキレス腱の伸縮を自分で自分に指示した。
車はゆっくりと、交差点へ進入していった。貴明は運転をしながら、話を続けた。
「デジャブは、今、体験した内容が、過去に体験した内容と同じであったと感じることです。それは、脳が記憶の本棚に、情報を差し込むときに、十秒前に記憶したことを数年前の本棚に誤って差し込んでしまうために、起こる状況だといわれています。つまり、早川さんのおっしゃるとおり、脳の錯覚です」
早川は貴明の表情を確認した後に、視線を前方へ向けた。耳は右隣の席にいる貴明の話に、焦点を合わせたまま。
「と、言われています」
貴明は真面目な顔をして、話を続け出した。
「でも、私は、違う説を研究しているのです。デジャブは、細胞から脳に記憶が送られて起こる現象ではないかという説です」
「次の信号は左です。その話、興味がありますね」
早川は試乗コースを伝えた後、貴明に話の続きを催促した。貴明は試乗コースを伝える早川の指示に、頭を小さく上下へ動かした。
「自分が、一生懸命やったことを、記録に残せる人っていますよね。スポーツ選手とか、ミュージシャンとか。そういう人は、満身創痍で挑んだことが記録として残されます。でも、一般の人が普段生活していくうえで、多くの人の記憶に記録される事は難しいですよね」
貴明は信号を左へ曲がった。助手席側窓の外には、公園の外周を縁取る柵が見える。柵の奥には葉を落とし終えた落葉樹が、静かにたたずんでいた。
「自分の父親が心筋梗塞で他界したのが、十年前なのですが、そのとき思ったんです」
貴明がバックミラーで春馬の表情をうかがった。春馬は窓の外の景色を見ている。
「この人はどうして死ねたのだろう?それは、自分という子供をこの世に送り出したからだろう。自分の遺伝子をバトンとして継続させていく息子が、この世にいるからだろう」
貴明の話を早川は黙って聞いている。真由子はシートベルトをむずがる凛をあやしている。
「真由子の兄が十年前になくなりました。バイク事故でした。彼は独身で自分の遺伝子をバトンとして受け渡す存在を残せませんでした。しかし真由子は言いました。ずっと覚えていると」
バックミラー越しに、貴明と真由子はアイコンタクトを取っている。真由子は小さく笑ってうなずいた。
「そのとき私は思ったのです。真由子のお兄さんが今まで行ってきた事は、今までふれあってきた人達の心の中に焼き付いているのではないかと。でも、それも一年経って薄れて、十年経ってほとんど忘れられて、百年したら誰も覚えていません。自分が一生懸命力をそそいできた事が、忘れられてしまう。それでは寂しすぎます」
早川は自分のF1事業部時代を思い出していた。自分が、あれだけの情熱をそそいだF1から自分は省かれた。自分の情熱はそこで終わってしまった。今の自分には、貴明の話が他人事とは思えなかった。
「遺伝は様々な特性、性質を次の世代へ受け継がせていくものです。外観、性質、体質、アレルギー。例えば、親子で共通の趣味を持っていたとしましょう。その理由はなぜか?それは、遺伝によって受け継がれたことと、もう一つは生活していく上でサンプルとなる存在が両親だからです」
「あっ、次の一時停止は左です」
早川は気持ちよく話しを続ける貴明の機嫌を損ねないように、試乗コースの案内をした。貴明はゆっくりとブレーキペダルを踏んだ。
「例えば、幼いころに両親を亡くした子供が、大人になったときに両親と同じ趣味、嗜好を持ちあわせていたとします。それは、なぜか?遺伝だから?それならば、両親が幼いころに抱いた感動という感情が細胞に記憶されて、自分の子供に受け継がれる事があってもおかしくはない。私はそう考えたのです」
貴明は左右を確認すると、アクセルペダルをゆっくりと踏んで、ハンドルを左へ切った。
「デジャブは、数秒前に起こった出来事を脳のファイリングミスで過去にファイリングされてしまうからではなく、細胞の奥深くに刻まれていた記憶が呼び戻されたのではないかと言う研究です」
早川は医者の話を聴きながら、天秤が大きく傾く音を感じた。燃え尽きた過去がどこかに散りばめられていて、誰かに受け継がれているのではないかと微かに期待を抱いた。
「あなた、早川さんにそんな話しをされても、早川さんご迷惑ですよ」
真由子が困ったような表情で、話に割って入ってきた。
「パパの話は難しい」
凛も真由子に同調した。間髪入れずに同調するところが、いかにも母子らしい。
試乗会ピットへ戻ってきた早川と熊谷一家は、車から降りると外装の確認をした。レンタカーではないので、擦り傷等の確認ではなく、装備の説明のために外装の確認をしている。
「済みません。最後にアンケートにご協力いただけませんか?」
早川は手に持った黒いバインダーを貴明の前にゆっくりと差し出した。
「ええ、いいですよ」
貴明は笑顔でアンケートへ、ペンをはしらせた。
アンケートを書き終えた貴明は、バインダーとボールペンを早川へ返した。早川はテントのテーブルの上に置かれたカゴの中から、トンダモータースのマスコットキャラクターをデザインした、手のひらサイズのぬいぐるみを手にした。
「ありがとうございます。こちら記念品です」
早川は貴明にぬいぐるみを渡した。貴明は「ありがとうございます」と言って、受け取ったぬいぐるみを凛へ渡した。
「あの、熊谷さん。アンケートがもう一つだけ残っていました」
早川の声に貴明は振り返った。
「もし、無人島へ一匹だけ動物を連れて行けるとしたのならば、何を連れて行きますか?馬、羊、孔雀、虎」
貴明は早川の質問にどんな意図があるのか疑いながらであるが、理系型の思考判断力を持ち合わせているようで、問題に対する解決を導き出そうとしている。
「わたしは、羊ですかね。一緒にいると安心できますから」
「凛も羊さんが好き」
貴明は凛の頭をなぜると、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。我が社の車も是非ご検討ください」
早川は笑顔で手を振る凛と、貴明の背中に向かって頭を下げた。
早川は、四人を見送った。春馬だけが早川の見送りに答えるように、何度か振り返った。しかし、視線は早川から少しだけずれていた。
早川は、春馬の視線が向けられた方向を確認した。そこにはCR1が置かれていた。
つづく