⑥
公園西門付近に設置された駐車場では、川口がタバコを吸いながら、戸田の戻りを待っていた。
「ごめん。お待たせ」
戸田は小走りに、川口へ駆け寄った。
「いえいえ、ちょうど時間通りです」
川口は自分の腕時計を確認しながら、にこやかに答えた。
「済みません。僕が長話に付き合わせてしまったものですから。記事のほうよろしくお願いいたします」
見送りに来た早川は恐縮した顔で頭を下げた。川口と戸田は急いで車に乗り込んだ。助手席側の窓を開けて戸田が別れの言葉を発した。
「早川君、頑張ってね。あっ、あと」
戸田が運転席に座る川口の顔をチラッと確認した。
「これが、うちの主人です」
戸田の右手が示す先には、運転する川口の姿があった。
車は公園内駐車場から、片側一車線の市道へ入り、繁華街の方角へ走り去って行った。早川はしばらくその姿を見送った。
試乗会受付テントへ戻ってきた早川に、所沢が駆け寄ってきた。
「早川さん、さっきイベントの事務局から連絡があって、試乗会で危険な運転をする人がいるみたいなので気をつけてくれと、言われました」
所沢はイヤミな顔つきで、下から早川の顔を睨みつけた。
「時間からいって、早川さんがテレビ局の相手をしていた時間なんですけれど」
所沢の言葉に早川は苦笑いを浮かべて、頭をかいた。
「解りました。気をつけます」
「ここはサーキットじゃないんですから、わきまえてください」
所沢は吐き捨てるように早川へ非難の言葉をあびせた。早川はただひたすら謝るだけだった。
「子供じゃないんだから………」
所沢はぼやくように呟いて、テントの中のいすへ腰掛けた。〈確かに子供じゃないけど、あの加速感は何事にも変えがたいもののはず〉早川は心の中で反論した。
「早川さん、営業が昼食休憩に行きますので、代わりにお客様対応をお願いできますか?」
テントの中から所沢が大きな声で早川に告げた。早川もまだ昼食を取っていなかったが、この状況ではNOとは言えない。
「ええ、いいですよ」
早川は情け無さそうな笑顔を所沢へ向けた。所沢は子供の理屈を打ち負かした大人の表情で腕組みをして「フッ」と鼻から息を吹いた。
「早川さん、済みませんお願いします。一時間で戻ります」
入社二年目の若い営業マンは自分が着ていたジャンパーを早川へ渡した。早川はトンダ自動車のコーポレートカラーで染められたそのジャンパーを受取ると、「ゆっくとしてこいよ」と若い社員を送り出した。
スーツを脱いで、ジャンパーを着ると、下からジッパーを胸元まで上げた。〈まさか、五十歳になってこんなことをするとは思わなかったな〉早川は心の中でぼやいた。
「はい、これ」
所沢が黒いバインダーを早川へ渡した。バインダーの表面にはA4サイズの紙が十枚ほど挟まっている。早川は書面の文章を確認した。アンケートだ。
「ご存知だと思いますが、試乗されたお客様にはアンケートに協力してもらってください」
所沢がイヤミを込めて口を開いた。
「我々販売店は、車を売ってナンボですから」
「はい。解りました」
早川は事務的に返事をして、スタッフ休憩テントへスーツの上着を置きにいった。
試乗会受付テントと、スタッフ休憩テントの距離は十メートルほど離れている。BtoCのビジネスだ。休憩中の姿をお客様に見せたくはないのだろう。あえてテントは隣に張らずに、移動するのに困難でない距離に張られている。
スーツの上着をスタッフ休憩テントへ置きおえた早川が、受付テントに戻ると一つの家族が申し込み用紙に記入をしていた。四人のうち父親と思われる四十歳代中盤の男性がボールペンを片手に住所、指名、電話番号、免許証の種類等、試乗に必要な項目を書き込んでいった。
四人家族の年齢は父親の熊谷貴明が四十五歳、母親の熊谷真由子が三十九歳、長男の春馬が十五歳、長女の凛が十歳。どこにでもよくいる普通の四人家族だ。
貴明は、最後に試乗同意書と書かれた注意事項に一度目を通して、【署名】と書かれた欄に自分の名前を書き込んだ。
「はい、では希望のお車はどちらにされますか?」
申込用紙を受取ったイベントスタッフは、アクリル製のファイルを家族の前に差し出した。ファイルの中には試乗車の写真と、スペックが台数分挟み込まれている。
「この家族向きのハイルーフ車をお願いします。春馬、このワンボックスカーでいいよな」
貴明は春馬に尋ねた。春馬は反抗期らしくめんどうくさそうに答えた。
「CR1みたいなスポーツカーがいい」
貴明は困った表情を見せた。絵にかいたような中流家庭を創造させる四人だ。車は一家に一台が経済状況からいってもちょうどいいのだろう。ツーシーターのCR1では不向きだ。
「ウソ、ウソ。親父の収入は知ってるよ。十年は乗るつもりだろうから、このワンボックスカーでいいよ。俺も免許取ったら、友達とスノボやキャンプに行けるし、これでいいよ」
春馬は中学三年生にしては、聞き分けのいいほうかもしれない。標準的な中学三年生は、自分の意思が通らなければスネて口もきかないはずだ。
「早川さん、こちらのお客様をお願いします」
後ろで話を聴いていた早川へ、イベントスタッフは声を掛けた。家族連れ四人は早川の方を振り返った。
「どうぞ、ご案内します」
早川は軽く腰を曲げて試乗車の方向へ手を向けた。
早川の後を四人はついていった。トンダ自動車コーポレートカラーのジャンパーを着た早川の背中には【 TONDA MOTOR‘S 】と白ヌキで印刷されている。秋の日差しが早川の背中にあたり、白抜き文字が光を反射させながら揺れている。
「どこかでお会いしませんでしたっけ?」
早川の後ろから声が聞こえた。振り返る早川の視界には四人の姿しかない。声は男の声だったので、声の主は貴明か春馬だ。
「あの、どこかで会っていますよね?」
声の主は貴明だ。貴明はかけている眼鏡を少し上にずらして、早川の顔を穴が開くほどじっと見ている。早川も貴明の顔をじっと見つめた。戸田奈津子の件もあったので、自分の学生時代の同級生かと思い、記憶の中の友人達の顔をモンタージュのように、順番に思い出してみた。
残念だが早川の記憶に、熊谷貴明とリンクする顔は浮かばなかった。
「思い出しました。鈴鹿サーキットです」
貴明の言葉に早川は記憶を十年以内の鈴鹿サーキットに戻した。この顔は、F1チームにいなかったことは確かだ。レースクイーンのコントローラでもない。宿泊していた遊園地内のコテージの従業員でもない。駅前のレンタカー業者でもない。新幹線のチケットを手配する旅行代理店でもない。すると、誰だ?
「覚えてはいないですよね」
貴明は残念そうに、それでいてうれしそうに呟いた。
「ええ、済みません」
早川は小さく頭を下げた。
「いえ、いいんです。でも懐かしいなぁ。あの時はお世話になりました」
貴明の言葉に早川は戸惑った。戸惑う早川の表情に貴明は言葉を続けた。
「そうですね。覚えていらっしゃらないんですよね。失礼いたしました。この子」
貴明は春馬の手を引いて自分の前へ連れ出した。
「この子が小学生だった七年前、鈴鹿サーキットでお会いしているんです。この子がレーサーのアイランド・セナのサインをほしがってぐずっていたら、あなたがちょっと待ってろって言って、セナからサインをもらってきてくれたんです」
早川は春馬の顔をマジマジと見つめた。顎にはまばらだが髭がある。おでこと頬にはニキビが二つほど膨らんでいる。先端が白みを帯びているので、脂肪分の取り過ぎのようだ。いや、今はそんな事はどうでもいいのだ。春馬の顔に見覚えはない。しかし、貴明が話した内容は覚えていた。
― あれは、七年前 ―
F1レース最終戦が鈴鹿サーキットで行われていた。丁度今と同じ季節、秋が深まりだしたころだ。
早川はチーム広報として、鈴鹿サーキットで取材陣の対応をしていた。取材陣の目当てはドライバーのアイランド・セナで、広報課長の早川がセナの身辺対応をしていた。
レースはセナが一位でゴールし、無事鈴鹿グランプリは幕を閉じた。早川は表彰台から降りたセナをプレスルームへ移動させるため、パドックから裏導線を使って、案内をしていた。
プレスルームへ到着するまでの間に、五メートルだけ観客席から見える通路を通らなければならなかった。早川とセナが歩く通路と観客席の間には、菱形の枠がいくつも定期的に並んでいるフェンスが張られている。
セナがフェンスの前を通ると観客席からの声援が一際大きくなった。セナは声援に笑顔で応え手を振っている。
声援の中に、甲高い子供の声があった。
「Me dê uma assinatura」
他の声援よりも一オクターボほど高いポルトガル語の子供の声は、セナの耳にも入ったようで、セナは子供の顔を探した。フェンスの外には大人達の観客が群れていて、背の低い子供の姿は確認できなかった。
それでも、セナは子供の姿を探した。
「セナ、サインちょうだい」
同じ声だが、今度は日本語だ。セナはその声にも反応した。フェンスの外を気にして、足を止めている。セナの先を歩いていた早川がセナが足を止めた事に気づいて、振り返った。
「セナ」
早川の声に気づいたセナは、子供の姿を探す事をやめて、プレスルームへ向けて歩き出した。
「セナ、どうしたんだ?」
早川が尋ねると、セナは鼻の頭をかきながら答えた。
「子供の声が聞こえたんだ。どこかで聞いた事のある声がしたんだ。僕はその子供を捜したかったんだ。なぜならば、その声が去年亡くなった自分の子供の声に似ていたから」
セナの子供は昨年亡くなった。朝、食卓に顔を出さない事を不思議に思ったセナの妻がベッドルームに様子を見に行くと、ベッドの中で冷たくなっていた。突然の出来事だった。
「そうか」
早川は空耳だと伝えようとしたが、負けん気の強いセナが自分の意志を否定されたととらえ、「観客席へ行って子供を捜す」と言い出す事を恐れた。早川は喉もとでその言葉を止めた。
「セナ、プレスの皆さんが待っている」
そう言って、早川はセナを急がせた。セナもなごり惜しそうだったが、早川の後に続いた。
プレスルームでの記者会見を終えたセナは、早川の案内でパドック裏の控室へ移動した。
レーシングスーツを上半身だけ脱いだセナが口を開いた。
「早川さん、僕はこれからシャワーを浴びてくる。さっきの子供の事が気になる。済まないが、スタンドを見てきてもらえないか」
セナがシャワーを浴び終えるまでは、自分の役目は何もない。そのくらいの時間は惜しくはない。早川は快くうなずいた。
「ありがとう」
セナはシャワールームへ消えていった。
「さてと」
早川はチームブルゾンの内ポケットからタバコを取り出して、ライターで火をつけた。控室のドアを開けると小さな広場に出る。そこで、早川は空を見上げた。
西の空はオレンジがかって、あと一時間もすれば日没という時間だ。セナが子供の声を聞いたという時間から三十分以上経っている。鈴鹿の夕方は冷え込み始めていた。
「もういないとは思うけれど、一応見に行くか」
早川は独り言を呟いてから歩き出した。口に咥えたタバコの煙をマフラーから吹き出される排気ガスのように後ろへなびかせて。
セナが子供の声を聞いたというフェンスまで歩いてきた。観客席には何人か人の姿が見える。恐らく白子駅までのシャトルバスに、空席ができる事を待っている人達だろう。
早川は子供の姿を探した。子供の姿は何人か目に入ってきたが、どの子供がセナが声を耳にした子供であるのかは解らなかった。
「お父さんの嘘つき」
子供の泣き声が聞こえた。早川は泣き声の聞こえる方向へ視線を向けた。そこでは小学校低学年くらいの子供が色紙を手にべそをかいていた。子供の隣には父親らしい男の姿も見える。
「お父さんが、外国の言葉で言えばセナがサインくれるって言ったから、一生懸命覚えたのに、サインくれなかった。嘘つき!」
「しょうがないだろ、あんなに人が沢山いたんじゃ、お前の声も聞こえなかったんだよ。それにセナだって忙しいんだから………おまえの思い通りにならない事もあるよ」
「いやだ、いやだ。お父さんの嘘つき」
子供は座り込んだまま動かない。父親は自分の腕時計で時間を確認すると、「フーッ」とため息をついた。
「春馬………」
「いやだ、いやだ」
父子の会話を黙って聞いていた早川は「この子供だな」と呟いて、観客席へ通じる裏通路へ向けて歩き出した。【職員専用】と書かれた扉前にいる警備員にIDパスを見せて、金属製のドアを開けた。ドアの右手にはコンクリート制の階段が上へ向けて広がっている。早川は階段を上へ登っていった。
踊り場を二回経由して、【一階スタンド席入口】と書かれたドアを開けた。
開かれたドアの先には、幅十メートル程のコンコースがある。まだ居残っていた観客が、徐々に出口へ向けて歩いて行く姿が見えた。早川はドアの前で警備をする警備員に、首から提げたIDパスを見せて、出口へ向かう観客の間を縫うようにして、親子連れのもとへ向かった。
七番柱と八番柱の間に開かれた通路から、早川は観客席へ降りていった。右手には先程の親子がシートに座っている姿が見える。早川はゆっくりと親子へ近寄っていった。
「あの、どうしました?」
早川は親子連れに声をかけた。貴明は客席案内のスタッフが「早く退場しろ」と、言いに来たのかと思い「済みません、すぐ出ますから」と頭を下げた。
「いえ、違うんです。さっきセナにポルトガル語で声をかけませんでしたか?」
春馬は泣き止んだ。貴明は早川の顔をマジマジと見つめた。
「ええ。ポルトガル語でサインがほしいと、この子が言いました」
貴明の言葉に早川は〈この子に間違いはない〉と思った。〈どうするか。セナが気にしているのなら、この子をセナの控室へ連れて行くのもいいが、パスコントロールの関係でレース終了後二時間は、パスの申請をしていない人間は裏ルートへ入る事はできない。ならば、セナをここへ連れてくるか?いや、それもダメだ。観客席にはまだ数百人、人が残っている。もしセナが、観客席に姿を現したのならばパニックになる〉
早川は春馬の顔を見つめた。春馬も泣く事をやめて早川の顔を見つめている。
早川は膝を折り曲げて腰をおとして、右手を春馬の顔の前に出した。
「その色紙と、マジックインキをおじさんに貸してくれるか」
春馬は何が起こっているのか理解できてはいない表情をしているが、色紙とマジックインキを握っている手は、早川の手へ向けて動き出していた。
色紙とマジックインキを受け取った早川は「ちょっと待っててね」と言って、コンコースへ向けて階段を登っていった。貴明と春馬はチームブルゾンを着用した早川の背中に揺れる【 TONDA MOTOR‘S 】の文字を黙って追いかけていた。
セナの控室へも戻った早川をシャワーから出たばかりのセナが向かえた。
「どうでした?」
セナの問いかけに、早川は状況を説明した。
「そうですか。日本人の子供でしたか」
セナは少しだけ残念がった。だが、すぐに気を取り直して、早川から色紙とマジックインキを受け取った。色紙に【アイランド・セナ】とマジックインキをはしらせると、今日の日付とto toumaと書き足した。
「僕が直接渡すよ」
そう言うとセナはイスから立ち上がった。早川は慌てて止めた。
「ダメだ。まだ、観客がいる。セナが観客席へ姿を現せばパニックになる。パニックになれば怪我人が出る」
早川の言葉にセナは足を止めた。
「僕が渡してくるから、どうしても気になるのならば、セナはあそこにいて」
早川はドアを開けて通路を指さした。セナは納得した様子で親指を立てた。
「オーケー。これもいっしょに渡してくれ」
観客席へ戻ると早川は貴明と春馬を探した。二人は早川が色紙を預かった席から動いてはいなかった。
「はい、春馬君これ。セナからだよ」
早川は色紙とマジックインキを右手で春馬へ渡した。受け取った春馬はキョトンとしている。何が起きたのか理解できていないようだ。
「あと、これ、セナから」
早川は左手で動物の形をしたキーホルダーを差し出した。誰かの手作りらしく、動物は首の短い馬にも、ロバにも見える。見る人によっては、羊にも見えるかもしれない。春馬はゆっくりと手を出してきた。
「ホントにセナから?」
春馬は半信半疑で尋ねた。
「ああ、本当だよ」
早川は春馬の左側を指さした。春馬は指された指先にゆっくりと顔を動かした。
パドックとプレスルームをつなぐ通路と観客席を隔てるフェンスの端から、誰かが顔を半分だけ出している。春馬は瞬きを何回も繰り返した。
「セナ?」
春馬の呟きが聞こえたのか、セナは右手を振って笑顔を見せた。
つづく