⑤
新聞社の取材は四十分ほどで終了した。予定は一時間だったから二十分も早く終わった事になる。「体験者の試乗風景の写真を撮りたい」という川口をテント前に残して、戸田は早川と一緒に自動販売機の置かれた休憩所へ向かった。
「早川君、何を飲む?」
「おっ、いいの?おごり?」
「うん。取材のお礼」
戸田は「チャリン、チャリン」と音をさせて、コインを自動販売機のコイン投入口へ入れ込んだ。ディスプレーされた飲料の下にある楕円形の突起物が光る。
「どうぞお好きなものを」
戸田にうながされて早川は、缶コーヒーのボタンを押した。
「記事にしてもらって助かっているのはこっちだ」
早川は取り出し口から缶コーヒーを取り出すと、自分のズボンのポケットから小銭を取り出した。
「広報担当者と新聞社、持ちつ持たれつの関係だろ」
早川は取り出した小銭をコイン投入口へ滑り込ませた。
「さっ、どうぞお好きなものを」
早川の言葉に戸田は小さく笑った。
「早川君、変わっていない」
戸田はココアのボタンを押した。
「変わっていない?どこが?」
早川は缶コーヒーのプルタブを引き上げて尋ねた。
「人に借りは作らないっていうところ」
戸田は足を折り曲げてしゃがみこんで、取り出し口の透明な扉を上に押し上げた。
「人に借りは作らない?俺って昔からそうだっけ?」
「ええそうよ。自分じゃ気づいていなのかもしれないけれど」
戸田は取り出したココアの缶を両手でコロコロと転がしてみた。缶から放射されたぬくもりが、手のひらいっぱいに広がった。
「仕事はどう?順調?」
戸田はベンチに腰を掛けて尋ねた。早川は戸田の隣に腰掛けた。
「まあまあかな。そっちはどう?」
「こっちも、まあまあ」
中学生の頃、戸田は早川に思いを寄せていた。部活動にかける早川の真剣なまなざしに魅力を感じていた。軟式テニス部で県大会に出場した経験を持つ早川は、女子たちからの憧れの的であった。
「早川君、転職したの?何年か前に地元の友達と会ったとき噂で聞いたんだけれど、早川君は自動車レースの仕事をしているって聞いたけれど」
戸田の言葉に、早川の表情が少しだけ変わった。
「ああ、ご存知の通りトンダ自動車はF1から撤退したからな」
「えっ?そうなの、トンダ自動車F1辞めたんだ」
戸田はF1の件が初耳であるかのような声を上げた。早川は呆れた表情で、戸田の顔を見た。
「おまえ、新聞記者なのにそれくらい知らないのか?」
「ごめん。私、地域のコミニティー担当だから、その辺うとくって」
戸田は済まなそうな表情を見せた。早川は戸田の表情から何かを思い出した。取材の申し込み連絡を受けて、取材骨子を確認した際に、新聞社は地元企業の地元に対する姿勢を伝えたいと言ってきた。決して、車の性能を伝えたいとは言わなかった。そして、戸田は中学生のときから機械音痴だったことも思い出した。
「そうだよな。F1に興味がない人からすれば、どうでもいいようなことだよな」
早川はうつむいて、寂しそうに漏らした。
「いや、そういう意味じゃなくて」
戸田は慌てた。何か別の話題で、ごまかそうと必死だ。
「いや、あの、で、今は販売店の広報に転職したの?」
「転職?いや、出向だ。所属はトンダ自動車本体だ」
戸田は再び、場違いな質問をしたようだ。早川はいやなことを聞かれたという雰囲気で足元を見た。
「ごめんなさい。いやなこと聞いちゃって」
戸田は済まなそうに詫びた。早川は左手に持った缶コーヒーを口にあてて二口「ゴクリ、ゴクリ」と音を発てて飲み干した。
「ふーっ、それより戸田のほうは仕事はどうなんだ。新聞記者って大変なんだろう」
早川が話題を変えてくれた。戸田はここぞとばかりに早川の話題に食いついた。
「うん。結構大変。でもうちは地元紙だからそれなりに和気あいあいとしたところもある。特に私は地域の生活情報担当だから、企業のギスギスした取材現場へは行くことも少ない」
「そうか、それはよかった。女が仕事場に提供できるのは、和みや安らぎだからな」
早川の持論が飛び出した。F1レースにおいて代表的な女性の役割はレースクイーンだ。レースクイーンの役目はチームスポンサー企業の広告塔になることはもちろんだが、男ばかりで攻撃的になりすぎたチーム内の空気を和らげる役目も担っている。早川の主観では仕事場における女性の役目は、サーキットにおけるレースクイーンの役目と同じになる。
早川の言葉に戸田は少しだけ眉を動かした。
「あっ、早川君それって、女性軽視。差別だよ」
戸田の言葉に早川は納得がいかなかった。自分の言葉のどこが女性軽視で、差別にあたるのだろう。早川は自分が発した言葉の一つ一つを思い出してみた。戸田の言う女性軽視、差別にあたる言葉は思い浮かばない。
戸田は黙った早川の横顔をみながら口を開いた。
「早川君、子供は?」
早川は、戸田に自分の発言のどこが女性軽視なのか確認しようとしたが、戸田に先に質問をされた事により、自分の質問は胸の奥にしまった。
「子供?子供どころか結婚もしていないよ」
「えっ、えっ。一度も?一度も結婚していないの?」
驚く戸田の質問に早川はコクリとうなずいた。
「なっなっなんで?早川君モテたでしょう?へー驚いた」
戸田は肩に掛けたバックを背中の方向へずらしながら、早川の顔をのぞきこんだ。早川は缶コーヒーを最後まで自分の口の中に流し込んで、空になった缶を仮設のゴミ箱の中へ投げ込んだ。
風車のようにくるくると回転をしながら宙を横切った空き缶は、金属製のゴミ箱のふちで一度バウンドすると、「ガチャ」と音を発ててゴミ箱の中に吸い込まれた。
ゴミ箱の中は空き缶だけで分別されている。「ガチャ」という音から理解できる。その音を耳にした戸田は「もしかして、種無し?」と無礼な発言をした?早川は怪訝な表情を浮かべる。
「ちがうよ!それより、戸田はどうなんだ?結婚は?」
「私はしているわ。子供も二人いるし、だんなも元気に働いているし」
「ふ~ん。どうだ、幸せか?」
「幸せかって?どうだろう。上の子供は去年大学を卒業して就職したし、下の子供は二浪してから専門学校に通いだしたし、なんだかんだ大変だけど、幸せなほうなんじゃないの?」
戸田は手に持ったココアの缶を口にあてた。甘ったるい液体が戸田の口の中に流し込まれて、戸田は話を続けた。
「なんか、女として一仕事やり終えたって感じかな。子供生んで、社会に旅出させて、自分のマインドを受け継いだ人間が社会に放たれたわけだから、バトンを受け渡したって言うの?そういう感じ」
早川は戸田の話を聴きながら、女性らしく甘い考えだなと思った。飲んだばかりのココアの甘みが、隠し味になっているのかという気にさえさせた。
「早川君はどうして結婚しなかったの?」
戸田は遠慮無しに尋ねてきた。
「どうしてって、言われても………チャンスがなかったからじゃないか」
早川は鼻の頭を書きながら頭を下げた。
「ふ~ん。そうなんだ」
戸田はそれ以上尋ねようとしなかった。早川は左腕に巻かれた腕時計に目線を移した。その行動に気づいた戸田も同じく自分の左腕へ目線を移した。
「あっ、そろそろ時間だ川口さんに怒られちゃう」
戸田は缶の中に残ったココアを全て、自分の喉に流し込んだ。
「なあ、戸田。最後に一つだけ質問だ」
早川の言葉を戸田はゴミ箱に向かって歩きながら聴いた。
「もし、無人島に動物を一匹だけ連れて行くとしたのならば、次の中からどれを連れて行く?馬、羊、虎、孔雀」
戸田は空き缶をゴミ箱の中に入れると、下を向いて少しだけ考えた。そして、早川の座るベンチへ振り返り口を開いた。
「私は羊かな」
「ありがとう」
早川はベンチから立ち上がり、戸田へお礼を述べた。
つづく