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馬と羊  作者: 光咲羽香
2/10

 早川(はやかわ)(いさ)()は中央広場の一角に梁られたテントの中で、にこやかに微笑んでいる。二軒三軒のテントには四百五十ミリメートル×千八百ミリメートルサイズで、スチレンボード製の看板が、幅二ミリの針金で吊り下げられていた。看板には【トンダ自動車秋の大試乗会】と、レーザー印刷で出力された字体で記されている。

 早川勲雄はトンダ自動車の子会社、トンダネッツ販売店広報部に出向になって六ヶ月の五十歳。トンダネッツ販売店広報部へ出向になるまでは、親会社トンダ自動車のF1事業推進部に籍を置いていた。

 F1とはあのサーキット場を金属製の甲高(かんだか)い機械音を響かせて、音速に近い速度で同じコースを何周も何周も走り、決められた数を一番速く回ってゴールしたチームが、栄光と、名誉と金銭を手に入れることができる、あのモータースポーツのことである。

 ではなぜ、早川は子会社である販売店の広報部へ、出向することになったのか。

 それはトンダ自動車が、昨年限りでF1から撤退したため、トンダ自動車F1事業推進部は、今年四月をもって解散。早川たち、F1事業推進部に籍を置いていた者達は、それぞれ別の部署へ振り分けられるか、早川のように子会社への出向を命じられた。それは、組織の中で生きていく者が時々体験することがある、どうしようもできない状況だ。


 

 子会社である販売店の広報部へ出向になった早川の仕事は、テレビや新聞、雑誌、ウェブ等の媒体が、取材を申し込んできたときの対応が主な業務になる。もっともF1のときとは違い、テレビキー局や全国紙からの取材はほとんどなく、地元のテレビ局や地元新聞、タウン誌等の取材がほとんどだ。

 今日も、新車の販売を兼ねた試乗会に、地元のテレビ局と新聞社が取材に来るというので、休日を返上してこの公園へやってきた。もっとも、自動車メーカーは労働組合の力が強いので、休日出勤には休日出勤手当てが必ず付くようになっている。

 早川は販売店社員には付かない休日出勤手当てが、本社所属の自分には付くことが、他の社員に対して申し訳なくも思っていた。

「早川さん。今日の取材は、何社くらいですか?」

 販売店営業主任、所沢(ところざわ)秀夫(ひでお)が尋ねてきた。早川は小脇に抱えた黒いファイルを開いて、今日の取材申込書の枚数を数えた。

「今日は二社です。地元のテレビ埼玉県と、地元新聞タマタマラッキーの二社だけです」

 早川は広報担当者らしく口角を上げて、唇をUの字にして所沢へ伝えた。所沢も早川のマネをしたわけではないのだが、同じように唇の両端を上へ吊り上げた。

「二社だけね。その二社は何時頃に来ます?」

「テレビ埼玉県は十一時。地元新聞のタマタマラッキーは十二時の予定ですね」

 早川は、各媒体からファックスで送られてきた取材申し込み書に記された取材予定時間を確認しながら、所沢に伝えた。

「午前中?早いね」

 所沢は自分の左腕にまかれた、タグホイヤーの時計に目をおとした。今の時間は十時三十分だ。

「ええ、どちらも午前中のうちに取材を終わらせて、夕方のニュースに間に合わせたいみたいです」

 早川は意識的に笑顔を作った。

「じゃ、その時間だけ空けて、その他の時間は試乗を受け付けてもいいですね」

 所沢の研ぎ澄まされた眼差しが、早川の心中をえぐった。

「ええ。その時間だけ済みませんが、空けておいていただけますか」

 早川は眉毛を下げて、眉間にシワを寄せて、頭を少しだけ垂れた。

「解った。イベント会社の担当者には伝えておきます」

 所沢は軽く手を上げて、背中に【イベントスタッフ】と書かれたジャンパーを着た男のもとへ歩み寄って行った。

 親会社から出向と、子会社の営業という立場からすると、早川と所沢の関係はイビツに感じるかも知れないが、自動車業界ではよくあることだ。お金を生む部署と、お金を使う部署という考えが所沢と早川の位置関係を表している。

 販売店の営業はお金を稼いでくる。広報はお金を稼がない。資本主義社会において、両者の立場は明らかである。お金を生み出す立場である所沢のステージのほうが、早川よりも上なのである。

 早川は所沢の背中を追いながら、「フッ」と溜息をついた。自分がトンダ自動車に入社したときには、三十年後に自分よりも二十歳も若い男に、こんな態度で接せられるとは思ってもいなかった。


 早川がトンダ自動車に入社したきっかけを作ったのは、富士スピードウェイで行われたレース観戦に行ったことだった。御殿場に住む親戚のおじさんの家に遊びに行ったときに、「勲雄、カーレース観にいくか」と、言われたことが発端だった。

 まだ、小学生だった早川は好奇心旺盛な年頃で、なんにでも興味をいだく年齢だった。おじさんの言葉にも二つ返事でうなずいた。

「うん。行く」

 早川はおじさんの車に乗って、富士スピードウェイへの山道をワクワクしながら登っていった。

 菱形に抜かれた金網の空間から突き抜けるエンジン音は、地球上のものとは思えないくらいエキサイティングに聞こえた。そのときの早川は、小学校の遠足で羽田空港へ行ったときに耳にした、飛行機のエンジン音を思い出していた。

 空を飛ぶ鉄の(かたまり)を演出する、甲高く機械的なエンジン音を越える音域は、ロケットくらいしかないだろうと思っていた早川少年にとって、このサーキット場で響いている音は銀河系のかなたから響いてくる、未知的な音色にも聞こえた。

 早川は子供心に思った。将来は宇宙飛行士かカーレーサーになろうと。

 そして、高校を卒業した早川は、春休みに普通自動車運転免許を取得した。就職先は地元の自動車メーカー。そして、夏休みにB級ライセンスを取得。一度ラリーに出場後、有給休暇を屈しして、国内A級ライセンスを取得した。

 しかしプロへの道は厳しく、二十二歳の春に、表舞台はあきらめて、裏舞台であるトンダ自動車F1事業部へ転職した。


「早川さん、テレビ局の方がみえました」

 注意力が現実から過去へ跳んでいた早川の耳に、イベントスタッフの言葉が入ってきた。我に返った早川は、声のする方向へ目を向けた。そこには、イベントジャンパーを着たスタッフと、スーツ姿でマイクを手にしたアナウンサー、そしてENGカメラを手にしたカメラマンと、肩から音声機材を提げた音声スタッフの四人がいた。

「済みません。約束の時間より早く来ちゃいました」

 マイクを手にしたアナウンサーは、左胸のポケットから名刺入れを取り出すと、自分の名刺を一枚早川の胸元へ出してきた。早川もワイシャツの左胸から名刺入れを取り出し、自分の名刺を一枚取り出した。

「トンダ自動車、いや、ネッツトンダ広報の早川です」

「テレビ埼玉県の川越です」

 二人はお互いに名刺を交換すると、受取った名刺を自分の心臓よりも少しだけ高く上げて名刺入れの中にしまった。

「済みません。小さいテレビ局なので、自分がディレクターも兼任しています」

 川越は、悪びれずに淡々と自分たちの布陣を紹介した。

「カメラマンの大宮と、音声の深谷です」

 川越の後ろで機材を抱えた二人が、小さく頭を下げた。

「どうも、ネッツトンダ広報の早川です」

 早川は自分の名刺を大宮と深谷へ渡した。大宮と深谷は恐縮して早川から名刺を受取った。「じゃ、早速ですが」川越が取材の段取りを説明しだした。

「まず、今回試乗できる車の特徴をお話いただいた後に、何台かを私たちと早川さんで試乗させていただくという、段取りでお願いしたいのですが」

 川越は形式的に段取りを説明した。早川は、来場者の対応を担当している所沢へ流し目で合図を送った。所沢は川越の話が聞こえたのだろう。自分の左腕にまかれた時計へ視線をおとして、時間を確認した。約束の時間よりも十分早い。

 川越は、「ちょっと待ってくれ」と言うように、自分の肩の高さに左手を上げて早川を静止すると、イベントスタッフの男性へ話しかけた。

 イベントスタッフの男性は、手にしたファイルに目をおとした後に、トランシーバーでどこかと会話をしている。所沢はその隣でアンケート用紙を片手に、自分の耳の中に小指を差し込んでドリルのように動かしている。そして、小指を耳の穴から抜き出すと、自分の息を吹きかけた。小指の先から細かな粒子が大気に吹き飛んだ。

 イベントのスタッフジャンパーを着た男が、所沢に耳打ちをしている。所沢は右手を鼻の高さにあげて、イベントスタッフに向かって片手で拝むような格好を見せた。

「早川さん、OK。十一時から十三時までは受付はしていません。試乗車、取材で使ってもらってかまいません」

 所沢は大きく両腕を頭の上に振り上げて、丸を作っている。早川は「ありがとう」と礼を言って軽く左手を上げた。そして、川越へ向けてにこやかに言葉を発した。

「大丈夫です。さっそく始めましょう」

 早川の言葉に川越も口角を上げた。

「じゃ、準備しますね」

 川越はカメラクルーと音声クルーへ視線を送った。カメラマンも音声クルーも、川越と目があうと小さくうなずいて、それぞれの立場で準備を始めた。

川越がA4サイズのコピー用紙を自分の胸元へかざすと、カメラクルーはレンズの焦点を川越の胸元に合わせた。

 この行為は【ホワイトバランスを合わせる】と言う。シビアな映像の世界で、原点であるホワイトはこの露出だ。と、映像機材へ伝えるためのものだ。

 カメラクルーは左手でOKマークを出した。

 続けて川越は手に持ったマイクを自分の口元に運んだ。

「チッチッ。マイクテスト、マイクテスト。ツェツェ、ツェツェ。マイクテスト」

 川越は視線を音声クルーへ向けたまま、口はマイクへ向けて言葉を発している。

 音声クルーはカメラクルーと同じように右手でOKマークを出した。川越はにこやかに笑顔を浮かべながら、自分の胸元へ右手を供えて、指を一本ずつゆっくりと折り曲げていった。五本、四本、三本、二本、一本。最後の人差し指を折り曲げると川越はゆっくりと口を開いた。

「こんばんわ。テレビ埼玉県。週末のエンタテインメントの時間です。今日は××市にあります。航空公園に、わたくし川越が、お邪魔しております」

 川越は明らかに作り物と判る笑顔をレンズに近づけた。

「ここ、航空公園では××市、市制三十周年を記念したイベントが、三連休中の今日から月曜日までの三日間行われています」

 川越は振り返って右手を水平に肩の高さへあげた。

「こちらをご覧下さい。私が今いるのはトンダ自動車の最新車を実際に運転することができます試乗会のピットです。どうですか、きれいに磨かれたトンダ自動車の新車たち。どれもこれも、乗ってみたくなりますよね。今日はトンダ自動車広報の早川さんに新車たち、それぞれの特徴について、お話をうかがってみたいと思います。早川さんどうぞよろしくお願いいたします」

 川越は軽く頭を下げながら、マイクを早川へ向けた。早川は「こちらこそよろしくお願いします」と言い、川越と同じように軽く頭を下げた。

「早速ですが、早川さん。今回試乗できる車ですが、ユーザーを単身者、カップル、家族と分けた場合、どの車がお勧めになりますでしょうか?」

 川越は受付テント前に並べられた試乗車を手で順番に指しながら、お勧め車を早川へ尋ねた。

 早川は「単身者向けには五速マニュアルトランスミッションのツーシーターカー。カップル向けには四輪駆動車。ファミリー向けにはワンボックスタイプのハイルーフ車がお勧め」と答えた。

「なるほど。ファミリー向けにはこの七人乗りのハイルーフ車がお勧めなんですね」

 川越はハイルーフ車へゆっくりと近づいて行った。カメラクルーも音声クルーも、川越の後を追った。早川も三人の後に続いた。

 川越は運転席側のドアを開けて、インパネの中を覗き込んでいる。

「早川さん、この車のどんなところが勧めなのですか?ポイントがあったら教えて下さい」

早川は助手席側のドアを開けて、川越が差し出したマイクの先端へ自分の口を近づけた。

「まずはこの七人乗りの広々スペース」

 早川は後部座席の開かれたスライドドアからレンズをのぞかせるカメラへ向けて、説明を始めた。

燃費が自動で計算される計器や、インターネット接続可能なカーナビ。後部座席に標準装備されている社内モニターカメラは、運転中でも最後方に座る子供の状況をカーナビモニターで確認できるシステム。そして、車内冷蔵庫はいつでも冷えた飲み物を取り出すことができて、家族のドライブには最適だと話した。

「なるほど。それはすばらしい。それでは、実際に試乗してみましょう。早川さんよろしいでしょうか?」

 川越が早川の返事を待たずに運転席へ座り込むと、音声クルーが川越からマイクを預かった。ここでカメラは一度停止ボタンが押されて、記録することを止めた。

川越は自分の襟元につけられたピンマイクの向きを確認すると「あっあっどう?」と話してみせた。音声クルーは「オーケーです」と答えて、親指と人差し指で丸を作った。その動作の間に、早川は助手席に腰を降ろしてシートベルトを締めた。シートベルトが「カチッ」とホルダーに挟まれると、カメラは再び記録を始めた。

「それでは、出発進行」

 川越が発する威勢のいい掛け声に合わせて、エンジンは掛けられた。車は静かなエンジン音を(かす)かに響かせて、公園の西門へ向けてゆっくりと動き出した。

 西門を出ると目の前には片側一車線の市道が南北に伸びている。三連休初日の今日は、行楽地へ向かう車で、普段よりも交通量は多かった。

 川越の目の前を通りすぎる車窓の中は家族連れの笑顔があふれている。その笑顔から推測するに、三台中二台は行楽地へ向かう家族とみえる。

「早川さん。お子さんは?」

 市道に続く車列が途切れることを待ちながら、川越が悪びれずに尋ねてきた。早川は無言で首を横に振った。

 早川勲雄、五十歳。独身。髪には白髪が混じりだしているから、実年齢を話しても驚かれることは少なくなった。身長は百八十センチある。体重は七十五キロ。若い頃テニスとラクビーで鍛えた体は五十歳を向かえても、引き締まっている。

 若い頃から付き合った女性は何人かいたし、結婚を考えた女性もいなかったわけではない。でも、早川は馬だったのだ。羊でも孔雀でも虎でもなくて、馬だった。



つづく

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