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馬と羊  作者: 光咲羽香
10/10

 四月。

 桶川の教習コースに早川と戸田の姿があった。

 そして、身長を三センチ伸ばして、ニキビの数を十二個増やした、熊谷春馬の姿もあった。

 春馬は早川の視線に気づくと、反抗期そのものの無表情で会釈した。早川は広報担当者そのものの笑顔で会釈した。

「早川さん」

 背後から中年男性の声が聞こえる。早川は声のする方向に振り返ると、トンダ自動車のワンボックスカーの隣に立つ熊谷貴明の姿が目に入った。

「ああ、どうもこんにちは」

 早川は大人の男性としての挨拶をした。貴明も「こんにちは」と言いながら早川と戸田の方向へ歩いてくる。足下には生えだしたばかりの雑草をまとわりながら、視線はまっすぐに早川の方向を見ながら、歩いてくる。

「今回は、このような催しへご招待いただき、ありがとうございます」

 貴明は深々とお辞儀をして気持ちを表現した。早川は貴明が運転してきたであろう、自社のファミリー向けワンボックスカーに視線を置いたまま「乗り心地はいかがですか?」と尋ねた。

「ええ、最高です。早川さんのほうから今回のレーシング教室の案内をちょうだいして、息子と話し合って、で、交換条件付きで息子も納得してくれました」

 貴明が話す交換条件とは、レーシング教室へ参加することを認める代わりに、一家に一台所有する車はファミリー向けワンボックスカーにする。ということだったのだろう。

「それは、良かった」

 早川は営業用の笑顔を浮かべた。

「早川君、私は仕事できているから取材してくるね」

 戸田がショルダーバッグを肩に掛けて、右手をこめかみのあたりにあてた。警察官が敬礼をするような、子供のころテレビで観たコント番組で「オッス」と言う前のような、そんなゼスチャーだ。

「ああ、俺はもう少しここで観てから帰るよ」

 早川は軽く左手を挙げて、戸田を見送った。

 荒川の河川敷にある桶川の教習コースは、春まだ浅いこの季節、風が吹くとさえぎる建物は少なく、川から吹き付ける冷風によって地表の熱を奪い取っていた。

 教習コースと名称はうたれているが、教習所としての役割は昨年で終わりをむかえていた。人口の減少と若者の車離れが大きな原因で、閉鎖せざるおえなかった。

 もっとも、閉鎖されているから、今回のレーシング教室の会場として提供することができたわけだ。終わるものがあれば、始まるものがある。

 立ち会いとして足を運んできた早川は私服のジャンパーを羽織って、ジーパンにスニーカーといういでたちだ。今日は仕事ではない。

 早川は、自分の隣で春馬の姿を目で追いかける貴明に話しかけた。

「熊谷さん。去年の試乗イベントの時にお話しになっていたことなんですが」

 早川の声に気づいた貴明が「はい、なんでしょうか?」と、相づちを打つ。

「あの研究は、その後どうですか?」

「あの研究………」

 早川の質問の意図を理解できなかったのか、貴明が記憶を去年の秋へさかのぼらせている。

「ああ、あの細胞も記憶ができるという研究ですね。ええ、今も続けていますよ」

 貴明は笑顔で答えた。研究者らしく、駆け引きのかけらもない話し方だ。

「その件、もう少し詳しくお話しいただけませんか?」

 早川の言葉の意味が良く理解できないのか、貴明は早川の顔を見つめた。早川も貴明の表情から心情を察して補足をした。

「あっ、済みません。あの日から熊谷さんのおっしゃったことが頭から離れなくて、時々夢に見るものですから」

 早川の時々夢に見ると言ったときの表情が、子供のように無邪気な表情をしていたので貴明も気持ちをほぐした。

「あの時は試乗車の運転中でしたから、良く伝わりませんでしたよね。いいですよ。お話ししますよ」

 貴明はゆっくりと話し始めた。

「わたしが進めている研究は、遺伝子と記憶に関する関連性です。古い記憶や長期的記憶は大脳皮質に保管され、新しい記憶や短期的記憶は海馬に保管されると考えられています。ところが、趣味思考や生活習慣などの記憶は、人間の臓器にもされることが近年解ってきました。次に話しは遺伝子へとびます。遺伝子は子孫へ祖先の情報を継続させていく役割を担っています。精子や卵子の中に全ての情報が記憶されているのです。この二つのことから人間の細胞も記憶ができるのではないかと考えたのです。細胞が、記憶をするというよりは、細胞に記憶を書き換えることができる。ということを立証したいのです。遺伝子に関してはその原型がいまから、百五十年前に発見されて、人の臓器が記憶できることはここ近年に発見されました。それだけ長い年月を掛けて少しずつ色々なことが、解明されてきました。まだまだ、解明されていないことがあっても不思議ではありません」

「なるほど、でも臓器も細胞も同じものではないのですか?」

 早川が素朴な疑問をぶつけた。

「ええ、臓器も細胞から成り立っています。その数は数万や数十万と臓器によってまちまちです。私が研究をしているのは、髪の毛や皮膚、爪といった少ない細胞組織でなりたっている部位にも記憶ができるのではないかということです。それが、知らず知らずに遺伝子へ組み込まれて、次の世代にも受け継がれていく。そんなことを研究しています」

 早川がなにかを思いだした。

「例えば生まれて間もない赤ちゃんが言葉を話したり、自分が子宮の中にいたことを記憶していると話したりすることがありますが、それも先生の説にあてはめると、理屈が立ちますね」

 早川の話に貴明は少しだけ興奮した。口調が早口になり、顔色が赤く高揚した。

「そう。それは細胞が記憶をしていて、遺伝子へ刻まれた。そして、受精した後もその細胞は残されていた。だから、生まれた後も、祖先の記憶や知識が口から出てくる。そう考えられます。例えば、早川さんの行った行動や発言が、誰かの細胞に刻まれたとします。その細胞が次の世代に遺伝されて、受け継がれていくとも考えられます」

 貴明の話しはおもしろい。続けて早川はデジャブとの関連について尋ねようとしたとき、コースの奥で大きなブレーキ音がした。

「キキーッ!」「キャー」「ドスン」

 早川と貴明は音の聞こえた方向へ視線を向けた。そこには、スピンをして、コースからはみ出した車の姿があった。早川と貴明がいるコース外駐車場の近くからの距離は、およそ百五十メートル。どんな状況であるのかは遠くてよくわからない。

 やがて、スピンした車からは運転手と指導員が降りてきて、早川と貴明の居場所からは死角になっている、リアタイヤの方向へ小走りに近寄っていく。遠巻きに状況を見ていた参加者達も一歩、二歩とリアタイヤの方向へ近づいていく。

「ドスンて、音がしましたよね。野良犬でもぶつかりましたかね」

 のんきにつぶやく早川の胸元で携帯電話が震えた。ジャンパーの中に着ている、ボタンダウンのシャツの左胸ポケットから携帯電話を取り出した。発信者に戸田の名前が浮かび上がっている。早川は視線を百五十メートル先のスピンした車にあわせながら、電話に出た。

「はい、早川です」

「早川君、たいへん。参加者がはね飛ばされたわ」

 荒川から吹く風が一瞬だけ、止まったように感じた。貴明が胸騒ぎを覚えた。

「わかった。今そっちへ行く。そこにいる指導員に応急処置と救急車を呼ぶように伝えてくれ」

 早川は電話で話しながら、走り出した。貴明も後に続いた。百五十メートルの距離を走りきるのに三十秒もかからなかった。

 人垣の奥で倒れているのは春馬だった。貴明の心拍数が上がった。それは百五十メートルの距離を走ってきたからではなく、目の前に大事な細胞の固まりが転がっていたからだ。

「春馬!」

 貴明は叫びながら、アスファルトの上に横になった細胞の固まりにかけよった。春馬の意識はなく、周囲にはおびただしい血液があふれ出ている。

「救急車は呼んだか?」

 早川の問いかけに指導員は「近くの消防署へ掛けたが、あいにく救急車は全て出払っているそうだ。いまから、次に近い消防署へ掛けてみる」と答えた。

「ちがう!」

 戸田が絶叫する。

「こういう時は119番。そこから一番近い空き救急車を手配するはず」

 戸田の声に後押しされて、年配の指導員は119番へ電話を掛けた。

「病院は、ここから一番近い病院は」

 早川が大声で指導員に確認する。

「一番近い大きな病院は、▲▲病院です」

「ちがう!あそこの外科の先生は今日は休みのはず。この状態ならバイパス沿いの□□病院のほうがいいわ。ちょっと待って、電話してみる」

 戸田はバックの中から携帯電話を取りだすと、履歴の中から□□病院を探し出して電話を掛けた。相手が出るまでに早川が話しかけた。

「おまえ、よく知ってるな、そんなこと」

「これでも、新聞社で地域のコミニティーを担当しているの。それくらいの情報は頭の中に入っているわ」

 戸田は腕組みをしながら答えた。早川は春馬の(かたわ)らに転がっている小さなキーホルダーを拾い上げた。


 救急車は□□病院へ到着した。戸田からの事前情報が的確だったため、春馬はすぐに手術室へ運ばれた。付き添いには貴明と早川、そして病院を紹介した戸田の三人。三人は手術室の前の廊下で、ベンチへ腰掛けている。看護士が遠くで怒鳴っている。

「ダメです。ストックしてあるだけでは、輸血用血液が足りません」

 貴明たちに小走りで近づいてきた看護士。

「ご親族の方はいらっしゃいますか?」

 看護士の言葉に貴明が手を挙げる。

「私が父親です」

「お父さんの血液型は?」

 看護士の言葉に、貴明は下を向いた。

「A型です」

「春馬君はO型です。奥さんは今こちらへ向かわれていますよね。奥さんの血液型は?」

 貴明は下を向いたまま答えた。

「妻もA型です」

 春馬はA型どうしの親から生まれたO型なのだ。

「あの、良かったら使って下さい」

 早川が声をあげた。「おれ、O型です」貴明が廊下にしゃがみ込んで土下座をした。

「ありがとうございます」

 早川は輸血に必要な検査をするため、採血室と書かれた部屋へ通された。ベッドの上に寝かされた早川から検査用の血液が抜かれていく。輸血にあたって、B型肝炎、C型肝炎、HIVウイルスなどの病気にかかっていないかの検査をしなければならない。

 検査の結果、早川の血液は春馬へ送り込まれるに値すると判断された。

 輸血用の血液を抜かれながら早川は思った。〈俺の血を分けた男が生まれるわけだ〉

 早川の考えは間違いではない。ここで、春馬への輸血が施されなければ、春馬の命はないかもしれない。そう考えると、早川の血をそそぐことにより春馬は死なずにすむ。それは蘇生。生き返ると表現しても、生まれ変わると表現しても間違ってはいないだろう。

 三時間にも及ぶ手術は成功した。十六歳という発育期だった春馬は、一ヶ月の入院生活で退院することができた。退院祝いに駆けつけた早川に、春馬は照れ笑いを浮かべた。

「おれ、早川さんの血、もらったみたいだね。これで早川さんみたいに運転テクニックあがるかな」

「俺みたいにじゃなくて、アイランド・セナみたいにだろ」

 早川は退院祝いに用意した、花束代わりのキーホルダーを春馬へ渡した。このキーホルダーはセナから春馬へ渡されたもので、事故の時に春馬の(かたわ)らに転がっていたものだ。

「これを持っていたから、セナが守ってくれたんだろう」

 早川の言葉を聞きながら春馬は、少しだけ血痕がついた小さな動物を握りしめた。


 レーシング教室は、安全面を再構築して続けられることになった。春馬も六月から復帰した。

 早川は九月の人事異動で、本社へ戻ることになった。


 十年後、セナはレース中に事故を起こして他界した。早川は定年退職でトンダ自動車を去る事になった。

 偶然ではあったが、今までの形式で行われるF1レースもその年を最後に、幕を閉じる事になった。

翌年からは電気自動車によるレースが行われる。 

 早川は最終レースを鈴鹿サーキットのメインスタンドで観戦した。

 最終レースは新人レーサーが日本人初の優勝を成し遂げた。優勝したレーサーへテレビ局のインタビュアーが尋ねた。

「F1レースは下火になって、レーサーを希望する人が少なくなってきましたけれど、どうしてレーサーになろうと思ったんですか?」

 優勝した日本人レーサーは、鼻の頭をかきながら答えた。

「なんか、よく覚えていないんですけれど、子供の頃セナのサインをもらったらしいんですよ。そのサインがきっかけでレーサーになりました」

 優勝した日本人レーサーは、左手に握られたキーホルダーをインタビュアーへ見せた。

「この馬だか、羊だかわからない動物のついたキーホルダー。これ、セナからもらったんですよ。あの、名前忘れましたけど、あの時のトンダモータースの方、ありがとうございます。感謝しています」

「あっ、熊谷さん、今回はメンセデスモータースで、出場ですよね」

 熊谷春馬のチームは、ドイツの自動車メーカーメンデスモータースがエンジンを提供している。インタビュアーが苦笑いしながらコメントを静止した。

 早川は笑った。表彰台に立つ熊谷春馬の姿を見て、顔一杯にシワを作って笑った。

 

 翌年、新人レーサー熊谷春馬は、電気自動車でのF1グランプリレースでも優勝した。表彰台へ登った春馬は上機嫌だ。

「なんか、電気自動車のレースって、よくわかんなかったんですけど、新しい事にチャレンジしなきゃいけないって、天から降ってきたんですよ。いや、細胞から降ってきたんですよ。俺はレースが好きだって」

 新人レーサーは笑った。

 インタビュアーも笑った。

「済みません。父が学会で発表した、細胞も記憶できるって言う論文が評価されたもので、なんか意味不明なこと言っちゃって」

 春馬は「親父、観てるか。やったぜ!」と拳を振り上げた。春馬の拳には、馬だか羊だかわからない動物が付いたキーホルダーが握られていた。

 翌日のスポーツ新聞の一面は、このキーホルダーが飾った。セナの亡き息子が作った未完のキーホルダーが、日本人の手に渡っていたという、見出しつきで。


― 了 ―



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