第八話 継承
護衛のロシェ軍曹は戦死した。
氷原を逃亡するレア・ルコントとアンドロイドは、さらなる危機に直面する。
決意の時は迫っていた。
エウロパ市を脱出してから、八時間ほど氷原を彷徨った。長時間の運転で、眼の焦点が合わないほど私は疲労困憊した。
「紅は運転可能だよね」
ミサイルを撃ち込まれた時の見事な手助けから、紅が運転技能を備えていることは明らかだ。
「確かに、運転はできます。ですが公的な運転免許がありません」
「そっか、仕方がない」
弱気になる心を奮い立たせたが、張った腕と悲鳴を上げる腰に挫けそうになる。私は思わずハンドルに寄りかかった。
「そろそろ頃合いかも知れない。軌道エレベーターの観測施設が、二台目の車両が停止したことを確認した。休憩しよう」
長時間無口だったロシュ軍曹が、無線を開く。
「軍人さん、冗談じゃない被曝量だから、車内に入って」
エウロパの氷上を走り出してからも、荷台に登ったきりの軍曹を気づかう。
軍用の宇宙服とは言え、八時間も木星の放射線帯に晒されれば、急性放射線障害が出てもおかしくない。
「ああ、すまないが荷台から降ろしてくれ、足を撃たれて歩けない」
はじめから、軍曹は命を賭していたのだ。それに気がつかなかった私は、顔が蒼白になった。
彼を慣性で飛ばさないよう、慎重にブレーキをかける。完全に停止すると、運転室の与圧を抜いて、紅と二人で雪原に降り立った。
三日半続くエウロパの夜が迫り、希薄な大気はさらに寒くなっていく。煩わしいことに、宇宙服が積算被曝線量超過を繰り返し警告する。
執拗な不協和音を抑止すると、車体後方に走りよる。
荷台に彫り込まれたタラップで上面に上がると、ロシュ軍曹が仰向けに倒れていた。
「みっともない姿を見せちまった」
バイザーを白く曇らせながら、彼は虚勢を張る。
「軍人さん、なぜ怪我のこと秘密に。救急医療キットはあるから……」
動揺して続きは言葉にならなかった。逃走に夢中でまわりが見えていなかった私は、その愚かさを悔いる。
「司令部の命令はアンドロイドを守ることだ。兵士は言われたことをする」
彼は上半身を持ち上げると、水を求めた。私は、経口補水液のボトルを渡す。
「こんなにきついのは、火星以来だ。その時は生き残ったが、兵士にはこんな最期もお似合いだ」
ロシュ軍曹はボトルをヘルメットのコネクタに差し込むと、咳き込みながら飲んだ。
「あとは嬢ちゃんに頼むしかない」
「一人じゃ紅を守れない」
私は震える声で弱音を吐く。
「二人で生き残れ。命令じゃない、俺の望みだ」
それだけ言うと、彼は激しく咳き込んだ。
天に召されたのはそのすぐあとだった。
軍曹は二メートル近くある大男だ。低重力環境とはいえ、一人の力で、遺体を氷上に下ろすことはできなかった。紅が上から軍曹を吊り下げ、私が下で受け止めた。
あらためて見るとロシュ軍曹の宇宙服は、右足に補修材が張られている。凍った血が、白い宇宙服を斑に染めていた。
宇宙服を着ていると、外部から圧迫止血が行えない。失血死は生身よりはるかに多く起こりうる。宇宙服に止血帯が組み込まれているが、これまた治療が遅れると四肢を切る羽目になる。
「レア、硬直が起きると車内への収納が困難になります」
「紅、軍曹のバッテリーは?」
宇宙服はバッテリーによる保温機能があるので、極寒の衛星でも耐えられる。軍用のものは民間より容量が多い。
「ついさっき空になったようです」
「わかった」
紅と私で亡骸の四肢を持つと、運転室の扉まで運んだ。扉は狭いので、凍ったり死後硬直すると物理的に入らなくなる。
申し訳なく思いながら、軍曹を扉に押し込んだ。遺体は人形のように四肢をばたつかせながら、それに抵抗する。
やっとのことで車内に運び入れると、運転室の後部座席に安置した。
「いつくしみ深い神よ、今この世からあなたのもとにお召しになったロシュ軍曹を心に留めてください。洗礼によってキリストの死に結ばれた者が、その復活にも結ばれることができますように。私たちの主イエズス・キリストによって。アーメン」
私は信仰者として、帰天の祈りを捧げる。
「アーメン」
ついで紅も十字を切った。
「行こう」
「ええ、食事を摂ってから出発しましょう」
紅はそう提案するが、車内に空腹を満たすものはわずかしかない。一方でしびれた脳は猛烈に糖分を要求する。とりあえず私は運転席に戻った。
警告表示が星くずのように明滅するコンソールから、与圧スイッチを入れる。しかし、ポンプは稼働しなかった。
「窒素レギュレーターの背圧が二系統とも0.1マイクロパスカルです」
紅は補助席のコンソールを操作して原因を探る。
「アルゴンは?」
アルゴンは熱伝導率が低く、防寒のために与圧に混ぜている。
「アルゴンは、圧力も取れません」
与圧気体の大半を占める不活性ガスが使えない。酸素があればいいというものではない。
「ミサイルで壊れたか。見てくる」
ガスの容器はいずれも荷台内部に積載されている。ミサイルを撃ち込まれたのだから、何も起きない筈がない。
「ご一緒します」
「紅、そこの懐中電灯を持って」
私は紅に照明役を頼むと再び氷上に降りた。エウロパの公転が、氷の大地を夜に閉じこめはじめた。
荷台を調べると、観音開きの後部扉に小さい穴が開いている。これがミサイル跡だろうか。
タラップを展開して後部扉に取りついたが、ロック機能が変型して開かない。しかたなく荷台脇に嵌め込まれたメンテナンスハッチを開放する。
「だいぶ破壊されていますね」
ハッチと被弾あとから、木星の照り返しが差し込む。茶色の陰影の中、破裂したボンベが数本転がっていた。
この氷上車は与圧と暖房の経路が同一だ。エウロパの夜を暖房なしで過ごすのは難しい。
さりとてテロリストに追われている状況では、誰かの家に助けを求める訳には行かない。
カリストの艦隊が八時間前に抜錨したにせよ、救援の降下艇を下ろすまでには、さらに半日かかるだろう。
いよいよ覚悟を決めなければならない。
「行こう、紅」
私はボンベを端の方にまとめると、紅をうながし荷台をあとにする。
メンテナンスハッチを抜ける時、懐中電灯が氷の中を照らし、金属片が光った。大きさから見て漁労井戸の金具だ。
「廃井戸だ」
金具の上で中腰になると、氷の表面を擦って雪を払った。
「廃井戸、破棄された漁労井戸ですね」
「漁労井戸は一本掘るだけで、多額のお金がかかる。だから、珍しい」
「日時と木星の見た目で座標を計算したのですが、私が投げ込まれた漁労井戸は多分これです」
紅は首を大きく伸ばすと、大赤斑が口を開く木星を見上げた。
エウロパは重力で潮汐固定されているので、いつも同じ面を木星に向ける。木星の朔望は、エウロパの経度と一対一で対応する。
「誰のだろう。氷上車にデータベースがある」
気が進まないが、紅を漁労井戸に投げ込んだ漁師がわかるかも知れない。
「紅に命令できる人は居るの?」
運転室の扉に足をかけて、私は振りかえる。
「どうされたのです」
「与圧と暖房を失った氷上車では、エウロパの夜を生き残れない。私が死んでも、生き残って火星に帰って」
その言葉に自分が驚いた。ただ、六年間をエウロパの海で過ごした紅の無念を、私は晴らしてあげたかった。
「死後も有効な命令が出せるのは、主だけです」
「火星の鉱山主だっけ、それとも法的な所有者?」
「一般的にはそうです。ですが私は人工人格です。証言を伝える目的に合致するなら、自ら主を定めてよいと、身罷った中川 武史氏から命令されました」
紅は遠回しに私を推戴しているのだ。
「紅、私を主として」
「そうしましょう、ご主人様。万難を排して火星に帰ります」
「ありがとう」
「では、私からのお願いです。ご主人様、必ず生き残ってください」
「それは確約できない」
執筆用ソフトはScrivenerというものを使っています。
多機能ですが、日本語組み版には対応していません。
それでも文章を構造化できるのは便利です。