第十話 火星
カリストの軍艦により救出されたレア・ルコントは、生き残ったものとしての責務を果たす。
次起きた時は、手の甲に紅の手が添えられていた。
「おはようございます。ご主人様」
「おはよう……紅、私何時間寝てた?」
「十時間ほどです」
紅は私と同じ患者着を身に着けていた。着飾ってはいなかったが、顔の造形や梳かした黒髪のせいで、病室が華やぐ。
「気分はどうですか。お医者様によると、平熱に戻ったそうです」
「すごく怠い。あと、おしっこがしたい」
失調した感覚が戻って、身体の不具合を感じられるようだ。
「お手洗に行けるなら、尿道カテーテルは外してもらいましょう」
「カテーテル?」
残尿感は、おそらくカテーテルによるものだろう。ポンプはかすかな音とともに膀胱から尿を吸い上げて、無菌バッグに滴下する。
密閉されているとは言え、挿管はかなり恥ずかしい。
「輸液していますから、導尿が必要でした」
「いたっ、立つから手伝って」
私はベッドに下半身を置いたまま、柵を掴んだ。
「無重力なので立つ必要はないですよ。ですがお手伝います、ご主人様」
「そうだった」
紅は拘束ベルトを解くと、看護師を呼ぶ。
慌てて看護師が入ってくると、カテーテルを抜いた。
「まだ、残っている感じ」
患者着の上から、自分の下腹部をさする。
「ルコントさん、お食事をして、お小水を出せば違和感は消えます」
看護師は点滴ポンプとバッグをスタンドから外すと、私の身体に固定した。
「ご主人様は一昨日の朝食から何も食べていません。食事にしましょう」
「三日目か。エウロパの人達は大丈夫かな」
必死で考えが及ばなかったが、コーチン巡査やポール・デ・ラ・メヌエの漁師も危険に晒されていた。
「食事のあとにお話をしましょう。食事を貰ってきます」
紅は床を蹴ると、ふわりと飛んで病室の外に出ていった。
しばらくして彼女はトレイに盛った病人食を、ベッドのサイドテーブルに置いた。
パンが食べたかったが、かなわなかった。そして残念なことに、あらゆるものが切り刻まれていた。
「これは何?」
牛乳の中に、穀物とドライフルーツが浮いた食器を指差す。
「ミューズリーです、ご主人様。火星では一般的ですが、私は味を知りません」
外惑星方面軍の戦艦は、内外の惑星を往還している。食材はそれぞれの惑星で手に入りやすいものを仕入れて糧食としているらしい。
その他は具材がすりおろされたシチューと、刻み尽くされたツナキャベツ炒めが饗された。無重力食のため、いずれもとろみがつけられている。
私は、ツナキャベツ炒めだったものを口に運んだ。
この料理は簡単なものだが、外惑星系の住民にとってはソウルフードだ。ツナ缶はエウロパの〈マグロ〉から作られ、キャベツなど農産物はカリストの農業ドームで栽培されている。
「味はするけど、最悪」
舌触りはジャガイモの冷製スープに似ているが、食味は壊滅的だ。
「消化器系が万全ではありません。我慢してください、ご主人様」
「お腹が痛い」
悲鳴をあげる下腹部に、私は左手をあてた。
「大丈夫です。お医者様は後遺症が残らないと仰ってます」
「そうだといいけど」
私は食事を中断して、ベッドに倒れ込んだ。
「実はご主人様に頼み事があるのです」
「いいよ?」
私は安請け合いする。
今は紅の頼みを断れない。彼女に払うべき負債は、生き残った程度では贖えない。
「ありがとうございます。私の主として火星の戦犯法廷までついてきて欲しいのです。証言記録の解放には、ご主人様の命令が必要です」
紅は澄ました顔で、主になったことの代償を説明する。
「戦犯法廷って、ずっと言っていたやつ?」
「火星戦争の講和条件として、設置される予定です。火星戦争の原因を探り、戦争指導者の責任を裁きます」
「火星に行くなら、誰かに漁労井戸の管理を任せなきゃ」
木星圏から火星に行くには、民間の惑星間往還船で片道二週間から四週間はかかる。
漁協の人に漁労井戸の電池を入れ替えてもらわないと、凍結して廃井戸になる。
「そのことで謝らなければなりません。ご主人様が事件中に浴びた積算被曝線量は100ミリシーベルトを超過しています。非常時ということで外惑星厚生庁に頼み込みましたが、無理でした。公務員ではないので、あと数年間は屋外作業ができません」
あれだけ対消滅グレネードを使われれば、しかたがない。
「いいバカンスか」
屋外作業ができなければ、漁に行けないのも同様だ。
いや、今はそうではない。
「これが終わったら、漁を手伝ってくれる?」
「もちろんです」
「私は紅の証言を手伝う。火星に行こう」
「それでなのですが、この軍艦は私達を乗せたまま火星に行きます」
青天の霹靂だ。戦艦なら民間船より速いが、それでも家を長く空けることになる。少しばかり、やり残したことがある。
「パンを焼いたままだ」
「ふふ。コーチン巡査は、ご主人様に報告することがあるそうです」
紅は携帯端末を患者着のポケットから取り出すと、私の手に戻した。
「よかった。それで、艦内で電話できるの?」
「着信があったので通じるでしょう。おそらく内容は盗聴されますが」
携帯端末の履歴を表示すると、エウロパ警察にかけ直した。
電話に出たのはいつもの案内窓口ではなく、刑事部の捜査官だった。
「ポール・デ・ラ・メヌエ漁協のレア・ルコントです。コーチン巡査に電話したいのですが」
「ルコントさんか、元気そうで良かった」
電話口の男性は豪快に笑うが、どことなく声が引きつっていた。
「大丈夫?」
「何が? 署は潰滅したよ。三階の人員が少しばかり残っている。コーチンはトリアージでずっと待機中だけど、ここにいる」
医療の対象ということは、多少に関わらず負傷したはずだ。
裏口に打ってでた刑事部が、生き残っているのは運命の悪戯だろうか。
「コーチンさんをお願い」
「ああ、替わるぞ」
電話の向こうで、携帯端末は直接受け渡された。
「良かった、レア。もう大丈夫ですか?」
コーチン巡査は、突発性難聴が治らないのか電話口で大声をだす。
「はい、コーチン巡査は?」
「なんとか生き残りました。今後も警官としての勤めを果たすだけです」
そういうと溜息をついた。感情を押し殺しているようだ。
「……」
慰めたかったが、気の利く言葉は浮かんでこなかった。
「あと軍情報ですが、レアの自宅に侵入者がいました。六つの鍵全部を破壊したそうです」
普段一個しか鍵をかけないので、ポール・デ・ラ・メヌエ漁協の内部犯行ではない。
「他の追跡者?」
「軍が撃破しました。盗まれた氷上車です」
不用意にポール・デ・ラ・メヌエに戻らなくて良かった。そこまでして火星独立派が危険視する紅の証言とは何なのだろうか。
「ありがとう。お大事に」
巡査をいたわると、私は電話を切った。
「パウエルさんにも連絡しなきゃ」
漁労井戸のことを頼むなら、漁協の主任に話を通さなければならない。
「主任とはお話をしています。漁労井戸は一時的に漁協管理にして、収益は分配します」
「いつの間に」
用意周到な紅に感心して、ベッドからその端正な顔を見上げる。
「主あっての、下僕ですから」
「取り分は?」
「三割です」
「しかたがない。操業や設備維持にもお金がかかるし」
むしろよく七割で同意してくれたものだ。
「あとは、契約書を送るだけです」
携帯端末で、パウエル主任からのメッセージを探す。付属のスタイラスを取り出すと、契約書にサインして返信した。
しばらくベッドで休んでいると、艦内に告知音が鳴り響いた。
「艦が移動します。慣性がかかります」
紅はベッドに備え付けの拘束バンドを嵌め直す。
看護師が慌てて入ってくると、食べきっていない昼食のトレイを片付けた。
「もう出発?」
「火星に行くため、この強襲降下母艦を戦艦に格納するのです」
紅はサイドテーブルの後ろからディスプレイ端末を展開した。数タッチで目的の映像を探し当てると、艦の周辺カメラからの映像を表示させる。
視界を占める木星の中に、白い半球が嵌め込まれている。軌道から見たエウロパだ。ひびのような淡い線は氷の地殻に入った線条だ。地殻深部の温かい水が、地表に湧き出している。
エウロパの低軌道には数隻の強襲降下母艦が間隔をとって周回している。この艦もその一つだ。
艦首の方向が変わり、軌道エレベーターが放つ一条の光が前方視界を横切る。
さらに転回した強襲降下母艦は木星と、エレベーターの先、静止軌道ステーションを見据える。
「あれは木星の輪。四日前に見たばかりだけど、違って見える。そっか、子供の私は、たぶん終わったんだ」
大気の外ではきらめかないが、その代わり輪を構成する百万の糸が、七億八千万キロメートル先の太陽に照らされて半弧をえがく。
目を移すと、ステーションの桟橋に白い楔が見える。
「あれが戦艦」
従軍経験がない私は、お上りさんのような感想を漏らしてしまった。
軍艦を知らない訳ではない。火星に出撃している第一機動艦隊は、木星とエウロパのラグランジュポイント4が泊地だ。いかんせん、遠すぎる。
「戦艦ベラトリックスは強襲降下母艦を四艦収容可能です。グランマ艦ですね」
紅はディスプレイを操作して戦艦の映像を拡大する。
エウロパを出たことがないどころか、エレベーターも使ったことがない私は、あれに乗って火星に行くのだ。
紅には火星に行くと伝えたものの、心の準備はできていなかった。動悸する心臓が胸を締め付ける。
「紅。火星の戦犯法廷で、証言する内容って何」
「概要なら。火星は鉱業収益の再投資に失敗して貧困に陥ったのであり、地球による収奪があった訳ではないと証言します」
「さっぱり分からない」
太陽系統合議会の責任ではないという意味だろうか?
「エウロパで例えると、漁労井戸を増やし過ぎて資源が枯渇、漁獲量が減ってしまった状況です。漁労井戸の維持に必要な経費も出せなくなって、エウロパ漁業は潰滅してしまった」
それなら分かる。漁労井戸の所有には様々な規制がかかっていて、実質的に数を増やせない仕組みになっている。
「それは火星のせい」
私は素朴な質問をした。
「どうでしょう。ですが前の主は以前から警告をしていました」
そんな言説を裏切り者と断じて、火星の独立派は敵視したのだろうか。
「なんだか温かくなれない」
「暖めましょうか」
「うん、少しだけ」
手始めに私は、紅と手を繋いだ。
潮汐固定された衛星における昼夜の概念に矛盾があります。
すいません。