2 引きこもり令嬢とお義兄様
壁の木板が控えめにぼんやりと光る。
ベッドの隅に体育座りし、毛布を被っていたわたしは、ずるりといっそう毛布を引き下ろした。
恋愛ゲーム異世界転生。そんなの、全く望んでない。望んだこともなければ、未来永劫望まない。ふざけんな。
乙女ゲーの世界とか、悪役令嬢とか。流行っていたのは、「大人女子のゲームプレイ記」の時に教えられた。問答無用で愛される主人公になりたいだなんて……悪役令嬢になって世界をひっくり返そうだなんて……みんな随分気骨のある夢を持ってるな、と驚いた。
コミュニケーションが主体の乙女ゲーム。100パー他人と関わる前提の転生とか、したくない。何が悲しくて、デカくて恐ろしい男共に囲まれなきゃならないのか……理解不能。しかも取り巻きを侍らせチヤホヤされる令嬢とか……何だそのえげつない罰ゲームは。ゲームじゃなく罰ゲームだ、間違いない。
考えただけでもため息が出る。なのに、それが今のわたしの現実だと言うのだから、絶望の押し売りもイイところで。誰得? いや、全損だ。
ハァァァァ……。
油断すると、ため息ばかりが限りなく零れて落ちる。
……そもそも、前世の記憶を持っての転生とか、わたしにとっては生き地獄でしかない。
だって、生き直したいなんて思ったことは一度もなかった。むしろ、早死にだろうがなんだろうが、十分に生ききった自信がある。もう満腹。
……ハァァァァ。なのになんでわたし、こんなトコでまた生きてるんだろ……。神様、もしも居るのなら……迷惑です。誰にとっても。ハァァァァ。
どのくらいそうしていただろう。
部屋にこもって何日が経ったのかも、よくわからない。食事を持ってくる侍女の出入りからして、既に四日くらい経つだろうか。わたし付きの侍女はとにかく無口だ。だからこそ、彼女だけはここ四年程、下働き専用の繋がり部屋を通ってわたしの部屋に出入りすることを許可されている。
「……気持ち悪い」
浅く微睡みながら、時折なんとか動いては自室から繋がったお手洗いに行ったり、壁の木板に返事を書き込んだりして過ごす。せっかく作ってもらったご飯だけど、食欲は一切ない。むしろ食べれば吐く、そんな予感だけがヒシヒシとあった。
薄く光る木板を見ると、またしても家族からのメッセージがそれぞれ一通。返事を急かさないように、みんな我慢してくれているのは知っている。それでも、体も頭も重たくて、お義兄様達のようなペースで返信することはできなかった。
この世界に本来、こんな伝達手段は存在しない。すべては、わたしを心配したお義兄様の独自技術だ。屋敷の特性を利用した、と言っていた。詳しくは理解できなかったものの、石造りの外観と違って内装は木造だからこそ、実現可能だったらしい。お義兄様は知的貴公子キャラの名に恥じない、最強知的美青年で、優秀とか秀才とかを超えた、本物の天才だ。
スマホやタブレットほど万能ではないものの、この木板に専用のペンで文字を彫り込むと、お義兄様達の部屋に設置された木板に表示される。シンプルなEメールみたい、と思いながら表示された文字を読んだ。
引きこもり始めた五年前、家族の心配が頂点に達する度に自室に突撃されて、その度に失神していたのも、今では懐かしい思い出……かもしれない。
この木板のおかげで、ある意味快適な引きこもりライフが送れている。
「…………」
お義父様からは「お土産に美味しいお菓子を買ってきたよ」というメッセージ。……あれ? お義父様っていつの間に帰宅したんだっけ??
「庭のダリアがようやく咲いたの」という報告はお義母様から。整えられた庭園はこれからが最盛期。本当なら、お茶会がたくさん開かれ、賑わうはずの場所だった。
2人とも心配しているだろうに、何気ない雑談に留めてくれる。「どうしたの?」とか「大丈夫?」なんて詰め寄られても、わたしがうまく返事できないこと、優しい2人は理解してくれているのだろう。
この5年、わたしは1歩も動けていないのに、ありがたいことに、周りが歩み寄って来てくれている。
「……今、何時……?」
お義兄様からのメッセージに、心臓が嫌な音を立てた。
「今夜、治癒に行くよ。約束のホットチョコレートは、ミルクとホワイト、どっちがいい?」
そんな文面。
既に壁の時計は19時を指している。ふと見れば、またしても真新しい食事が届いていた。間もなく義兄も来るだろう。
「……」
不要です、と回答して急いでベッドに戻る。……まぁ、それでも持って来ちゃうんだろうけど。
お義兄様と顔を合わせるのは正直なところ、気まずかった。だって……。
なんでわたしが聖女キュアノスなんだろう……。
この数日で何度も繰り返し思ったこと。攻略成功率の高い愛され聖女とか、どれだけハードル高いんだ、と思う。
このゲームにはやり込み要素が結構あって、最高到達点は逆ハーの総愛されハッピーエンド。そこを目指すならかなり難しいが、普通に対象一人を攻略するノーマルエンドなら結構簡単。誰だろうがわりとあっさり、籠絡されてくれちゃったりする。聖女っていうのが非常に重要な世界だかららしいけど……勘弁してくれ。もっと高くプライド持とうよ。
とはいえ、そもそも攻略対象が自分から押しかけて来ている時点で、いろいろおかしい。有り得ない。
攻略難易度落ちてますが。更にわたしの心理的ハードル上がってますが。
……どうせなら攻略難度MAXで出会いの機会すら失いたい。
恋愛とか……お義兄様がわたしのことをそんな目で見るはずがない。そう、頭ではわかっていた。
聡明で優しくて心配性な義兄は、家族としてわたしを愛してくれている。実際のところ、以前本人からそう言われた。「五年前も、それより前も、例え二十年後だって変わらないよ」と。
しかし、今のわたしは知ってしまった。自分次第では、お義兄様が変わってしまうかもしれないということを。主人公が、この優しい人を「腹黒担当」の攻略キャラに変えてしまうかもしれない、と。……考えただけで恐ろしい。赦されざる行いだ。ホント、万死に値する。むしろ今すぐ死んどけレベル。
自分が人を変える、そんな烏滸がましいこと、普段のわたしなら口が裂けても言えない。そもそもわたし如きになんの影響力があると言うのか、図々しいにも程がある。
わたしが生きようが死のうがどれだけ絶望しようが世界は変わらず回るし、だったら、人の意識に上ぼらないようひっそり生きるのが一番無難だ。
この国の葬儀は大掛かりらしいから、無駄なお金を使わせたくない……そう思って、今日までなんとか生きてきた。なのに、わたしが万が一主人公の聖女なら……影響力の塊のような、補正力の働くとんでもない存在なら……いっそ、死んでしまった方がイイ。
「アニー、入るよ?」
いつの間に時間が経ったのか、静かなノックの後、お義兄様の声がした。細く開けたドアから差し込む照明の柔らかな光が、一瞬でまた見えなくなる。
「要らないって言われたけど……できれば付き合ってくれないかな。エイヴィーから新しい種類のチョコレートが届いたんだ。普通のものより少し色が薄い感じなんだけれど、香りはイイと思うんだよね」
領地の町の名前を上げ、お義兄様がトレーを置いた。ベッドサイドに置かれたテーブルで湯気を立てるカップからは、香ばしくも甘い匂いが漂ってくる。
「特産品になりうるか判断するのも領主一族の務めだよ。アニーの意見も貰いたいな。治癒をかける間にでも、一口頼むね」
本当にこの義兄は聡い。
ただ食べさせようとしても無駄だと知っているし、不思議なことにわたしの気持ちに気付いてしまう。今だって、ハンスト状態のわたしにさり気ない責務を課すことで、栄養を取らせようとしていた。
いざという時、自由意志に任されるより、命令された方が動けるわたしの性格を、見抜いているのだ。
「悪いんだけど、今日は治癒に少し時間がかかるかもしれないから、ゆっくり飲んでくれる? 昼間に魔術具の補充作業を始めたら、ついやり過ぎちゃってさ。ごめんね?」
領地で使う大切な魔術具に魔力を込めるのは領主一族の大切な仕事だ。だから、治癒に回せる魔力が減って時間がかかってしまう、そう言われれば、作為的だろうがなんだろうが反発なんてできようはずがない。
それにお義兄様は……わたしが根底では「役に立ちたい」と思っていることにも気付いている。
「いえ…………いただき、ます」
ここまで完璧に包囲されてしまえばもう、栄養の塊を飲むしかなかった。もぞもぞと毛布をかぶったままカップを手に取る。お行儀悪いが、こうしていれば顔を合わせる気まずさが多少、マシだ。
HPをある程度回復させる魔術「治癒」と、高カロリーのホットチョコレート。
気付けばまたしてもお義兄様の掌の上、餓死は見事に阻止されている。義兄の優秀さがほんの少し恨めしい。……いっそ失踪しちゃえばイイのかな。でもこの体力じゃ、ウチの門までも辿り着けない。ベルサイユ宮殿ほどじゃないが、庭が異様に広いから……。
もそりとベッドの縁に腰掛けた。やっぱり気まずくて顔が上げられない。毛布があってもやっぱり無理だ。相変わらずお義兄様は靴先まで完璧で隙がないな……なんて思いながら下を向く。
「……っ!」
沁みるような甘さの温もりを少しずつ口に含み、一瞬だけチラリと、お義兄様を盗み見た。一瞬なのになぜか目が合ってしまって……心臓がうるさい。
部屋を照らすのは灯りを絞ったランプと、魔力発動の副産物の発動光のみ。
2週に1度かけてくれる治癒の、柔らかな白い光がお義兄様の右手に集まり、暗い部屋に神秘的な影を落としていた。切れ長の翡翠の瞳が淡く光を発しているようで、すごくキレイだ。見惚れてしまわないように気をつけて……チラリチラリと様子を窺う。
聖魔術に分類される「治癒」は、誰もが使える技ではない。持って生まれる魔術素質に適正がなければ、どんなに魔力が多かろうと使えない、他とは一線を画する特殊な魔術だ。一般的には。
「美味しい?」
「……はぃ」
お義兄様の元来の適正は水と風と土。凡人には有り得ない三つもの属性を持つ才人だが、聖属性はないはずだった。
けれど、わたしがパニックのあまり引きこもったあと、努力に努力を重ねて、前代未聞、聖属性を開花させた……らしい。本人は飄々としているから、こっそりお義母様に教えてもらった話だけれど。
あの時、引きこもって食事どころか会話もできない義娘を、養親は当然ながら、心配した。最低限命をつなぐため、2週に1度は治癒を受けるよう、扉を蹴破る勢いでやって来て、さもなくば一緒に死ぬという勢いで説得された。……あの恐怖は忘れられない。
しかし、聖魔術師は貴重なうえに神殿所属。侯爵家の威光をもってしても専属にはできないし、毎回別の人が派遣されてくることもある。人間不信MAXだったわたしに、それを許容できる余裕なんてあろうはずもなくて……治癒を受ける度、ひどい蕁麻疹と呼吸困難、挙句の失神と、その後数日の高熱がお決まりだった。治癒なのか罰なのか……あの頃はホント、心底苦しんだ。
加えて、今と違って聖女はなんだっていう上乗せがなかったから、派遣されてくる術師の態度は居丈高。
「気分はどう?」
「……問題、ない、です」
「それは良かった。もう少しだからね。あ、チョコレート、もう数口飲んでご覧。飽きがこないかも確かめなきゃね」
憂鬱極まりない治癒の術師が、この優しい義兄に代わったのは、確か、施術を受け始めて1年くらい経った頃だったと思う。何気ない口調で「これからは私が担当できるようになったよ」と微笑まれた時、恥ずかしながらひどく安堵したことを覚えている。
「美味しい、です……」
温かなカップに唇をつけたまま、またチラリと盗み見る。鼻歌でも歌いそうな、明るい表情。
……でも、演技かもしれない。だって、お義母様が言うには、お義兄様は魔力を使い果たして死にかけるような真似を繰り返し、本当に危険なことをして、ようやく、治癒の魔術を身につけたのだから。今だって風魔術なんかに使う数倍の魔力を使ってようやく、発動しているのだと聞いた。
まるで、死にかけたら強くなるどこぞの戦闘民族か、きっちり剃り上げると質が変わる毛根のような……そんな無謀なことを、この知的で麗しい義兄がしたのかと思うと複雑だ。わたしなんかのために、何をしてくれてるやら……。
しかも、ゲームには匂わせすらなかったお義兄様の聖属性。既にわたしがあれこれ狂わせ始めているようで、心底怖い。ありがたいけど、とにかく心底複雑だ。
「アニーの口に合ったのなら、このチョコレートもエイヴィーの特産品に加える方向で進めても大丈夫だね。
そういえば、トルーズミアーの葡萄も今年はかなり品質が良さそうなんだ」
お義兄様の治癒魔術は心をじんわりと温める不思議な効果を持っている。おかげで、ドツボにハマったネガティブ思考が少しだけ、マシになった気がした。
「トルーズミアーは風光明媚な町なんだよ。いつか見せたいな」
でもまだ、外に出るのは嫌だよね?
口に出さない質問が聞こえた……気がする。
「……どの辺り、なんですか……?」
領地の主要な街の名前は覚えているが、細かなところまでは知らない。嫡男であるお義兄様と違って将来的に領地運営に携わるわけじゃないから、わたしは深く興味を持たないまま来た。
「え? あぁ、トルーズミアーだよね? 港街のユッガはわかる? そこから一山、内陸に入るとあるんだけど……」
わたしの反応が予想と違ったせいか、珍しくお義兄様が戸惑っているようだった。確かに……今までのわたしなら断固拒否していただろう。それも、さも怯えきって。
「……ユッガ。……ユッガは、わかります、漁獲量、国内2位の街、です」
今、ふと気付いた。
わたし、別に遠方は怖くない。……気がする。
自分を知る者が誰もいない場所なら、人間なんて互いに人形と変わらない。だって、前世のわたしは外に出てたし、最低限の会話をして来た。目立ちさえしなければ……人の目につく何かさえなければ、人間なんて、そうそう他人を意識するものじゃない、そう知っている。人間なんて所詮、自意識の塊だから。
「そうだよ。さすが、私のアニーは賢いね」
破顔するお義兄様。こういうのを、「愛情に溢れた」って表現するんだと思う。「慈愛に満ちた」かもしれない。
その優しい笑顔をチラリと見る。
わたしが怖いのは……昔、心底怖く感じて、今もやっぱり怖いのは……この笑顔が、変わってしまうこと。
わたしの中の幼いアニーが、「義家族大好き」って幸せそうにニコニコしてる。優しい思い出と笑顔に溢れた毎日の中で、素直に、明るく笑ってる。
一方で、わたしの中の前世の記憶が、「人間は嫌い」だと冷めた態度で主張する。他人も自分も、人間なんてくだらない、と。
──記憶が戻ったきっかけは、本当に些細なことだった。
お義母様とお義兄様と一緒に参加したお茶会で、偶然見かけた光景のせい。主催する家の令嬢が、裏で母親にキツく叱られているのを見た……それだけ。
外面のイイ母親のヒステリックな金切り声と、萎縮しきった娘が泣きながら謝り続ける声に、わたしの魂が大きく大きく身震いした。そのせいだ。
「……いつか……行ってみたい、です」
「ホントに!? いつでも連れて行くよ、あぁ楽しみだ!」
自分の立場を知って、改めて考えて。思い知った。
どうしたってやっぱり怖いのは、この義兄や義両親が変わってしまうこと。
今でも抑えきれず、大好きだと思ってしまうから。けれど、自分自身でさえ価値を見いだせない、この空っぽな中身がバレたら……間違いなく嫌われるから。
義家族に嫌われたら、死ぬよりツラい。だから彼らに近付き過ぎないようにしたかった。なのに離れがたくて……引きこもって、愚かな自分を毛布に隠して、息を殺して義家族を見ていた。
「ねぇアニー。提案なんだけど……もしちょっとでも嫌なら断ってくれてイイんだけど……」
この優しい義兄に嫌われるなんて、想像しただけで即死できる。でも……じゃあ、お義兄様が恋愛脳になってわたしを追いかけてきたりしたら……??
「少し、外に出る練習をしてみない? ほら、学院の遺跡部分とか……奥の方なら、誰かに会う心配もないし」
……うん。そうなったらやっぱり死ねる。お義兄様が恋愛脳になるとか、耐えられない。
「道中は検問なしで行けるように申請するよ。不本意ながら、王子の許可を取るのは簡単だからね」
嫌われるのも、必要以上に好かれるのも嫌。
だったら、わたしが取れる手は一つだ。
「どうかな、アニー……?」
お義兄様を変えないために。
「……わかりました」
──義兄ルートではないルートに入る。
断腸の思いだし、既に倒れそうだけど。
「外に……出る練習、します」
「本当に!? それは……あぁ、アニー!!」
最後まで攻略しなきゃイイんだから。
義兄ルートさえ潰せれば。
「あの……お義兄様も……一緒に、来てくださる、ん、ですよね……?」
まかり間違って義兄イベントが発生しないように監視しつつ、ルート分岐を終えればイイ。万が一にもお義兄様を変えないために。
「もちろん!」
「ありがとうございます……」
まずは……引きこもりを返上しよう。