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7 悪役令嬢と今のわたしとお義兄様

「おはようございます、ローザリー様」


翌朝、わたしは無表情でハキハキと彼女に挨拶していた。わざわざローザリー様が登校前に我が家に寄ってくれたのだから、当然だ。

馬車からこちらを見下ろす彼女に膝を折るわたしのすぐ後ろでは、養父母が嬉しそうに、涙を湛えた目でこちらを見ていた。


「メタルム嬢、キュアノスをよろしく頼みます」


義父が優しげにそう言えば、義母も


「娘のお友達にお会いできて、本当に嬉しいですわ。これからもどうぞよしなにお願い致しますね」


にこりと微笑む。善良な義両親の輝く笑顔に、わたしも嬉しくなったが、表情には一切出さない。

やっぱり、ローザリー様はすごい。ローザリー様と居れば間違いない。


「もちろんですわ。彼女はわたくしにとっても大切なお友達ですもの。さあ、乗って?」


あでやかな余所行きの笑顔に圧倒されていると、その笑顔がこちらを見た。すごい、綺麗。


「アニー、緊張しているようだが……無理だけはしてはいけないよ。完璧に治癒を終えたとはいえ、昨夜熱を出したばかりなんだからね」


「洗礼やパーティーの準備はわたくし達に任せて、あなたはお友達との学園生活を満喫していらっしゃい。うふふふ」


朗らかに送り出してくれる二人は本当に嬉しそうで。

ローザリー様がわたしを迎えに来てくれたこと、それからわたしの魔力が開花したこと。それらが義両親の長年の憂いを消し去ったことがよくわかった。


「行ってまいります」


これまでに比べればかなりはっきりとした挨拶を口にして、わたしはメタルム公爵家所有の馬車に乗り込む。

本来なら位が下のわたしが迎えに上がるべきところを、ローザリー様は「聖女様のお手を煩わせるわけにはまいりません」と、こうして迎えに来てくれた。本音はほぼ間違いなく、自分専用にカスタムした馬車以外には乗りたくないわ、という可愛いワガママなのだろうけど。さすがローザリー様。安定感が素晴らしい。


「それで? 治癒とパーティーということは、間違いなかったのね?」


走り出した馬車の中、余所行き笑顔を消したローザリー様が問いかけた。


彼女専用のこの馬車は独特の造りをしている。普通はこのサイズなら、向かい合った長椅子を取り付け、最低でも四人は乗れるようにするものだ。けれど居住性を最大限考慮したローザリー様の専用馬車には、長椅子が一つしかない。代わりに、安定感のあるテーブルが一つと、侍女用の質素な椅子が一つあった。


「はい。昨夜熱が出ましたが、自分で治癒することができました」


よく訓練された馬車専属の侍女が、丁寧に入れたお茶をわたしの前に差し出す。揺れる馬車の中で物音一つ立てず、主人の邪魔にならないようにさり気なく立ち働く彼女は、プロ中のプロだ。

礼儀作法に則り、出されたカップに一口だけ口をつけ、わたしはすぐ隣に座るローザリー様を見た。


「そう……。自分の病を癒すことができたのなら、あなたはやはり、聖女なのだわ」


昨夜、予想通りわたしは熱を出した。蕁麻疹もなかなか引かず、頭痛のあまり吐き気までした。

なのに、治癒をかけてくれるはずのお義兄様は未だ神殿から戻らない。絶望する義両親に、わたしは事前にローザリー様から教えられていた通りの言葉を伝えた。

「どうやら学園で、わたしの魔力が開花したようです。見極めていただけませんか」と。


「間違いなく、王家と神殿の間であなたの奪い合いが起こるでしょうね」


優雅にお茶を飲む手つきも麗しい。

ローザリー様はわたしの話しに何事か考えるように眉を寄せ、それから、


「それで? オルナメントゥ侯爵家としてはどうするおつもり?」


と問いかけてきた。


昨日、わたしを拾ってくれたローザリー様と話す中で、二つのことを教えられた。


一つ、わたしの魔力が開花していること。

二つ、聖女の治癒は対象を選ばないこと。


わたしが謎の光だと思っていたものは魔力で、周りの気配やら何やらが感じとれるのも魔力のおかげだったらしい。

ずっと開花しないままだった魔力がなぜ昨日のあのタイミングで花開いたのかはよくわからないけれど……個人的には、「全ての攻略対象に出会ったせい」または「数年ぶりに周囲に意識を向けたせい」じゃないかと思っている。

そして、開花した魔力がしんに聖女に相応しいものであるなら、その治癒力は一般の使い手の比ではない……のだそうだ。治療効果、治療範囲、治療対象、どれもがチートで規格外。


ゲーム時代は些細なことで気にしなかった。けれど、現実となると、その違いはめちゃくちゃ大きい。だってつまり、決死の想いで聖魔術を習得した義兄あには、どう頑張ったって、低・中級治癒しか使えないのに、なんの努力もしてないわたしは、上級治癒どころか状態異常回復までできてしまう、ということで。


……そりゃあ……政治的にも宗教的にも、放置できないに決まっている。ヒロインの選ぶルートで、下手すれば国が変わる。そのくらいの大きな力だ。

……ハァ。考えたくないけど、ルート、考えなきゃ。お義兄様、ワガママ王子、爬虫類教主、直情騎士、たらし校医。クリアしないで途中で放棄する予定だけど、どこがまだマシなんだろう。ローザリー様、相談乗ってくれないかな……。


「今日、教会と王城には報せを送るとのことでした」


昨夜、義両親が見守る中、わたしは発熱した自分自身に治癒をかけた。お義兄様の真似をしてフィーリングで使っただけでも、驚くほどに成果は顕著。

本来、術士自身にかかるはずのない聖魔術を自分に向かって完璧に使えたことで、わたしの魔力は、聖女の基準を満たしてしまった。


「まずは洗礼を教会で行う予定だと聞いています。その後、周知のために、魔力開花祝いのパーティーを盛大にやる、と……」


あれほど聖女の肩書きを厭っていたわたしが、あっさりと実証に移した理由は単純明快。他でもないローザリー様が、はっきりさせたがっていたからだ。

……まぁ、ローザリー様の説明を聞いて、「もしわたしが自分で治癒をかけられるのなら、もうお義兄様に迷惑をかけなくても済むかな?」と思ったから……というのも、少しある。


「そう。侯爵ご夫妻はお喜びなのね。……ならば、わたくしの道は一つだわ」


「……ローザリー様の道、ですか?」


「ええ」


きっぱりと言い切り、気だるげに窓を見遣るローザリー様はやっぱり綺麗。彼女に出会えたことを思えば、義兄の留守中にひどい目に遭ったことも、ある程度仕方ないと思えるからすごい。

……本当は、ローザリー様の選ぶ道とやらを、訊いてみたい。けれど、この表情かおになった香澄ちゃんが絶対に口を割らなかったのと同じで……わたし如きじゃ聞き出すのは無理だと思う。


ガタゴト、と車輪がたわんだ音を上げる。雑音だけが響く車内。

それから学園に着くまで、お茶は二回煎れ替えられたけれど、ローザリー様が何かを話しかけてくることはなかった。ちょっと残念。


「ブルルルル……」


美しい横顔をチラチラと窺っているうちに、外から馬の鳴き声や喧騒が聞こえ始めた。

昨日はそれどころじゃなくて気づかなかったけれど、登校時間の学園正門前はかなり混雑しているようだ。


朝と言うには遅い時間。しかし、あくせくする経験のほとんどない貴族の集団にとっては今がまさに登校ラッシュで、空になった馬車が続々と離れて行くところだった。

ちょうど、下位、中位と登校が済み、上位貴族の登校時間になったばかりらしい。メタルム公爵家所有の馬車は超上流階級の特権をフル活用して、混み合う停車場よりもさらに校門に近い場所まで進み、ようやく止まった。


「……あら。殿下が2日続けて学園にいらっしゃるなんて珍しいわ」


従僕の手を借りて優雅に降り立ったローザリー様が、後ろからやって来た馬車を見て小さく呟く。一方、手を貸してくれようとする従僕さんに必死の断りを入れていたわたしは、その言葉にピシリとその場で固まった。ローザリー様の傍でこんな態度はよろしくないと思うものの、染み付いた恐怖は消し難い。

できるだけ平静を装って目玉を動かす。ローザリー様の見つめる方向……正門のド真ん前に乗り付けた、一際立派な1台の馬車。あれは……疎いわたしでも、さすがにわかる。

……うぅ……でもさ、何が悲しくて二日連続朝イチ遭遇!? ……というか、絶対昨日のこと、ネチネチ言われる……っ!


「おはようございます、殿下」


艶然とした笑みを浮かべたローザリー様が、降り立ったばかりのラムールライトに声をかけた。……見えないけど。多分、素晴らしい微笑みを浮かべてる、はず。わたしと喋る時と声が違うし。

綺麗な若草色の後頭部を見つめながら、さりげなく従僕さんのあたり……ローザリー様の従者に紛れる位置に立ってみた。できることなら馬車の中に戻りたいが、そうもいかない以上、ここがベスト。


「……おはよう、メタルム嬢。公爵家に咲く天上の薔薇は今日も美しいね」


「ありがとうございます、殿下。殿下のご威光を浴びてこそ輝く我が身でございますわ」


え、誰あれ……?

ローザリー様と和やかな会話を交わす「殿下」は、わたしの知る「殿下」と別人なのだろうか。こんな穏やかで貴公子然とした話し方……


「おや、アニー」


ひ!? その呼び方、やっぱり……!?


「どうしてそんな隅に居るのかな? キミとボクの仲じゃないか。遠慮することはないよ」


ぞわわわわ……っ!

話し方は相変わらず貴公子然としているのに、それが却ってめちゃくちゃ不気味だ。敢えて逸らしていた意識を向ければ、爽やかな気配の中に混じる、ドス黒い感情。めちゃくちゃ怖い……。……いや、表には出さないけどね? ローザリー様のご機嫌の方が大事だし。


「あら、殿下は彼女をご存知ですのね? わたくしの一番のお友達としてご紹介申し上げようと思っていたのですけれど……」


「これは驚いた。アニーは人見知りが激しいからね。昨日知り会ったばかりのメタルム嬢にそのように言われたら萎縮してしまうのではないかな」


「まぁ! ご心配には及びませんわ。ねぇ、キュアノス? わたくし達、とても気が合いますのよ」


「心優しいメタルム嬢なら問題なかろうが……念の為に言っておこうか。メタルム嬢ほどの令嬢に迫られて頷かない者など、男女問わずそうそう居ない。間違っても下の者に考えを押し付けてはいけないよ?」


「まさか……殿下はわたくしをお疑いですの?」


「いいや、そんなことはないよ。一般論さ。自戒も込めて、時折口にするようにしているからね」


……白々しい。

ラムールライトには昨日帰宅した時点で、両親からお詫びと感謝の手紙を届けてある。内容は、「エスコートという名誉を賜って感謝しきりでしたが、病弱なためこれ以上ご迷惑をおかけすることは心苦しく、一刻も早く帰らなくてはと、朦朧としたまま病室を抜け出し、倒れたところをメタルム令嬢に助けられ帰宅しました」という感じ。それを丁寧に飾って回りくどく言い直し、またまた飾って文章にした、と聞いた。

だから、ラムールライトとわたしの関係を聞いてきたローザリー様はもちろん、ラムールライトだって、こうして大袈裟に驚いてみせるのは社交辞令だ。ヒトをダシに使うの、止めて欲しい。二人だけで会話すればイイと思う。


「ねぇ、キュアノス?」


しばらく、内心で白眼をむきつつ聞き流していたが、ローザリー様がはっきりとこっちを振り向いた。今日朝イチの大一番。


「はい、ローザリー様。…………殿下におかれましては、本日もご機嫌芳しいようでお喜び申し上げます。昨日さくじつはご温情を賜り、ありがとうございました」


しくじればローザリー様のご機嫌が崩壊する。そんな予感に口を開いた。


「アニー……? 何が……?」


内心の恐怖と苦手意識は消せないけれど、スラスラと喋れている。そのことにホッと安堵した。

ひとまず取り繕えているなら上出来だ。声にも顔にも表情はないから、昨日みたいにおもしろがられる心配もない。


「もしかして……体調不良の影響? ……マーロウ殿め……っ」


一方のワガママ王子は、小声で微妙に素が出ている。そこまで動揺されると……なんか嫌。わたしのことなんてロクに知らないクセに、なんでそんな「おかしくなった!」みたいな反応ができるのやら。


「おかげさまでご縁をいただきまして、ローザリー様のお傍で、貴族の娘としてあるべき姿を学ばせていただく機会に恵まれました」


お義母様の真似がベースとはいえ、読書で得た知識や、前世の常識なんかがあれこれごちゃ混ぜになってるから、出てくる言い回しはやけに堅い。


「わたしの目指すべき女性はローザリー様しかいらっしゃいません」


しかも、一言一句、気を使う。例え似たような内容だとしても、ここで「いらっしゃらないと思います」なんてぼかすのは地雷。「ローザリー様以外は」みたいに他のヒトを並列に扱うのもアウトだし、漫然とした「すばらしいヒト」みたいな単語もよろしくない。

それはあくまで前世での経験からの認識だけど……間違いではないと思う。現にローザリー様、誇らしげな雰囲気だ。


「は?」


「……殿下。どうしてそのように驚かれますの? わたくしは、我が友にして聖女でもあるキュアノスの言葉を大変嬉しく思っておりますのに……」


「あぁ、いや、屋敷に籠りがちだった彼女に大きな変化を齎したメタルム嬢の人徳に感心してね」


「まぁ! でしたら殿下もぜひ、彼女の決意を応援してくださいませね!」


「あ……ぁ、もちろんだ」


それにしても、悪役令嬢と攻略対象という関係性はすごい。これこそ、「強制力」というものだろうか。

オレ様王子は、なぜかただの良識的な王子へと成り上がり、ダイナマイトボディーな美女はさらにその迫力と圧を増している。


「ところで、殿下も学習室へ? 途中まで御一緒させていただいてもよろしいでしょうか」


「あ、いや……今朝はマーロウ先生に用事があってね。非常に残念だが……」


「左様でございましたの。では、また後ほど」


学園に来るつもりがなかったから今の今まで忘れていた。そういえば、ラムールライトとローザリー様は同じクラスだ。わたしは1つ下の学年になる。

……いやぁ、「学年」って響きがもう、懐かしい。嬉しくもなんともないけどさ。


「あ、あぁ。本当に残念だ」


グイグイ強気なローザリー様の勢いにたじろいだのか、ワガママ王子は爽やかな外面そとづらを貼り付けたまま、そそくさと足早に去って行った。念の為その気配を追って……ようやく、ガガトも居たのだと気付く。いつもは威圧感ムンムンなのに、今に限っては極力、存在感を薄めていた。なぜ、と思う余地もなく……ホントすごいよローザリー様。マジ憧れる。悪役令嬢の看板は伊達じゃない。


わたしがローザリー様にくっついている理由は単純に、一緒にいたいと思うから。香澄ちゃんによく似たローザリー様と離れる方が、わたしにとっては不自然だった。まぁ……悪役令嬢の陰に居れば、不必要に攻略対象が絡んで来ないんじゃないかな、という打算がないわけでもないけれど……ローザリー様を慕わしく思ってるのは本当だ。


「……さて。あなたはどこまで付いて来るのかしら?」


「え?」


優雅に歩くローザリー様に付き従って校舎に入った時だった。


「またその鈍い反応。ハァ、嫌だわ」


これみよがしな溜息をつかれ、慌てて背筋を伸ばす。ここで謝ると余計拗れることは学習済みだ。


「わたくしの学習室とあなたの学習室は同じではなくてよ」


「……あっ」


一瞬、意味がわからなかった。

当然のようにローザリー様の後ろについていこうとしていたけれど、学年が違う。ついさっきその事を思い出したはずなのに、ピンと来なかった自分が恨めしい。そうだよ……教室が違うんだ……。


「でも、わたし、何も知らないですし……ローザリー様のお傍で……」


なんとかローザリー様と一緒にいられないものかと、ない頭を捻る。彼女と離れ、一人で教室に向かうなんて耐え難い。ローザリー様が居なきゃ、意味がない。


「……なぁに、あなた、わたくしに道案内をさせるつもりなの?」


「いえ、滅相もない!!」


不機嫌全開で睨まれて、かつてない声が出た。


「お話し中、失礼致します。どうかなさいましたか?」


その叫びが聞こえたのか、はたまた怒りを含んだローザリー様の壮絶な美貌に目が眩んだのか。横から声がかけられた。

穏やかな女性の声だけれど、予期しなかった人物の登場に一瞬固まる。疲れるから常時周りを意識しているわけではないし、今は特にローザリー様に集中していて……結果、ほとんど無防備だった。仮面が剥がれなかったのは、前世からの熟練度のおかげだろう。


「ローザリー・デュム・メタルム様。御用がございましたら承ります」


「そうね。では申し付けます。この子を学習室に案内なさい。この子はオルナメントゥのキュアノス。聖女キュアノスよ」


どうやら、女性は学園付きの侍女のようだった。探ってみれば、校内には一点に留まる彼女のような存在が幾つかある。それから、巡回の騎士らしき動きをする存在も。

いくら学生の学びの場と言えど、集まるのは貴族の子ら。確かに、教師以外にも世話役と護衛役は必要だ。侍女にしては主張が強い彼女は、例えるならば施設スタッフみたいなものなのだろう。


「あ、ぇ、あの……ローザリー様……っ」


煩わしそうに手を振って去っていくローザリー様の後ろ姿に、わたしは激しく狼狽えた。


「畏まりました。では、聖女様、こちらへどうぞ」


本来ならわたしはここで、寛大にも案内役を付けてくれたローザリー様に深く感謝するべきなのだと思う。

なのに、彼女が立ち去るまで……いや、立ち去ってしまっても、身動ぎ一つできないでいる。


「……聖女キュアノス様。別のご用件がございましたら、どうぞそちらをお申し付けください」


邪険にされたせいじゃない。

でも、それはもう、職務に忠実な侍女さんが困ってしまうくらいに硬直して。


わたしの耳には、遠巻きな喧騒が響いていた。

ローザリー様の一言で集まってしまった注目、そして交わされる囁き。そのどれもが、好奇心と猜疑心に溢れ、一部には嫉妬や悪意も感じられる。

突然押し寄せるそれらの膨大な感情に、息ができない。それに──。


なんで、ローザリー様は、あんなことを……?


わからないから、余計、パニックが襲いかかる。

ローザリー様は、自分が一番じゃなきゃ、納得しない。ローザリー様は……香澄ちゃんは、自分が注目されたいヒトなのだ。なのにどうして……。


道案内を任せるだけなら、衆目の集まる玄関先で「聖女」なんて単語を出す必要はなかった。天上の薔薇に例えられる彼女を意識するヒトこそ多かれど、わたしに気を割くヒトなんてほとんどいなかったはずなのだから。

きっと彼女なりの思惑があったのだろうとは思う。でも、わからない。スポットライトを譲るような真似、香澄ちゃんは死んでもやらない。香澄ちゃんらしく……ローザリー様らしくない。有り得ない。なんで……だって……。


「聖女様」


侍女の呼びかけで、集まる視線が増えていく。噂が広まったのか、奥からもヒトが顔を覗かせ始めた。

……なんで……?

混乱は収まらない。けれど、ここに留まるのが良くないのは明らかで。無意識に、手が胸元のロケットを握りこんだ。


なんで……なんでわたしは、ノコノコとこんな所まで出て来てしまったのだろう……。ローザリー様と居れば大丈夫だと思ったのに……なんで……なんで一人で……。


苦しい。助けて。

考えられない。何が起こったのかわからなくて……怖い。怖くないはずだったのに。心は凪いだはずだったのに。


それはまるで、中毒症状のようだった。支配されることに慣れ、自主自立を放棄した前世のわたしが、苦しんでいる。

心に馴染んだ毒の味を思い出してしまったのに……感覚を鈍らせる救いの毒薬に歓喜したのに……どっぷりと浸かった途端、唐突に与えられなくなってしまった。それ故の、禁断症状。


我になんて返りたくない。

現実なんて感じたくない。


今生の方が前世より幸せだと思った気持ちに嘘はなかった。義家族を、お義兄様を慕わしく想う気持ちも。

しかし、今生の方が瑠璃として生きた頃より恐ろしく感じる物事が多いのも、また事実。心があるから、だからツラい。自由があるから、だから怖い。


ローザリー様は溺れるわたしが掴んだ藁だった。

香澄ちゃんにそっくりで、盲信できる、強い藁。

わたしのトラウマそのもので、同時に救い。

なのに、なんで?


ローザリー様は香澄ちゃんのはずなのに。香澄ちゃんと同じなのに。

……なんで?

どうしてわたしを見捨てるの?

支配してくれないの?


もう、考えたくない。


毒は染み込んだ後なのだ。十数年かけてようやく抜けたはずだった被支配者の思考。わたしは所詮、使い捨て……。

……あぁ、そうだ。バカだな、わたし。現実という名の地獄には、垂れてくる糸はないと知っていたのに。なのにまだ、一縷の望みを捨てられない。


──アニー、大切な私のアニー。


ふと、握りしめたロケットがリンと鳴った。ひび割れた意識の隙間からお義兄様の声が湧き出て……染み込んで行く。


──何があっても変わらないよ。


優しい優しいお義兄様のくれた言葉が、傷を癒す魔術のように広がった。


──可愛いアニー、私がついてる。


あぁ……お義兄様……。

ローザリー様が……香澄ちゃんが毒なら、お義兄様は正しく薬だ。この幻石のように、いや、幻石以上に、守ってくれる。

あぁ、そうか……。

記憶の中のお義兄様の指先が優しく光る。まるで、救いの糸を垂らすように。慈悲深い、天上の聖人のように。


「聖女キュアノス様?」


──キミはずっと昔から私にとっての聖女だよ。


前世に引きずられるわたしをずっと見守ってくれたヒト。こんな面倒なわたしを、いつだってお義兄様は守ろうとしてくれた。

世間の目から。王族から。神殿から。すべてから。恐らく……心の傷からさえも、守ってくれた。


ごめんなさい──。

気付かなくて。

ごめんなさい──。

自分のことばっかりで。


──私の可愛いアニー。


お義兄様はわたしに見返りなんて求めなかった。ただただ、心を向けてくれた。

そうだ。お義兄様こそ、わたしの目指すべき姿。なのにわたしは……。


「聖女様、医務室までご案内致しましょうか?」


ギュウウッとロケットを握る手に力が籠る。

外の騒ぎを少しでも遮断したくて、固く固く目も瞑った。


神殿にいるだろうお義兄様。優しくて温かな義兄が恋しい。お義兄様さえ居てくれれば、迷わなくて済んだのに……責任転嫁甚だしいが、そんな想いまで湧いてきた。

だって……そうだ。瑠璃が香澄ちゃんでできていたなら、今のわたしはお義兄様でできている。お義兄様が、作ってくれた。


あぁ…………今、わかった。


わたしは、情けないほど弱いから。空っぽだから。誰かで中身を埋めなきゃ、生きていけない。

香澄ちゃんで……ローザリー様で……お義兄様で。虚ろなわたしは、「ヒトが怖い」「ヒトが嫌い」と言いながら、その実、自分の尺度なんて持ち合わせない。ヤドリギよりも尚、悪質。なんて最低。


──アニーが自分を嫌いでも、私はアニーが好きだよ。


……いつ、聞いたのだったか。脳裏にお義兄様の言葉が甦る。


──アニーが自分を嫌うなら、その分も私が好いてあげる。


笑みを含んだ優しい声は……もしかしたら、わたしの創り出した妄想かもしれない。けれど、やけにくっきり、思い出せた。


──愛しいアニー。私のアニー。


あぁ…………。


……お義兄様──!!



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