第五十一話 新雪
「俺はずっと、お前だけが欲しかったんだ。もう、我慢するのは疲れたから」
智太郎はそのまま血塗れた唇で私に深く口付ける。焼き付くような強い熱が、私の意識を攫ってしまいそうな程、蕩けさせる中……鉄の味がした。妖達が言うように、甘くなんか無い。でも智太郎にはきっと甘く感じるんだ。私は人だから、智太郎の渇望は分かってあげられない。濡れた唇が感じるものさえ、違う。
智太郎は唇を離すと私の首筋に手を伸ばす。
「……ん」
銃を構えつづけた智太郎はその容姿に似合わず、硬い掌をしていた。肌を這うざらついた掌に、声が出るのを我慢できず唇を噛む。智太郎の柔らかな白銀の髪が首筋を擽ったと思った瞬間……吐息が首筋にかかる。
私はその瞬間、翔に血を奪われた恐怖を思い出し、吐く息がおかしくなった。浅い呼吸と心臓の音が耳元を支配し、息苦しい。身体の震えが止まらない。暗い天井と私に覆い被さる智太郎の身体が、ぐるぐると視界を混ぜていく。眩暈だった。
あの時、私を助けてくれたのは、救ってくれたのは……。
「助けて……智太郎」
私が切れ切れの息の中、発した言葉は、智太郎の動きを止めた。智太郎が身体を離すのと同時に、私が震える手で、無意識に智太郎の胸元の生地を掴んでいたのを理解した。
「千里」
眩暈で混ぜられた暗い視界は、智太郎がどういう表情をしているかさえ定かでは無かった。だけど、優しく私を呼ぶ声は……私が大好きな智太郎のものだった。動けないままだから、智太郎はきっと我を取り戻したんだ……。
智太郎は何も言わないまま、体温が離れていく。
私はその事に胸が痛くなる。嫌だ、離れたくない。
気がつけば、眩暈も過呼吸もおこしていたのに、私は歪む視界の中、智太郎をがむしゃらに捕まえると、ふらつく私はそのまま、智太郎に上から抱きついていた。
「行かないで! 」
「何言ってるんだ、俺はお前を……喰らおうとしたんだぞ」
智太郎の心臓は私と同じく、激しく打っていた。智太郎の顔を見たくて、私はなんとか起き上がると、ようやく視界が定まる。今度は私が智太郎に覆い被さる形になっていた。こちらを見つめる智太郎は呆然として……自分がした事に恐怖を浮かべていた。私は智太郎を安心させたくて、なんとか微笑む。視界を遮る髪が邪魔で、耳にかける。
「いいよ……智太郎になら、私の全部、あげたって」
智太郎の赤い双眸が揺らぐ。
「さっきまで、怖がってたくせに」
「私は、弱くて臆病者だから……しょうがないでしょ。でも、私だって一番大切なのは智太郎なんだよ。言えない秘密だって、智太郎が離れていくのが怖いから 」
「俺はお前から離れたりなんかしない」
「さっき離れていこうとしたくせに。嘘だよ」
「お前こそ人を全然信用してない。十年も一緒にいるのに」
「そんな事! ……あるのかな? 」
「ある」
それきり、顰めっ面で黙り込む智太郎を見つめると、なんだか可笑しくなる。同時に愛おしい、と思った。そう言えば、いつかやり返すと決めていた事を思い出し私は智太郎の頬に触れる。優しく微笑むと、智太郎は瞠目した目を細める。そのまま、私は智太郎の唇に、掠めるような口付けをする。智太郎みたいにはいかないけど……仕返しにはなったかな?
智太郎の表情を見たくて、顔を離すと……智太郎は真っ赤な顔を逸らしていた。意外な表情に私は胸がキュンとする。
「突然、すぎだろ……」
「あんなに私にキスしといて……? 」
「それとこれは別」
まだ私と目を合わせられない智太郎が可愛い。
その時、智太郎に生えた白い耳がぴょこぴょこ反応しているのが気になって、私は思わずつまんでしまう。
「おま……! ふざけるなよ! 」
相変わらず真っ赤な顔でこちらを睨む智太郎。
でも……全然迫力は無かった。
「え、ごめんね? 」
「反省しろよ」
「だって、白い耳可愛いくて……。妖の姿全然見せてくれなかったから」
「見世物じゃない」
残念だ……。すっかり落ち込む、という表情を作る私に智太郎は溜息をつく。
「……たまになら、いい」
「やったぁ! 」
小さく喜ぶ私に智太郎は複雑そうに、してやられた、と呟く。
「……智太郎はまだ血が欲しい? 欲しいなら……」
心臓を抑えながら聞くと、智太郎の赤い双眸は揺らぐ。
だが、先程のように張り詰めたものでは無かった。
「気がそれた。それに、別にもう血じゃなくても……」
智太郎は咳払いをして、俯く。何故か顔がまた赤いような……。
「千里は俺の事を振り回している自覚はあるのか」
眉を寄せ首を傾げる私を見て、智太郎はがっくりとまた溜息をつく。
「……俺も面倒な奴に捕まったもんだな」
「なにそれどうゆう意味! 」
私が智太郎の両頬をつねると……こちらにかけてくる足音が聞こえた。
「千里様! ご無事ですか……ん? 」
地下牢の前で私達を見下ろすのは、疾走してきた竹本だった。呆然と私達を見たまま固まる。智太郎の上に覆い被さり、その頬をつねる私、というのが竹本から見た私達だろう、と客観的に考え……気が付く。すっかりイチャついているようにしか見えない事を。私は顔を赤くし竹本から目を逸らす。他の人に見られてもいい程図太くはなれない……!
「お、お邪魔致しましたぁ――!! 」
「ああ。帰れ、帰れ」
踵を返す竹本を、智太郎は冷静に手を払って追い返す。なんで智太郎は見られても平気なんだろう。さっきまであんなに赤く頬を染めていたくせに。
「というか良くない! 早く私達も戻ろう。黎映も待っているし……」
知らない男の名に智太郎は目を細める。冷気を感じる……これは殺気か。
「誰だそいつは」
「上にあがったら説明するから! 」
私は慌てて智太郎から下り、竹本を追おうと地下牢を出ると、智太郎は私の手を取る。地下牢をくぐると、妖化を解き、何時もの花緑青の瞳でこちらを見つめた。その瞳はいつもの強い輝きが宿っていて、私は安心する。
「とりあえず……色々整えてからがいいね」
智太郎の血塗れな姿は私の精神衛生上も、良くない。
「ああ、お前もな」
智太郎の言葉に私は自分自身を見る。着物がすっかり血に塗れ……口元も触ると、智太郎の血塗れた口付けによって、血が乾いていて凄いことになっているのを自覚した。
「スプラッタ映画なみの迫力」
「馬鹿な事言ってないで、早くした方がいいんじゃないか」
眉を寄せる智太郎に、私は苦笑した。
手を繋いだまま、私達は暗い地下を抜けると……地上は灰色の空から、白い雪が降っていた。締雪を覆い隠そうと、新雪が積もり始めた。
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