第三十三話 青
過去夢展開あり
「貴方は誰? 」
木漏れ日の中、彼女は鬼を見つめていた。
先程までの戦場が嘘のように、木々の葉の朝露が煌めいている。
瑠璃と露草色の牡丹の千早。青い巫女装束。
左右の髪には瑠璃色の牡丹と銀の札飾りの花簪から伸びる、2本の紅鬱金色の長い紐の先に鈴が二つ下がっている。
彼女はやや紺色がかった、腰まで伸びる黒髪に、青い瞳をしていた。
鈴と銀の札飾りを鳴らし、鬼の元に近づいていく。
「来るな、人間」
鬼が巫女を睨むと、彼女は足を止める。
憂いを帯びた睫毛を震わせ、目を伏せる。
「貴方……怪我をしているのね」
遠ざかったはずの人間達の怒鳴り声が、再び近づいてくる。
鬼は眉を寄せた。
巫女は鬼を見つめると、身を翻す。
「こちらへ」
鬼は躊躇ったが、このままではどちらにしろ死んでしまう。
鬼は右目を押さえたまま、巫女の後を追った。
彼女の後をついて行くと、石段の先に、同じく石でできた鳥居がある。但し、鳥居には神社の名前は刻まれていない。鳥居の先、青い牡丹が咲き乱れる中に、社がある。
「入って」
鬼は躊躇うも鳥居をくぐり、巫女に続く。
こじんまりとした社ではあったが、巫女が扉を開くと、中で過ごすには十分な広さだった。
鬼が、社に入り、巫女が扉を閉めたのと同時に、追ってきた人間たちの声が聞こえる。
「青様、こちらに鬼が逃げてきませんでしたか」
「知らないわ。それよりも、血で濡れ、刀を携えた姿で神社に足を踏み入れるとは一体どういうことです」
「も、もうしわけございません……鬼をお見かけになりましたらすぐにお知らせください。奴は危険な妖ですので」
暫くすると、男たちの足音も遠ざかっていく。
扉が再び開かれ、青はため息をつく。
「……何故妖である俺を助ける。この事が先程の者達に知れたら、お前もただでは済むまい」
「私の目の前では誰も死なせたくないだけです。戦など早く終わればいいのに」
青は鬼の元に近づくと、膝をつく。
「さあ、傷を見せてください。貴方も死にたくなくてここまで来たのでしょう? 」
鬼の残された赤い瞳と、彼女の青い瞳が交差する。
妖である鬼の瞳孔は鋭く光り、人間である青の瞳孔は円らかで深く輝く。
一瞬の逡巡の後……動いたのは鬼の方だった。
ため息をつき、右目を押さえる手を除ける。
「頼んだ」
鬼の言葉に、青は笑顔が綻ぶ。
花が咲く様な鮮やかな表情の変化に、鬼は左目を見開く。
「無論です」
青は鬼の右目を清潔な布で巻く。
矢を引き抜く時、鬼は歯を食いしばり、痛みに耐えた。
青は暫くすると、額に浮かんだ自身の汗を拭った。
鬼に刺さった矢も取り除き、止血は終わった。
後は養生するだけだ。
鬼を寝かせると、青は言う。
「妖とは言え、酷い怪我です。しばらくはここで休んでください。……妖は人間と同じ物は食べられるのですか」
鬼は顔をしかめる。
「食べられないことは無いが、意味などない。人間は木の皮を食べて腹が満たされるのか」
酷い例えに青は眉を寄せたが、やがて席を立つ。
「……無いよりはましでしょうから、用意します」
青が部屋を出ると、鬼は寝返りをうち、青が出ていった方向に背を向ける。
「変わった女だ」
そんな出会いから数日経ち、鬼は青の介抱を受け、ゆっくりと回復していった。だが……。
「近寄るな」
鬼はいつものように、怪我の布を替えようとした青を遠ざけた。
青は首を傾げる。
「一体どうしたというのです? いつものことでしょう」
鬼が僅かに青を振り返ると、爛々とした赤い隻眼が青を捉える。
瞳孔が異常に鋭く、瞳は血のように赤が深い。
何より青に向けられた視線は強く、まるで獣のようだった。
唇を震わせた青を見て、鬼は視線を逸らし立ち上がる。
「……世話になった」
そのまま出ていこうとする鬼の衣を、青は急いで掴んだ。
「待ってください、何処に行こうというのです。 まだ完全に傷が治っていないのに。そんな状態で外に出たら、殺されてしまいます」
「……分からないか」
鬼が振り返り、青に再び赤い隻眼を向ける。
「俺はもう限界だ。これ以上回復することは無い。人間を喰らわないかぎり。お前には恩がある。お前を、殺したくは、無い」
鬼は躊躇いながら最後の一言を告げた。
人間なんて妖の糧であるだけの存在だ、と鴉に告げた時とは、どこか違っていた。
だが、青は鬼の衣を離さない。
「なら、私を喰らえばいいわ」
青が告げた言葉を理解すると、鬼は赤い瞳を見開く。
「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか。死ぬことになるんだぞ」
「でも、貴方は私を殺したくはないんでしょう? 私の血があれば貴方は生きられるのよね」
青は衿を横に引き、首元を鬼に向ける。
鬼は口元を押さえた。
「血だけで済むとは限らんぞ」
「その時は、私が愚かだったと、蔑んでもらってかまいません」
青は自嘲するように微笑む。
鬼はその微笑みを見て、何かを堪えるように顔をしかめる。
「俺はお前を殺さない、絶対に」
鬼の言葉は自身に言い聞かせるようだった。
「何故ここまでするのか」
青の首筋に牙をかける寸前、鬼は青に問う。
青は瞼を閉ざすのをとめ、鬼に答える。
「私が、貴方に惹かれているからだと言ったらどうしますか」
鬼の肩が、ぴくりと動く。
「やはり愚かだ。……だが、愚かなのは俺も同じか」
鬼の牙は青の首筋に埋められた。
「青様……まだお怪我が治らないのですか」
参拝にやって来た女は、青の首筋に巻かれた布を見て言う。
あれから、青は鬼に血を与え続けていた。
傷が治らないのは当たり前だ。
青は思わず首筋に手を当てる。
「ええ……」
「傷が膿んでいたら大変です。一度、村の医者に診て頂いては」
女の言葉に青は首を横に振る。
「神社から私が離れる訳にはいきませんから」
「それならば、村の医者にこちらに来ていただくのはどうですか。村の者も、青様ならば喜んで承諾するでしょう」
「大丈夫です。……本殿を清めなくては。神がお待ちですので、失礼致します」
青が社に入り、村の女の足音が遠ざかったのを確認すると鬼は苦笑する。
「鬼を神と偽るとは……酷い嘘だな、巫女よ」
いつもなら青、と呼ぶはずなのに、鬼は敢えてそう呼んだ。
当てつけているのだ。
「……神罰は受けます」
「冗談だ。なんなら、本当に鬼になってやってもいいが」
肩を竦める鬼を、青は睨む。
鬼はそんな青を見て、ため息をつく。
「もう隠し通すのも限界なんじゃないか。村の奴らに疑われているんだろう。どうするつもりだ」
「何とかします」
治らない青の首の傷。鬼の姿は死体も残さず消えた。
参拝者の、じとりとした疑心暗鬼の視線。
「……無理だろうな」
その時、足音が複数聞こえてきた。
足音と同時に鈍い金属音もする。
……刀か、鍬が歩く度にぶつかる音のようだと気がつくと、二人は口を噤む。
「青様。鬼は本当にこちらに居ないのでしょうか。念の為、社を検めさせて頂きたい」
青は鬼を手招きすると、裏口へ繋がる扉を開く。
幸い、裏口には村人達は居ないようだ。
二人は手を繋ぎ、森へと逃げる。
その後で、社を開いた者達の怒鳴り声がする。
逃げたのだと気が付かれたのだ。
青が袴の裾を持ち上げて走っていることに、鬼は気がつくと青を抱えて疾走する。
「もうあの社には戻れない」
「いつか、こんな日が来る事を私は恐れていました」
青は鬼の背中に手を回す。
「また別な場所を探して、共に生きればいい」
鬼の言葉に青は微笑み、頷く。
「私はもう貴方と離れません」
「恐れていたと言ったばかりなのに、随分と嬉しそうだな」
鬼もそんな青に笑みをかえす。
穏やかな笑みだった。
「ええ、貴方が共に生きてくれると言うから、嬉しいのです……何故なら私は貴方の事を愛してしまったのですから」
「青……俺もお前のことを」
だが、その言葉が続くことは無かった。
鬼の背を突然、複数の矢が貫いたからだ。
矢は鬼の胸まで達していた。
青の顔の寸前に、鬼の胸を貫いた鏃がある。
青の頬と衣に、鬼の血が滴る。
「いやぁぁあぁああ!!」
青の叫びとともに、 鬼の身体が傾く。
だが、踏みとどまり、鬼は倒れることは無かった。
青を抱えたまま、再び走り出す。
「駄目……もう、私を置いていって」
声を震わせながら、青が首を横に振る。
「最後まで共にいよう」
青にそう告げる鬼の口は自身の血で濡れていた。
青は瞳を潤ませ、口を結んで頷いた。
村人達は二人を追ってくる。
だんだんと追う声も近づいてくるようだ。
鬼は、午後の光を反射する沼の前で立ち止まると、遂に倒れた。
沼の周りには神社と同じ青い牡丹が咲き誇り、まるで神社に戻ってきたような錯覚を覚える。
青は鬼の下から抜け出すと、鬼を膝の上に乗せる。
鬼の頬に、青の涙が落ちる。
「死なないで……私の血をあげるから」
青の言葉に、鬼は首を横に振る。
「もう意味は無いんだ」
鬼の言葉に青は項垂れる。
「何で一緒に居たいだけなのに、貴方が殺されなくちゃいけないの……」
「それは、妖が人間を喰らうからだ。俺も青に会うまでは、人間なんてただの脆弱な糧だと思っていた。だが……鴉の気持ちが今なら分かるよ」
「人間だって! 妖を沢山殺したわ!……そうでしょ、だから貴方一人くらい生きていたっていいはずよ」
人間と妖が共に生きていければ。
そう、青が呟いた時……青の視界に、金の光がちらつく。
青は顔を上げると、金の光の正体を理解する。
それは女性だった。
彼女の、風に揺らぐ腰まで伸びる髪も、その強く輝く瞳も、金の色彩を纏っているからそう見えただけだったのだ。
私は彼女を知っている。
彼女を見た瞬間、千里はここが過去夢であることを思い出す。
彼女の持つ白い鞘に包まれた刀は、かつて初代当主の夢で視たもの。
白い柄には見覚えがある。
私は不思議な確信をもって理解した。
過去夢を見る度にちらついていた、金の光が彼女に纏わりつく。
……桂花宮初代当主の彼女は……己穂は、かつての私だ。
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