第二百三十話 秘かな切り火
黎映達と再会の約束をして、図書館を発った。私が「犠牲を甘んじる覚悟なんて要らないよ」と告げれば、沙亞耶は真摯に頷く。紫水晶の瞳に、艶々と清光を宿して。一生懸命な前向きさが、愛おしいな。
「誰かを救えるお姫様になる為に、『信じる想い』を貫いてみるね。遠くへ行っちゃう前に、しょうちゃんを知りたいの」
獏を追いかけ、沙亞耶は階段へ駆けて行った。私も登れば、二階は初等部だった。教室と廊下を隔てる、硝子折戸は六曲一双。六枚に折りたためる透明な屏風だ。和紙硝子の荒波は、二重の金縁がズレて立体感を生み、金箔が祝す。異彩を放つのは、七宝焼の把手。瑠璃と翡翠色の金波で、白兎が跳ねるのだ。思わず、私は立ち止まってしまう。釉薬の夕暉が反射し、古代紫、東雲色、猩々緋が硝子へ捻れ踊るみたい。火打ち金を磨る、切り火の祈り。透明な背骨だけを連鎖する原索動物、サルパの躍動。並ぶ机は沈黙しているのに、透明な日常が銘々に睨んでくる。
「まさか……千里サン? ようやく見つけましたよ! 」
ハッと顔を上げれば、獏と沙亞耶が居ない。代わりに私へ駆け寄ったのは、兎川 煉! 栗梅色のポニーテールが揺れ、兎耳のように浮き毛が跳ねた。赤縁眼鏡の奥、瞳は透き通る赫を縦に編む。慌てていても、猫口が微笑んでいるようで可笑しいな。
「やだ、はぐれちゃったな……でも、煉さんと会えて丁度良かった」
「長すぎる迷子ですよ! 智太郎達と手分けして探していたんですからね、社長に鬼TELさせて頂きます! 」
「黒曜達とも離れていたのは確かだけど、さっきまで漣廻寺の獏達と一緒に居たんだよ。……私、二重の迷子だね? 」
「獏か。学園長室にズカズカ入って行くから思わず止めたんだが。学園長がカンペを忘れたから、代わりに取りに来たらしい。……もう『庭』へ行っちまったが」
重厚な声の正体は、杖を突く五十路の男。肩に触れる赤胴色の髪が、彫りが深い褐色肌の顏にうねる。宮本 都峨路は、夏期講習の指導者として招かれたのだったな。鈍色の狼眼が底光りするせいで、『先生面』には見えないが。お利口な授業を蹴っ飛ばしそうな、悪餓鬼の笑みを寄越した。
「よぉ、お嬢ちゃん。こんな所まで来ちまって……ジジィ共からは庇ってやれねえぞ」
「都峨路さん! 獏達、行っちゃったんですね!? 」
「『模擬戦』が始まるから、庭へ集まるのは皆一緒だ。お嬢ちゃんも向かえばいいさ。俺たちは、煉とバッタリ会うとは思わなかったがな。だろ、祇流? 」
煤色の襟足を刈り上げた四十路の男が、私に会釈してくれた。宮本 祇流は、精悍な顔立ちに刻まれた右頬の古傷と、木製の義手の左腕が、古強者の様だが……不思議にも激弱なんだっけ。義弟としても、宮本家の人望厚い忠犬としても、都峨路を『先生』たらしめる影の立役者になりそうな。
「意外ですな。煉は、漣廻寺を避けていなかったか? 姉の嫁ぎ先なのに」
「だからこそ避けてたんですよ、祇流サン。姉と姪に、アタシは会わない方がいいんです。それに、漣廻寺の経蔵には出るんですよぉ……お化けが! 親が夜間の妖狩りへ向かう為に、アタシが漣廻寺に預けられた七歳の夏。見たんです! 」
煉は青ざめた顔で、両手をだらんと垂らしてみせる。が、屈強な男達には効果が無かったようだ。都峨路が眉を寄せる。
「漣廻寺に、妖狩人の子供が預けられるのは定番だな。墓があんだけありゃ、出るだろ。何ビビってんだ、元妖狩人が」
「いやいや妖とお化けは別物でしょう! 妖は実体がありますが、奴らには無いんですよ! 夜中の杉廊下の奥……蔵戸の灯光を覗いたら。黒い面布に白墨字の男が言ったんです、『来たか、玉兎』って! アタシが腰を抜かしたら、スーッと消えやがったんですよ! 」
「それ、本当に幽霊なのかな? 」
私は小首を傾げる。沙亞耶は【透明】の異能者だったし、漣廻寺に同じ異能者が居たのだろうか。何か関連性がある気がする。例えば、私と黎映の【過去夢】のように。
「幽霊ですって! 実体験したから、もう経蔵には寄りたくないです。祈凛乃姉さんと沙亞耶に会わないようにするだけで、精一杯ですし」
「姪っ子って……沙亞耶ちゃんだったのね! お姉さんが嫁いだのって、櫂海 さん!? 何で煉さんは、沙亞耶ちゃん達を避けてるの? 」
「兎川家の血脈には、妖の因子があるんだろ。己の中の猛火を自覚すれば、半妖のように短命に捕まっちまう。徒人としての幸せを願うなら、周りが秘匿で守るべきだ。同じ血脈の煉が妖の因子を自覚したことを知れば、自分の中の妖に気づくかもしれない」
覆水盆に返らず。幸せな上辺を、ひっくり返されてしまう。獏が置いて逝かれたくない人は、やはり沙亞耶なのだ! 妖狩人が術式の根源たる妖や跡継ぎを秘匿し、己の家門を守護してきた理由が分かった気がした。淡々と語る都峨路にも、妖の因子があったはず。煉は苦笑を返した。
「やっぱり……アタシが八分の一の妖であるのを自覚した事、都峨路サンにバレてましたか」
「お互い、恨めしい先祖に血を鍛えられた子孫だろ。己を騙し騙し、生き長らえるしかない。俺が一番早死すると思っていたのに、咲雪も那桜も逝っちまった」
「都峨路サンは、自分を騙すのが上手いんですね。アタシは器用に生きられません」
「だが、煉は今も生きている。お前の命を拾った親切な妖の誰かさんに、よろしく言っといてくれ」
【感覚操作】をもつ黒曜の配下となった事で、煉は生き長らえた。黒曜の存在に勘づいていても、都峨路には清濁併せ呑む度量があった。大切なひとの生を願う、『秘かな切り火』は皆の胸中にある。
「生き長らえるべきは、煉だけじゃありません。俺を拾ってくれたアンタへ恩を返す前に、くたばらないで下さいよ」
祇流は腕を組み、都峨路を睨む。手綱を噛む忠犬に、花咲翁は皮肉に笑み崩れた。
「へいへい。飼い犬の面倒を最後まで見るくらいには、生き長らえてやるよ」
「都峨路さんには聞きたい事が沢山あるけれど……宮本 縁子さんって、誰か知ってます? 」
どうやらお爺様には、姉弟子が居たらしい。聞いた時から、宮本の姓が気になっていたのだ。
「ああ、親父の……宮本 什造の妹だな。什造、縁子、正治、隆元の順で、正治の実母を師範として仰いでいたらしい。桂花宮家当主が、女だった時代の話だ。兎角その縁で、俺は死んだ親父諸共……あの正治には世話になりっぱなしだ」
先々代の青ノ君を殺め、【異能】を奪ったとされるのは都峨路の父親だ。美峰達が確かめたい真実を、眼前の男は抱えている。直接聞くべきか否か……【過去夢】で触れて確かめてみる?
「この間も。イカレ親父が遺した蔵書を、漣廻寺が高値で買ってくれると言うから売り払ったら、正治の怒雷が落ちたな! ガハハッ! 今頃、血眼で図書館を探してるんじゃないか? 」
「んなっ! 何やってんすか、アンタ! 血濡れていようが、妖狩人の蔵書は最大の家宝でしょうが! 」
祇流が目を剥いて叫ぶのも、無理は無い。蔵書には、術式が綴られている事だってある。漣廻寺の蔵書量を不思議に思っていたけれど、廃した家門から引き取ったか、高値で集めるかで蒐集したらしい。やはり、黎映達と【過去夢】で図書館を探るべきだ……と思えば、校内放送がピィンと鳴る。
―― え~、皆様お待たせ致しました。間もなく模擬戦が始まりますので、夏期講習をご希望の方は、植物園へお集まりください。
「学園長のお出ましか。……植えた桜が心配だ。酒盛りついでに、見学してやるか」
「そこは『都峨路先生』として、真面目に参加してくださいよ……全く」
「行きますよ! 千里サン! 」
「え、ちょっとま」
私は愚鈍にも、思い切り躓いてしまう! 三人めっちゃ早い。どんどん姿が遠ざかる。妖狩人の脚力に、私の筋力は叶わないらしい。こんなことで妖力を使うのもな……と思い悩んでいると。物陰から、手が伸びた! フードを被った誰かに背後から捕まえられ、私の悲鳴が塞がれた!
「叫ぶな! やっと見つけたと思ったら、俺を不審者にするつもりか!?」
猫耳フードの奥に輝くのは、花緑青の猫目! 白銀のショートウルフカットの髪筋が、ふわふわと私の頬を擽る。少女と見紛う繊細な風貌の少年は、私に凛とした意思をくれるんだ。慣れ親しんだ体温と檸檬茅の香の爽やかさに、強ばりが溶けていく。
「智太郎! 来てくれたんだね! 」
「来てくれたんだね、じゃないだろ! 勝手に居なくなっておいて! 」
焦る程に心配してくれて嬉しいって思ってしまうのは、いけないことだけど……真摯に見つめられたら、頬が綻んでしまうな。
「ふふ……みんなにTELしすぎだよ、智太郎」
「焦りもするだろ。こんな写真とメッセージが、千里のLINEから送られてきたら! スマホを忘れていったお前が送るには、悪質すぎる! 」
智太郎は牙を剥いて、スマホ画面を突き出した! 映るのは、セーラ襟に赤ラインがある黒袴の少女。濡羽色の長髪を、ハーフアップにしていた。杉と墓を背に、驚愕で翼耳をピンと立て、紅紫色が青紫に変幻する杏眼をまん丸にしている。……獏に、いきなり撮られた私だ。『返して欲しくば、追いかけろ』の脅迫文付き。
「獏だ。なんで、私のアカウント知ってるの!? 」
私しか知らないパスワードをどうやって……まさか、【異能】で白き落陽の夢へ入った時に、私の記憶を知ったの? 秘密を暴くなんて、厄介だ。
「喰いつくべきはそっちじゃないだろ、誘拐犯に危機感を持てよ! その様子じゃ、獏とやらに懐柔されまくってるな……」
溜息を吐いた智太郎の肩に乗るのは、一羽の黒鴉。私が夜へ逃げ出しても、熄まない縁からは逃げられない。
「黒曜も……来てくれたんだね」
私が曖昧に微笑めば、翼がビクッと竦む。
「私は『黒曜』じゃない。ただの鴉だ」
「ん? 」
「コイツなりに、お前の『来ないで、黒曜』という命令を掻い潜っているんだ」
翼を毛ずくろいして、黒曜は艶々した円な瞳で私を映す。
「千里に告げなくてはいけないことがある。集う妖狩人を守護するべき漣廻寺……ここは、隠世だ」
温かく巡っていた血が、凍りつくみたいだ。私達には、今も重厚な霊気が伸し掛る。結界への信頼が、変貌するのを感じた。されども、縁は血と廻る。箱罠だと自覚しても、私達は渦潮へ向かうしかない。心縛る再会が手招いているから。