第一話 ファーストキス
――――*―*―*―(挿絵)―*―*―*―――――
――*―*―*―『金木犀と千里』―*―*―*――
金木犀には、隠世という花言葉があるらしい。千里の距離からでも、その強く甘い香りで私達を誘う。死後の世界へと。
生きている私は死後の世界を知らないけれど……きっとその世界は遠いようで、近い。濃厚な闇を纏う深淵の気配は、桂花宮家の由来にもなった樹齢千年はあるという、この金木犀の木の影にも感じるのだから。
亡くした人に会えるとしたら。
その生を取り戻し、やり直すことができたのなら……私は彼を自由にしてあげられただろうか。
私は逡巡し、苔に覆われた樹に触れると、温もりがあるかのように錯覚してしまう。柔らかな苔と年月を経た樹皮は、手のひらを傷つけないから。目を閉じると、若葉色の光が樹の中を巡っているように感じた。若葉色の光は、生命力そのものだ。私達にも、それは流れている。
――私達は、若葉色の光の名を『生力』と呼ぶ。
生力は根から吸い上げられ、樹を通り、頭上に咲く小さな花達へ流れていく。風が吹き、さらに甘い香りが強くなったと思うと、若葉色の光はキラキラと地上へ降り注ぐ。
目を開けると光は、淡黄色の花吹雪で満たされた世界へ変わる。ふわりと舞い落ちる、四つの花弁の小さな金木犀の花に手を伸ばす……が、後悔し、途中で触れることを諦めた。指先に触れることなく、花は風に乗って遠くへ行ってしまった。
私は……ここからは行けない。私を必要としてくれる人達の為に、そう決めたのだから。
優しい陽光と、花吹雪の檻の中、私は自分がどこにも行けないことを痛感した。甘い香りを切り裂くように……漆黒の翼が翻る。
突然、私の前に現れたのは、漆黒の髪の男だ。男が顔を上げると、私は目を離せなくなった。
息が上手くできない。金木犀の甘い香りが、彼を隠世から導いてきたのだ、と私に錯覚させる。男の顔が浮世離れした美しさだったからだ。その背から広がる漆黒の翼は、人のものではない。
……妖だ。
厳重な結界の中なのに、どうして。だが、疑問は口に出すことはできず、私は瞠目し僅かに唇が震えただけだった。
「……思い出して欲しい」
深い夜の瞳に、私の金の瞳が反射して星芒をはじいたように見えた。いつの間にか、男の白檀の香りを感じる程に、男は近づいていた。懐かしい香りだった。憂いを帯びた睫毛の奥……黒曜石で出来ているかのような深い黒色の瞳から、焼け付くような想いが伝わってくる。
柔らかな唇同士が触れ合い、温かなものが侵入してくる。男の白檀の香りに捕らわれて……逃げられなかった。知らない感触なのに、痺れるように甘さが腹の底からジワジワと広がる。僅かに身を引くも、男が私の腰に触れていて逃げられない。
――ファーストキスだった。
唇を時々優しく噛まれて、ほんの少しの痛みは初めて知る快楽になり、甘く溶けていく。その時、瞼の裏に知らないはずの景色が見えた。
秋暁の空。すっと広げた翼のように薄い巻雲が、澄み切った高い紅掛空から金色を戴いている。空と繋がっているかのように何処までも広がる芒の草原も、淡黄色の花を満開に咲かせた金木犀の木も、金の中に薄紅を滲ませた暁光に染まっていた。頬を撫でるように柔らかな風が、暁光に染まる全てを靡かせる。
あの漆黒の髪の男が倒れた私を抱き上げて、何かを耐えるように眉を寄せている。潤んだ黒曜石の瞳は瞳孔が揺れ、暁光を受けた涙が目尻で煌めく。僅かに開いた唇は伝えるべき言葉を失ったかのようだ。震える身体から私に伝わるのは、愁傷の痛みだった。
涙をとめたくて……指先で彼の目尻に触れると、私の指先を濡らす。涙は暁光の金に輝き、私を真っ直ぐ導くように、これから進む道を真っ直ぐ指し示すようだった。
怖いけど、懐かしい光……。
そう思い、瞼を開きかけた時。
「千里!!」
よく知る少年の声に私は我に返る。藻掻くと、漆黒の男は抵抗せず私を離す。振り返ると、駆けてきた少年は息を切らして呆然と立ち尽くしていた。
幼なじみであり、私の守り人の尾白智太郎だった。妖の血を引く証である白銀の髪が、荒い呼吸で肩が上下する度、ふわふわと揺れる。少女のように繊細で整った容姿に反し、花緑青色の瞳は事態を理解すると、刺すように男を睨んだ。
その瞬間、全ての感覚が戻ってきて自分が何をしていたか、理解した。
智太郎に、口付けを見られた!
この場から消えてしまいたい衝動に駆られたが、できたのはせいぜい紅潮する顔を両手で覆うことくらいだった。私の意思であるとは言えないが、それでも羞恥は消えてくれない。
私の心配を余所に風が掠めて、破裂音が耳を劈く! 智太郎が漆黒の男に向けて銃を撃ったのだった。
「お前は誰だ」
振り返ると漆黒の男は、私と金木犀の木から離れていた。抉れた壁と立ち上る硝煙を背に、男は何も答えない。
「その黒い翼……まさか『鴉』か?」
その呼び名は私も聞いたことがあった。いつから存在しているのかは誰も知らず、半不死の命をもつ妖だ、と言う事だけが、私達が知る事実だ。やはり、黒い翼をもつ漆黒の男は妖なのか。
「千里の力が目的か」
漆黒の男は何も答えず、黒曜の瞳で静かに智太郎を見つめるだけ。苛立って、智太郎はトリガーを引きかける。
「やめて! 智太郎」
「何故止める!あいつは妖だぞ!」
そう返されて、私は吸い込んだ息ごと静止する。
ここは対妖を掲げる、妖狩人達の総本山。桂花宮家だ。
金木犀を名に掲げる家門、桂花宮家の次代当主であり、金の瞳を宿して生まれたことから『金花姫』と私は呼ばれている。
幼い頃から、人間の生命力である『生力』を膨大に持ち、自在に操る事ができた。 生力は逆に妖にとって、甘い蜜でもある為に屋敷からは、ほぼ出た事がないが、人々を妖から守る桂花宮家の使命だけは忘れたことなんてないのに。
どうして……止めたのだろう。
ふわりと、あの白檀の香りとともに、鴉の唇が私の耳元を掠める。羽のような感触が擽ったくて、身体を固くする。
「また、会いに行く」
見上げると空に浮いた漆黒の男の姿があって、私に淡く微笑んだ。
慈愛が宿るその微笑は、知らない感情を私の内から込み上げさせる。
自分が自分でないような、不思議な感覚のまま……私は男に向かって指先を伸ばしていた。
男は鳥である鴉に姿を変えて、微笑は漆黒に消える。
その黒い翼が空を翔ける為に広がったと思うと、銃弾が鴉を襲った!
「ひっ……」
私は思わず口を覆った。鴉は胴体を撃たれ、墜ちた血の海で痙攣していた。黒と赤が、私の視界に焼き付く。先程まで動いていた生き物が血に濡れる凄惨さに、身が竦む。
「なにも、殺さなくても」
「変化した時に殺す方が簡単だ」
智太郎は鴉を睨み続けている。拳銃は鴉に向けられたままだ。鴉はドロリと、輪郭を崩して溶けながら消えていった。その様子は、闇の深淵に堕ちていくようで、妖の本質に恐怖を覚えた。
「あいつは半不死だから、これくらいじゃ仕留められない……恐らくもうここには居ない。それに」
智太郎は花緑青の瞳で、こちらを射るように見つめた。私を傷つけることはないと知っていても、指先が震えた。
「誘惑……されてんなよ」
智太郎に似合わぬその一言に、忘れていた羞恥が蘇る。
「馬鹿じゃないのか、あいつらにとって得意技なんだ。人間を喰らうために」
あの不思議な懐かしい感覚、自分でないような行動は、妖の能力によるものだった?
鴉の言った言葉も、嘘なんだろうか。
黒曜の瞳が伝えてきた想い。
あれは……嘘だとは思えなかった。
無意識に私は唇に触れていた。
「……っ!」
右腕が乱暴に掴まれたと思うと、智太郎の珍しくいらついた表情がちらと見え、よく知るレモングラスの香水の香りが近づく。私の頬に触れるふわふわとした智太郎の髪の毛と、唇に触れる体温に、キスされたことに気がつき混乱した。
先程の夢の中のような感覚とは違う、ハッキリとした感覚に竦む。乱暴に腕を掴まれたのに、侵入して来た舌で歯を確かめるように優しくなぞられた。態度は乱暴なくせに、本当は優しい智太郎自身のようなキス。
私の舌に、智太郎の舌がそっと触れ、唇が離れていく。先程の表情が嘘のように、智太郎はいつものすっとした 無表情でこちらを見ていた。鋭い視線によろめいてしまいそうになる。
「な、なんで」
智太郎とは、唯の幼なじみ。そのはずだった。……お互い相手の事をどう思っているかなんて話したことは無かったけれど。
頬を染め混乱する私に、智太郎は眉を寄せて淡々と告げる。
「……消毒」
ますます理解が追いつかなかったが、もしかして鴉の毒に当てられていたのかもしれない、と辛うじて納得して押し黙る。余計な事を言って気まずくなるのも嫌だった。
「そ、そう……」
智太郎は守り人に選ばれた時から、ポーカーフェイスで、何を考えてるか分からない時があった。今も、その表情の下の心は窺い知れなかった。
「千里様! 御身はご無事ですか」
遅れて、若い男が私達の元に駆けてくる。智太郎は私の腕を自然に離していた。
「遅いぞ、竹本! 結界を強化してこい」
智太郎が告げる。
「私は大丈夫よ。約束の方はお見えになったかしら」
混乱を押し込め、私は微笑む。
今日は、来客が来る予定になっていたのだ。
私の務めを、果たす時だ。
「……ご案内致します」
複雑そうな表情を浮かべたまま、竹本と呼ばれた男が私と智太郎は客間へと案内する。
前を歩く智太郎の背中は、真っ直ぐにぶれない。あんなことがあったのに、いつもと変わらないように思える背中は少しだけ憎らしかった。
だけど私は……何も無かったように振る舞わないといけない。そうしなければ何時ものように過ごせそうにないから。
客間に入ると、恐らく親娘と思われる二人組がいた。母親は、娘の肩を抱いている。 娘は座ってこそいられるものの、明らかにその顔からは血の気が失せていた。
「お待たせいたしまして、申し訳ございません。少々トラブルがございまして。直ぐに終わりましたので問題ございません」
「あぁ……『金花姫』様……、娘のためにありがとうございます」
女は私を見ると、涙ぐんだ。 桂花宮家では珍しいことではない。どこへ行っても治らないという原因不明の病や怪我も、桂花宮家へ来ればたちまち治ると噂されている。
――それは妖の呪いだと、人々は知らない。
私は、生力を自在に操る力で、妖の呪いを解く事が出来る唯一の人間だ。
そして、『金花姫』は人々に安寧を与える微笑を浮かべて、救いの手を差し伸べなければならないと決まっている。
「とんでもないことです。それが私の役割ですから。さぁ……よく視せてください」
私は娘の首に触れる。普通に見ればぐったりしていることしか分からないが、目を閉じ、触れると娘の生力の流れの中、黒い影が腕に巣食ってるのが分かった。そこに、若葉色に光る私の生力を照らし、黒い影を晴らした。目を開けると、娘の顔色が少しずつ良くなっていっていた。
「お母様さん……痛くない……嘘みたい、お医者さんも治せないって言っていたのに」
母は涙ながらに、微笑みを浮かべる娘を抱きしめた。親娘に私は、微笑みを向ける。
「ありがとうございます。これで、彩も普通の生活ができます……金花姫様のおかげです」
親娘は何度も頭を垂れると、部屋から出ていった。
私は息を吐くと親子の居なくなった場所を見つめる。
娘は丁度私と同じ、十七歳程だった。
「普通の生活……ね」
何気なく残された言葉は、心に余韻を残していった。
私は、高校には通っていない。年齢相応の教育は受けているものの、通った中学すらも、まともに毎日は通えなかった。それも『金花姫』の務めのため。友人もいない生活は……普通の生活とは言えないだろう。
「お前だって、望めば普通に生きる事ができるはずだ」
妖の血が混ざった智太郎の花緑青の瞳は、全てを見透かしているようだ。
でも、私の答えはとっくに決まっていた。十七年間、苦しみ悩んだ結果の答えは今の私に繋がっている。
「私にしかできないことがあるから、ここに居るんだよ」
私は胸の内を燻る物を見ないように微笑む。瞳孔が揺れる智太郎は、僅かに唇を開く。だが、結局は私に何も伝えることは無く口を閉ざした。
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