第百九十八話 形代は望む
夢か、現か。判断は付かずとも、私の選ぶ道は一つだ。『首謀者』へ、大切な人達を渡す訳にはいかない。檻の外に出れぬ私が【感情視】で『首謀者』を探ろうにも、桂花宮家の呼び出しに『疑わしい彼ら』は応じなかった。烏合の宮本家当主……宮本 都峨路 も、漣廻寺住職……天瀬 櫂海も、会合の歴史ある不出席者らしい。遊戯盤の水平線上にて、私が相対する棋士の顔は見えぬままだ。
(( 冴へ見え透いた手紙を送った『顔の見えない首謀者』に咲雪が盗られるのは嫌だから、答えてあげるわ ))
止水が肢体に破られ、滴る鈴鳴の幻聴。私の夢で『人魚』を介し『首謀者』を共に感じていた冴は、花枝を咥えて檻の中に現れた。淡黄色の花枝を手にし、私へ翳す。
「寺の結界維持の為に出れないだけで、軟弱な天瀬は『人』よ。妖でもある私が確約してあげる。都峨路 さんは……放浪癖があるけど、生力由来術式を扱う以上『人』だと思う」
紫黒色の髪を纏めた銀鱗のビラ簪を揺らし、鉄格子に寄りかかった冴は美貌が恐ろしい程に陰らない。私があやす智太郎を、瑞鳳眼で捉えた。冷めた振りをしていても、噂通りに母親なのだと感じてしまう。
「私の見た夢が【異能】なら、『首謀者』は自らが化けた天瀬の姿を知っている妖ね。漣廻寺の妖と言えば……夢を喰らうという逸話の幻獣の名を持つ『獏』だったはず。冴は、漣廻寺と『獏』について何処まで知ってるの? 」
「『獏』を飼う漣廻寺は、半妖の駆け込み寺でもあるの。そのまま居着けば半妖の管理が安易になるし、擬似妖力由来術式家門からも玩具をお預け出来るって訳。咲雪のように【異能】を認められれば所持価値は高まるし、各家門もそうそう逃さないから……寺に居るのは瓦落多だけ。『獏』は漣廻寺に居着いた、有用な瓦落多に継承される妖名みたいね。夢に関する【異能】があった、初代『獏』が由来だとか」
初代『獏』。半妖だと言うのならば、妖力に耐えられない『人』の器の崩壊により、とうに死んでいるはずなのに……引っ掛かるのは【夢の異能】のせいか。
「翔星と漣廻寺にて公式に詰問した、半泣きの天瀬から面白い話が聞けたわ。間者だった『虹鱒の半妖の男』と妹が、『獏』の妖名を継いでいたの。亀甲竹の林の民家は漣廻寺所有で、兄妹は結界で保護されていた。天瀬が預かり知らぬ間者として、虹鱒の半妖男が咲雪の前に現れるまではね。……幽霊が、咲雪に『首謀者』の夢を視せたと思う? 」
虹鱒の半妖男は、死に際に『和』という妹の真名を口にした。『首謀者』たる『原初の妖』と妹の余命に関する交渉をした男が、私の【感情視】を前に自決した理由……それは、妹の生存を秘す為でもあったのではないだろうか?
「死んでいたら【異能】は使えない。私の夢に入り込んだ『首謀者』が『生き永らえた半妖』を連れて、生きているのでしょう」
「私も、生存の可能性を肯定するわ。虹鱒の半妖女は【透明】の異能があったらしいから、『蝶』の間引きの日まで『首謀者』と身を隠しているのかもね。……ただ、私達は『蝶狩り』に参戦出来ない。『蝶』に妖力を喰われたら、死ぬのは妖達の方だから」
冴は弄んでいた金木犀を、花瓶に挿す。淡黄色の彩りが檻の中に齎され……私は気づく。『蝶』の群れを狩れるのは、『生力由来術式』を使える者だけ。私達と同じく妖であり、『蝶狩り』に参戦出来ないはずの『首謀者』らは、『蝶』が狩り尽くされた後に『秘ノ得物』を狙って現れるのだろうか……。青ノ巫女姫を利用するにしても、妖狩人達と戦いながら『蝶の間引き』を『滅絶』に変えるには、戦力不足と言える。強力な駒でも居るのか……?
「歩き始めるのなんて、あっという間よ」
冴の言葉通りだった。『蝶狩り』は刻限へ歩を進め、花瓶の彩りは瞬きで変わっていく。ヨタヨタと、覚束無く立ち上がった頃が嘘のように、二歳になった智太郎は白銀の猫耳を顕現し、小さな足で走った。智太郎がじゃれつく紋白蝶に、無駄な杞憂をしてしまった。檻の中に迷い込んだ蝶は、妖達も、薄紅色の桜も吸蜜しないのに。上機嫌に跳ねた智太郎は、渉の脚にしがみつくと……『白い菊の練り切り』を差し出される。まぁるい花緑青色の目を輝かせ、両の手で受け取る姿に、私は柔い安堵を覚えた。
「智太郎も自分の一番を見極めて、守ると誓える日が来るといいな」
笑みを綻ばせた渉はしゃがみ、練り切りを幸せそうに頬張る智太郎の頭を撫でた。
安寧の裏。訪れた『蝶狩り』の決行日に、私は恐れを呑めないでいた。『首謀者』が欲する千里を守る為に、翔星からなる一部の妖狩人達は桂花宮家を離れられない。『首謀者』は、同じ『原初の妖』に化す者として、幼い内に千里を懐柔したいのだろう。千里を欲するまでに至ったのは、大半の妖狩人に秘した事実を【異能】で知り得たとしか考えられなかった。しかし、『秘ノ得物』を欲する理由は未だに不明だ。千里を欲する理由と関わりがあるはずだと、私は推測するしかない。
私の大切な存在を賭けよと『首謀者』が告げたからには、智太郎も危うい。それは渉も同じなのに、『蝶狩り』は誘う。『蝶』を狩れる妖狩人が限られる中、渉の『後継の白虎ノ三節棍』には……虎落笛で妖の意識を麻痺させられる有力な術式が込められているから。
「猟犬にはならないって言ったくせに……渉は私に嘘を吐いたのね」
「嘘吐きと罵られても、俺の選択は変わらない。『後継の白虎ノ三節棍』では、そばで咲雪と智太郎を守れないんだ。『家族』を脅かす敵が存在するならば、平穏を願う俺は憎み抗い続ける。……咲雪を守ると、秋陽さんとも約束したから」
素直に見送るには、血塗れた姿が烙印の如く脳裏に焼き付きすぎていた。土気色の顏で苦く微笑し、私の頬に触れた渉が忘れられない。眼前の渉が蒼黒の鵲眼に強い光輝を宿していても、占い師の戯言は、私の星を指したのだ。
「必ず帰って来れるという保証が無いじゃない! 亀甲竹の林の時みたいに、渉が深手を負う可能性がある限り、私は大人しく待てない」
「あの時とは違う。翔星は同行出来ないが、俺以外の妖狩人も『蝶狩り』の桜丘へ出立するんだ。今度こそ、『首謀者』の首を狩ると息巻く尾白 隆元もな。咲雪は、智太郎のそばに居て欲しい。智太郎を抱き守る咲雪を、俺が守るから。……うたた寝する時は、いつもそうだっただろ? 」
その言葉に、私達を不安そうに見上げる智太郎に気づく。平静を演じないといけないのに、上手く笑えない私は小さな身体を抱きしめる事しか出来なかった。了承とみた渉は、安堵に微笑する。差し出された白札を大人しく受け取る事が、私の正しい道なのだろうか。
「『生力由来術式』を込めた、形代の札を渡しておく。万が一、桂花宮家で何かあった場合に使って欲しい」
「半妖の私でも、『生力由来術式』を使えるの? 」
「既に生力が込められている術式だから、可能だ。戦闘には心許ないかもしれないが。自分の生力を込めるのはやめた方がいい。半妖は、生力が減り妖側に傾く。人の器の崩壊が早まるし、妖力が術式と反発し、危険な誤作動を起こす時もある。実質、半妖の生力では使えないのと同様なんだ。死を覚悟してまで、己の『生力由来術式』を使う半妖なんて居ないだろ」
――逆を言えば、死を覚悟した半妖なら、己の『生力由来術式』で『蝶』と『妖狩人』を狩れるという事だ!
智太郎の頭を撫で、私は立ち上がる。沸騰する血が鍛刀の如く心臓を打つのに、私は冷静だ。私達を脅かすであろう、強力な駒の正体に気づいたから。
「渉に強請りたいの。『後継の白虎ノ三節棍』を……『首謀者』の配下に降る私に渡して」
白札は、渉の掌から滑り落ちた。『首謀者』に形代として拭い付けられた疑心暗鬼ごと、呑み込んでやる! 言葉を失った渉の胸倉を両手で掴み吼えるのが、私の運命に対する抵抗だ!
「渉が危険に晒されるくらいなら、私が向こう側に行くって言ってるの! 何故『首謀者』は二年待ってまで、『秘ノ得物』を使う妖狩人達を一度に狩る機会を得たんだと思う? 複数回の狩りが出来ない死に往く駒が、一度だけの強力な一手を打てるからよ! ……同じ半妖だからこそ、分かったの。大切な人の為に、彼女が駒に成った理由が」
彼女の大切な兄は死んだのに、私の大切な渉は生きている。彼女の『蝶狩り』は……兄を【感情視】で間接的に殺した私に対する復讐だ。
荒い息を吐き、渉は私を強く抱き寄せた。骨身に食い込む力が嬉しいのに、肌を掠める柳煤竹色の髪の柔さは幻のようで、愛しい静謐な香は解けてしまいそうだ。私を『人の世』に繋ぎ止めた、渉の体温に溺れていたいのに。
「尚更、その我儘は聞けないな。咲雪自身の為でなければ、俺の得物は渡せない」
永久に離したくないと、互いに願ったはずの刹那。温もりからの解放に裏切られる。渉は檻の外へ身を滑り込ませ、鉄格子は秒の差で閉ざされた! 鉄格子にしがみつけば、指先へ花緑青の陽炎の呪いが再燃する!
「私を……私達を置いて行かないで。 貴方は父親なのよ! 」
「父親らしく、咲雪と智太郎を守りたくなったんだ。俺が帰るのを、信じて待っていて欲しい。もう咲雪を……俺のせいで危険に晒したくないんだ! 」
地上への扉開かれ、花信風舞い込んだ玉響の時。全てを忘却させる程に、溢れんばかりの薄紅桜が春陽にて眩惑する。振り返らない渉を留める為の、私の息が継げない。
――お前が賭けるのは、大切な存在だ。
夢で聞いた『首謀者』の声が、私の運命を選択した気がした。永久にも思える程に己を憎んでも、燃えて血が滲む指先は鉄格子を開けなかった。発った渉を遊戯の捨て駒にさせたくないのに、『秋陽』の夢は殺せない。
「……お、かぁさん…… 」
袖を引かれ、我に返る。べそをかく智太郎が握るのは、私が受け取れなかった白札だった。
「まもるって、おとうさんとやくそくしたから」
小さな身体に抱きしめられ、私は今『守られて』いる事を知る。私より弱いくせに、何を言ってるのか……泣きたいのか、笑いたいのか、分からないけど、擽ったい。抱きしめ返せば、ほのかな燈が胸に宿る。
「私も智太郎を守るって、渉と約束したの。守るべき約束を交わした『お父さん』を……迎えに行かなくちゃね」
白札へ触れた瞬間、雪花弾けた形代は檻の外で花緑青の瞳を開眼した。白札が寄り集まり顕現したのは、感覚を繋ぐ『白魔ノ虎』! まだだ。死をも受容する彼女の覚悟には覚悟を返さねば、白虎の足が地を蹴れない!
己の生力を吸い込み増した白虎は、花緑青色の皹がはしった咲雪を残し、桜花爛漫の地上へと駆け抜けた。




