第百九十話 犀利なる隠し爪
私が幹に触れた金木犀は、対である金銀の雪華の髪留めに似ている。白い花を咲かす銀木犀と『初恋の双子』のように、淡黄色の四弁花を咲かせる。現代になり薄黄木犀と名を変えたが、古から『金木犀』と呼ばれ続けていたのは、現代では月並みの橙色の花では無い。今も妖狩人達が『金木犀』と呼ぶ、淡黄色の花だ。
古来『金』と『銀』とされた花の色は『黄』と『白』であり、目の前の『金木犀』は月を染めたと伝承される淡黄色である。『桂花宮家』の鬼門を守護する金木犀の幹の柔い苔に爪を立てて剥がせば、犀利なる樹皮が露れるのだろう。
「鴉。私はあと、どのくらいで死ぬの?」
しなやかな漆黒の翼は、散華を乱す。ほろほろとした金の甜香は、一時だけ。白檀の香で薫染させられた。
「咲雪の内には、生力で構成された身体を緩慢に沈める妖力の奈落が視えた。泥濘に足を取られていられる内が、花だ」
「奈落への落花と消失は、歩む私次第という訳ね。激情伴う妖力の解放は、身を滅ぼす時を早める。秋陽と自分の為にも、干渉を遮断して心を凍らせて……私は静かな檻の中の安寧に身を任せるべきで。その為に、対価だって捧げた。それなのに、何故私は……陽を諦められないの? 」
金木犀の向こうから、二人の気配が近づく。私を密かに見守る鴉は答える前に、飛び去った。
――御空色のセーラーカラーを、少女の鶯色の髪筋が金風で撫でる。
秋陽は私を置いて、高校生になった。『桂花宮家』の妖になった私は揃いの制服をもう着られないのに、秋陽は会いに来るのを諦めないのだ。隣を歩む翔星は、威勢がいい部外者の彼女を追い返す事が出来ず困惑していたくせに……最近、正治に案内役を命じられてからは妙に大人しくなってしまった。
私を救済した秋陽は、何かを告げた翔星へはにかむ。睫毛を伏せた秋陽の不得手な微笑は、鋭い鼓動をじくじくと恨ませた。
「あ、咲雪! 」
顔を上げた秋陽は、見慣れた微笑を嬉しそうに浮かべていて……隠蔽した私の穢れになんか気づかない。柔い彼女の慈悲に爪を立てて、醜い私の死期の事実で――犀利に傷つけたくなる。凶器の衝動を自覚した私の足が、無意識に陽から逃げようと後ろへ下がった時……私の背に、そっと誰かが触れた。
「秋陽さん。せっかく会いに来て貰って悪いけど……先客がいてね。咲雪は借りていくよ。翔星も手間を取らせて悪いね」
「俺は構わないが……また急な来客だな」
翔星と話す、山霧のような声に振り向けば……柳煤竹色のふわふわとした髪の男。ほんのりと微笑む渉は、鵲の翼のように緩やかな二重の鵲眼で一瞥を返した。
「そう……ですか。なら、待ってます。良いでしょ、咲雪? 」
秋陽の隠せない寂しさに刺された私は、手を伸ばさなかった事を後悔した。咬み殺すべきは、混沌の思慕だ。
「……期待しないで、待ってて」
頷く秋陽に後ろ髪を引かれながら、私は渉の後に続く。この一年程で、渉の俯かない背中にも慣れた気がする。この男は、陽を諦めきれない私の檻の代わりだ。正治が命じた、私の監視役。妖の私が自分を支配出来なくなったら……直ちに首を刎ねる為に、私の傍を歩く。私が交渉で得た対価は、渉だと言えるだろう。
「咲雪は、秋陽さんに何も伝えない気なのか? 躊躇うことが出来るのも、生きていられる時だけだ」
チリ、と焦がされた苦い心髄を無視して、渉の背中を睨む。
「そんな無駄話をする為に、私を秋陽から引き離したの? 随分お節介な監視役なのね」
「先客は本当だ。何も知らずに遺された秋陽さんが泣けば……傷つくのは君だろう」
「馬鹿ね。死んだら何も感じられないし、遺らないでしょ」
「違うな。散華は、感傷的な散り際の余韻を未来に遺す事が出来る。誰かに波紋を遺せるはずだ。……君も俺も」
小さな好奇心が口をついて出ようとした時……渉は辿り着いた、地下への戸に触れた。古い蔵戸に酷似した入口が開けば、冷たく湿った空気が足へ重く纏わりつく。暗い階段を降りれば、私の客が待っている。
「珍しいですね。父上がいらっしゃるとは」
渉は淡々と告げた。地下牢の前で腕を組み、私達を睨むのは尾白 隆元。潔癖そうな五十路の男は、この場に居る事自体が不快で耐え難いといった様子だ。
私の【異能】を使うのは、主である正治だけでは無い。正治への依頼を介して、私を使用する家門の当主達も同様だ。今日は、常連の竜口 冴では無いらしい。
「まさか『感情視ノ白魔』を使う派目になろうとはな。尾白家の『秘ノ得物』を狙った、忌まわしい盗っ人のせいだ。主の家門を吐かせるまでは、安心できん」
私の異称を忌々しく口にした隆元は、牢の中に捕縛された男を睨む。『秘ノ得物』とは、生力由来術式家門の根源を示した言葉だったはず。擬似妖力由来術式家門の根源は『封印された妖』だという噂があるが……妖力を術式に取り入れない、生力由来術式家門の根源は得物……つまり、『生力由来術式武器』なのか。
「まさか、我が家門まで狙われていたのですか。近頃、生力由来術式家門への進入者が複数人拘束後、処罰されたとは聞きましたが……」
渉は呆然と、隆元の視線の先を捉えた。既に拷問の跡がある男の肌には、鱗。私と同じ半妖か。妖力の限界なのか、傷の治りが遅い。私の真の客は隆元では無く、檻へ近寄った私を胡乱に睨め付ける二十路の彼である。
「私は躾が良くてね。同族だからって、同情する気は無いの」
「小娘何ぞに、何が出来る。去ね」
私の足元に唾を吐くとは、まだ生き生きと元気なようだ。なら、手加減は無用か。私が花緑青の双眸を爛々と光らせれば、血筋の濃さに気づいた鱗の男は息を呑む。同じ半妖でも、私が継いだ根源の貴さは男とは比にならない。
【沢に泳ぐ、赤橙黄緑青藍紫を尊ぶ。二つの和竿の鉤素は絡むか、否か】
「貴方には、笑窪が似合う妹が居る。亀甲竹の林の奥、数寄屋造りの三つ屋根の民家で貴方を待っている。主と約束したのね……大切な妹の余命を伸ばす方法を探すと。まぁ調べれば、私達が彼女を拘束するのなんて簡単だけど。貴方の主は……」
まだ浅い。さらに深く視ようとした時、鱗の男は暗く自嘲した。
「もう遅い。和は、去年の冬に死んだ。感情は、俺が最後に見た夢だ。従順な白魔の猫め、原初様に滅殺されろ! 」
私の気が違和感で逸らされた、一瞬の隙! 男は肩袖を噛み破り、忍ばせていた毒を服む! 詰問の為に、轡を噛ませなかったのが仇になったか!
吐血した虹鱒の半妖の男は七色の妖力に解け……消失した。着物と僅かな光の残滓だけが、遺る。こんなに、呆気なく半妖の『死』は終わるのか。悴んだ指先で、鉄格子を掴む自分に気がついた。
「主は人じゃないの……? 」
「なら、主は妖だと? 有り得ない。何故、生力由来術式を使用出来ない妖が『秘ノ得物』を狙うのだ」
隆元は苦々しく一刀両断したが……沈黙した私達の疑念は膨れ上がる。私が知る『原初の妖』は、鴉に炎陽。そして、亡き珠翠だけだ。妖狩人家門を裏から再興させた鴉に、人を招く以外は、人への干渉を断ってきた『隠世』の内の二人だ。そもそも彼らはこんなやり方をする必要も、目的も無いが……。
「『隠世』の妖が主で、妖狩人を弱体化させることが目的なのか……死に際の戯言か。『隠世』の妖との内通を疑うならば、やはり妖を使役する家門でしょうか。鱗が生えた半妖とは、『人魚』を使役する『竜口家』との関連を疑いますが」
がらんどうな檻の中を睨む渉に、隆元は溜息を返す。
「『伊月家』が使役する『大蛇』も鱗はあるだろうが、男の血筋だけでは属する家門を絞れまい。『獏』は中国の獏伝説通りの姿とは限らないが……『漣廻寺』も疑うべきだろう。烏合の衆である『宮本家』も素性が知れん」
「きりがないわね」
「一番疑わしいのは、咲雪だ。『隠世』との繋がりは、ほぼ確定事項だろう」
「成程、隆元は私の様子見ついでに来た訳ね。だけど私を疑う事は、主である正治への疑念も同義。大好きな正治に嫌われちゃうわよ? 」
息子の渉を正治の付き人に推薦したのは、『尾白家』当主である隆元自身だと聞いた。同じ生力由来術式家門として、『桂花宮家』当主との良好な関係を他家門に誇示しておきたいはず。それなのに渉は目障りな妖である私の監視役になってしまったのだから、隆元が内心不満たらたらなのは予想がついていた。
「穢らわしい妖がっ! 正治様の名を口にした挙句、盾にするとは、やはり不快だ! 『秘ノ得物』を狙う盗っ人の主の名を吐かすことすら出来ない『感情視ノ白魔』など、二度と使わん! 私自ら生力由来術式家門の警護を指揮し、新たな盗っ人を炙り出してやる!」
「感情を深く視れなくて悪かったわ、頑張ってね」
予想通りに隆元は、微笑する私を射殺さんばかりにひと睨みすると、地下牢を後にした。崇拝する正治へ、私の告げ口ついでに各家門の警護の許可でも得に行くのだろう。
「貴方の父親、面白いほど素直ね。自作自演だった可能性は、全く無い」
「まさか、あの父上を手玉に取るとは! 咲雪は完全に目の敵にされてしまったな! 」
我慢ならずに腹を抱えて笑いだした渉に、私は呆れる。
「貴方は、父親の面子を保とうという努力は皆無なの? 」
「何故俺が、父上の面子を気にする必要がある? 親子といえど、所詮他人だろう」
顔を上げれば、嘲笑う渉の鵲眼は曇った光を帯びる。何故、そんな顔をするの。
「親子は……他人なんかじゃない」
「なら咲雪は? どんな親から、何を与えられたんだ」
理想の建前など、否応に崩壊する。私を喰い殺しかけた炎陽に、私を忘れた芽衣。幼い頃に描いた、しわくちゃな『家族』の絵を手探りで探してる。絵を拾ってくれた珠翠は、最早言葉を交わすことすら叶わず。
「与えられた、と言えるのかどうか。白黒の絶望で染色された私の手には、喪った『家族』への手向けの花束以外何も残っていない。それでも『家族』じゃなかったら恨まなかったし、愛せなかった。渉はどうなの」
「与えられたのは、望まぬ鍛錬ばかりだ。俺は、父上に『桂花宮家』へ売られたんだ。棘を削がれ、良く研磨された奉納品だろ? 誰が好き好んで、妖狩人なんぞになるものか。……いつ散るとも知れぬのに」
凍えた華奢な手首を睨み付けられ、臆病者の肺は凝固したか。焼け付く掌で掴まれて、引き寄せられても動けなかった。見下ろす渉は私を憎悪するかの如く、蒼黒の鵲眼に強い流星痕を引いたから。
「儚い命が君だけの物だと思ったら、大間違いだ。自由な妖のくせに、他人の為にお綺麗な身売りまでして。もっと必死に、自分の為に生汚く足掻けよ! 」
私はようやく息を継いだ。こんなにも『生きて』いる人は、強く綺麗なのか。手首の骨を締め付ける灼熱は、私に脈を与えて打たせる。
「何それ……私を殺すはずの貴方が、私に死んで欲しく無いみたいじゃない。同情、してくれていたの? 」
「誰が……妖なんかに……」
やはり親子だな。そう思わせるのに、顔を顰めた渉は消えかけた声音の先を優しく解いて紡げない。呪わしい血脈に研磨された、磨り硝子の小石を見つけた。割って陽に透かし、取り戻した鋭利で、この高鳴る心臓を突き刺して!
「それって、矛盾してる。貴方は、化け物の私に『同種』を見てるのに。貴方の中の私は……『人』だった? 」
『妖』の体温を殺さずに、温かい『人』の体温に呼応していたいの。 掴まれた手首ごと衝動的に引き寄せて、瞠目する渉の胸に縋った私は……ずっと凍えていたみたいだ。私を突き放さない渉の吐息に、安堵した。
「儚いのに、咲雪は柔くて温かいんだな。……認めるよ。咲雪が、ただの妖だったら良かったと思ってる。そうであれば、この肌の下の『人』の君に気づかなくて済んだ」
「渉は、血脈に溺れたりしない。ちゃんと自分の歩幅で、向こう岸まで歩ける人だと思う」
「咲雪が居てくれるなら、自分の意思で渉れるかもしれない。あんな事を言っておきながら、生き汚く足掻けなかったのは、俺の方なんだ。生きる為に殺したくないなんて……妖に弱音を吐くなんて、俺はどうかしてる」
渉が背に触れて応えた灼熱の掌に、静寂の山間のような香りに、重なった鼓動に……乾いた冀求の杯が満たされていく。蘇る体温を恨まなかったのは、妖を認めたのは初めてだ。
――私は、酔いしれる『初恋』を自覚した。




