第百八十六話 飯屑の視る夢
私はただいまとは言わない。自分を惨めにするだけだから。苛立ちをカウントする切れかけの白熱電球を割って、小蝿を焼尽してしまいたい。
この家に染み付いた饐えた匂いは、疲れた私から『人』の色彩を剥いでしまう。私の長い髪は黒紅色を取り上げられ、目障りな白銀へと化す。望まずとも猫の耳は母の息遣いを拾い、尾は嫌な予感に鞭を打つ。
ようやく顔を上げた芽衣は、病的な程に痩せているくせに双眸は強すぎる光を宿して私を捉えた。
ああ……まただ。私の白い太陽の根源は、獣が唸るように痙攣する。巣食う怯えを、虚勢で喰らっているだけだ。彼女は、娘を見ていない。
「……炎陽?」
私は耳を掠めた小蝿に我慢出来ず、白熱電球を花緑青の陽炎で溶かして牙を剥く! 嫌い嫌い嫌い。電球が弾けた火花と視界を狂わせる生温い闇も、ベタつく執着も!
「いい加減にして! 私は父親じゃない! 芽衣は、炎陽から逃げ出した餌でしょ! 」
埜上芽衣。彼女は、炎陽の異能【魅了】によって『隠世 猫屋敷』へ迷い込まされた餌だった。芽衣は【魅了】によって心も身体も犯され、血肉を喰らう天敵の妖を愛してると思い込むことで自らを守ってきたのだ。炎陽にとっては、後妻ですらなかったはずだ。気に入りの人の一人にか過ぎなかったのだろう。
炎陽が『愛のある普通の父親』であると思い込まされていた私が喰われる直前になって、ようやく芽衣は我を取り戻したと思ったのに。共に逃げ出し、『隠世 猫屋敷』から『人の世』へ帰ってきたはずの芽衣はおかしくなってしまった。暗い部屋の中。【魅了】に焼かれ、緋色の業火を宿す双眸が爛々と私を捉える。
「私を迎えに来てくれたんでしょ。待ってたよ、炎陽」
餌になった、飯屑の顛末がこれか。喰われぬ廃棄品は、腐る前の夢を見る。さっさと土に還れば、皆幸せなのに。嗅覚を封じたくて、私は口を空に開け息をする。
「また食べてくれるの? 」
目敏く微笑する彼女の言葉に胃を混ぜられて、吐き気がする。いっそ、異端の私が子宮にいた時に芽衣を食い破っていれば……こんなに残酷な生を味わう事は無かったのに。殺してあげればよかった。
娘だと分からないくせに、私が飢えていることを彼女は知っている。口での呼吸を手放し。嗅覚は饐えた不快の中……小さく香っていた甘い香りを正解にとらえた。乾いた血が爪の隙間に入り込んでいる。私の居ぬ間、芽衣は自らの首を掻きむしっていた。炎陽の牙の感触を、再現しようとしたのだと理解した瞬間。
――喉が鳴った。
いっそ、芽衣を隠世へ返してしまえばいい。そうすれば、彼女の願いも叶うし私も不快に胃を焼かれずに済む。それなのに……私はまた『炎陽』の振りをする。私には芽衣が必要だから。
「いいよ。食べてあげる」
私は誘惑的に微笑する。きっと今の私は炎陽と瓜二つなんだろう。芽衣は願いが叶ったように笑みを返したから。彼女は廃棄品なんかにさせない。まだ芽衣は食べれる。生きているのだから!
おぞましい体温は血流を、火口を目指す岩漿のように迫り上がる。そのまま頭を真っ白にしてしまえ。今の私は炎陽だ。咲雪じゃない! 炎陽を演じきるならば、欲に焼け付く牙に逆らうな!
白皙の肉を穿ち、舌にもたらされるのは零れんばかりの甘露。強烈な血の閃光で脊髄は覚醒するのに、腹を満たされた『私』がどろりと溶けてしまう。
痩せこけた母の背を縋るように抱くと、あまりにも軽い。零れたはずの『私』が寄せ集められて、現実に再構築されていく……冷えた肌を粟立てる恐怖で。
「……お母さん」
牙を離しても、芽衣は答えない。消えかけの母は、虚ろの番の愛に飢えるあまり……目の前の咲雪をも道ずれにしようとする。母が消える時、娘もまた消えるんだ。
「芽衣」
だから私は、母の名を呼んだ。
多分、私はまだ消えたくないのだ……。
腐ってがらんどうなはずの私は、まだ希望を失っていない事を自覚する。何故だろうと、答えを見つける為に私は瞼を閉ざす。骸の絶望が折り重なる内……淡い黄色の光芒が見えた気がした。
――そうか。私の光は、秋陽。
まだ生きることを諦められない。私には彼女が居るのだから。
私は眠りへ落ちた母を横たえ、膝を抱えて朝を待つ。薄いカーテンから朝日が差し始めたら、この家を出よう。秋陽に会う為に、少しでも早く学校へ向かいたい。
決意を込めて、カーテンを睨んでいたはずなのに。うつらうつらと船を漕ぐ自分に気がつく。朝日はもう差し込んでいた。散乱する酷い部屋を晒され、自らの穢れを洗い流す必要に結びつく。ぬるいシャワーを虚ろに浴び、母の眠る部屋へ戻ると……何かが空っぽな自分が居た。
なんだろう、自分でも分からない。立ち上る湯気と共に魂でも抜かれてしまったか?
静かに眠る母は憑き物が落ちたように、安らいで見えた。いつもこんな風に穏やかでいてくれたら、普通の母娘としての幸せを味わえたのに。私は芽衣の前髪を払ってやると……踵を翻した。秋陽と揃いの制服を纏った私は、穢れた家の戸を静かに閉める。ひっそりと鞄の中から取り出した『雪華のバレッタ』を髪に留めて、人の色彩に髪と双眸を染めた。
私を浄化してくれるような静寂の早朝の中、蘇る日差しを浴びた。誰もいない道は、心地良いようで空虚。こんな絵本の世界があったら、私は彷徨い続けてもいい。




