第百七十二話 内から揺るがす
―_-◆_+★_*+-【 千里 目線 】-+*_★+_◆-_―
突き刺すような耳鳴りの合図で、薄紫の春夕の空は乱れる。黒曜の掌を離した私は、動揺を必死に打ち消すように両手を組んで祈った。深呼吸して、落ち着かなくちゃ。ただ、訪問者がノックをしただけだ。この『春夕の隠世』は、私の心象風景に左右される。まずは誰が隠世の結界に触れたのか、確認しなくては。
「千里……ごめんなさい」
翼の耳に届いた声に、瞼を閉ざした私は隠世の結界を感覚する。鏡のように反射する結界に触れたのは、琥珀色の猫耳を伏せて罪悪感を隠せない翠音一人だけだった。春風に靡く紅の面紗の奥……翡翠の双眸で、鏡の結界越しに私を見つめる。智太郎達はどこに居るのだろう。
「翠音は智太郎達の仲間になったのではないの?」
「私は貴方の『友人』であって、彼らと同じ『共謀者』ではありません。私は千里への謝罪に来たのです」
「翠音がまだ私の『友人』なら、私に謝罪したいと言うのは矛盾ではないの? 」
密かに警戒しながら、私は翠音との会話を続ける事にした。智太郎達が隙を狙っても、私の隣には黒曜が居る。感覚を隠世の結界に集中させていても、彼が守ってくれるはずだ。
「私は貴方の『友人』だからこそ、真実を告げに来たのです。私の穢れた愛の中には、家族愛も入り混じっていた事を。私が珠翠を演じていたのは、『家族』という至宝を守る為でもあったのです」
「私が翡翠の遺骨に触れて視た、過去夢の中の珠翠が探せと告げた至宝とは……貴方達『家族』の事だったのね」
翠音が珠翠を『かあさま』と呼び始めた事に気がつく。猫屋敷の暗い廊下で私を捕らえた『紅の花嫁』は、鮮やかな狂気を淡く変えていた。私がまだ知らぬ親愛の名を、瞬きに編まれた繊細さに透かす。
「珠翠が、『家族』を探せと告げたのですか。ならば、それはきっと私達家族自身が引き寄せなければならないものです。私は炎陽様に会って、お伝えしなければならない事があるのです。どうか、私を貴方の隠世に入れては下さいませんか? 」
翠音に共感し、頷きそうになる自分を諭す。炎陽を捕らえたのは翠音の為でもあったが、今の彼女には信頼が欠けている。
「……駄目。翠音を許した瞬間に、智太郎達も隠世に引き入れる気なんでしょ。私は炎陽の根源を智太郎に奪われる訳にはいかない。翠音も炎陽を守りたいから、智太郎達を捕らえようとしたのでしょう? 貴方は自分自身が守りたい者を、もう一度自覚すべきだわ」
「私が炎陽様を守り続ける意思は変わりません。千里の方こそ、妖となってまで守り続けたい者を自覚していますか? 『友人』の貴方が守護を放擲するならば、私は炎陽様を脅かす敵である彼を……葬ります」
猫耳を立てた翠音は唸るように、『折紙影絵』で纏う陰影を濃く一変させる。翡翠の双眸に宿るは緋色の業火では無く、艶めく針の猫目効果! 智太郎の居場所を知らぬ今の私は、彼を守れない!
「やめて翠音っ! 私は味方で在り続ける約束を裏切ってまで、智太郎を守る為に罪悪感と生きているの! 」
「言いましたね? 」
悪戯が上手くいった子供のように暗く微笑する翠音に、私は肺が凍りつく。
「結界など彼には障壁になりません。隠世は主が守りたい者の為に作り出す防壁でもあると、千里は無自覚なのでしょうか」
スッと体温の波が引いていくに伴い、翠音を映す鏡の結界から、私は紫電の鳥籠に座る現実の感覚に還る。
「目を開けろ、千里!」
黒曜の叫びと同時に瞼を開いた眼下には、焦がれるような苦い予感が無抵抗に顕現していた。繋がる呪いが、私の鼓動を叩く。
――柔らかな白銀の髪は檸檬茅の香りがすると、私は知っている。秋に息づく金の稲穂から繋ぐ尾花色の着物は、己穂が死に別れた『雪』が好きだった色。前世の少女の風貌を受け継いだ智太郎は、雪華の睫毛で春陽を散らした。花緑青の瞳で、流星痕のように貫く『荒削りの愛』を千里は拒絶できないんだ。
「待ちくたびれたぞ。もう一人の俺」
「根源を介した炎陽の提案に乗ってやる。だから、智太郎の願いを叶えろ」
「対価は元に戻るまで。それ以上は有料だ」
紫電の鳥籠に閉じ込められた炎陽が先程まで瞼を閉ざしていたのは、根源を介して智太郎に取引を持ちかけていたからか! 私は苦く顔を顰めた。
「自らを解放させ、智太郎に刺さる私の紫電の針を抜く気なの!? そんなの、許すわけが無いでしょう! 」
「珠翠を追いかけろ、と濡羽姫は炎陽に告げたが。ならお前はどうなんだ? 追いかけられる為に、立ち止まった事はあるのか」
鳥籠の中のくせに、炎陽は王者の品格を失うことなく嘲る。まるで私が追いかけられたいと願っているような言い分だ。掠めた衝動への怒りは放電となり、紫電の鳥籠を伝う!
「猫は、言葉遊びで私を惑乱させたいのね。 忌まわしい水から逃げたいからって、ただの人である智太郎に縋るくらい判断力が無くなってしまったの? 原初の妖二人を智太郎が相手にした結果なんて、目に見えてるでしょ」
眼下の智太郎は鮮やかに嘲笑う。妙な自信だ、と思う。私の知る智太郎は、無謀な勝負はしないはずなのに。
「何も出来ないと、高い所から俺達を見下していればいい。その奢りが隙を生むんだ。……それと、見えてんぞ。真下の炎陽にとっちゃ、いい目の保養だろうな」
理解した瞬間、羞恥に襲撃された私はバッと着物の裾を抑える! まさかマサカまさかっ!? フリルの裾は確かにいつもより短いけどっ! 膝下だよっ!? 私が赤顔で懇願するように見つめた瞬間……智太郎は無表情で、ちらりと舌を出す。悪戯な牙を覗かせて。
「ウソ」
「……最低……」
なんという、乙女的屈辱ッ……×☆Σ(・#★※!?
「挑発して、隙を粗探しする気か。智太郎が妖に戻るつもりならば、最早傍観すら必要ない! この黒曜が憎悪の火種となり、引導を渡してやる! 」
「駄目っ! 智太郎を殺さないで、黒曜! 」
黒い焔を顕現させた黒曜へ衝動的に命令した途端、私を捉える花緑青の瞳が緋色に染まる! 智太郎が、囚われの炎陽の『魅了』を複製したのだと気がついた時には既に遅い!
智太郎の眼差しに吸い込まれた一瞬の恐怖は、魂の鼓動を優しく撫でられる快楽に溶けた。壊れないように、そっと触れてくれる躊躇いが柔くて好きだ。緋色の業火に呑まれても、温かくて茫洋とする私が雛鳥だったのだと教えてくれるから怖くない。張り詰めていた緊張が馬鹿らしい。幼なじみよりも近しい私達は、どれほど離れていたのだっけ。たった一季節にも満たない別離だったのにな。
智太郎が微笑する切なさに束縛された私は――魅了されてしまった。
「鳥籠を壊そう。閉じ込められるのが嫌いなのは、千里の方だろ? 解放される瞬間の自由を一緒に見たくないか」
「一緒に……? 」
膜の向こうで理性が警鐘を鳴らすのに、その言葉はあまりに魅力的だった。微笑する智太郎は、まだ私の目の前で生きている。罪も約束も何もかも忘れて、一緒に過ごす時間の続きを選べたらいいのに……幻想でもいいから。
私が見たい幻想は『薄紫の春夕』でもなければ、『紫電の鳥籠』でも無い。手を伸ばす智太郎に、もう一度触れる事だ。否定された幻想は、薄紫の空ごと罅割れる。殻を内側から破壊するように解放された己穂の過去夢とは、似ているようで違う。
だって……今は未来に繋がっているから。可能性はまだ潰えていない。
紫電の鳥籠ごと弾けた私の世界は、再び曖昧な蒼穹と繋がった。




