第百六十九話 影、至宝に淋漓す
――*―*―*―〖 紅音目線 〗―*―*―*――
私は影沼の底に沈んでいく。遠ざかる水面は、波紋の中に智太郎達の姿と声を鈍く反響していた。暗い海底に沈んでいく泡沫の人魚姫になったかのようで、地上の出来事は何処か他人事みたいだ。それでも自らの紅色の髪が指し示すように揺蕩う、地上の光へ手を伸ばす。
「翠音は、どうして私と違うの? 」
私達双子は、乖離した。私は姉のはずなのに、戦う度に翠音の気持ちが分からなくなってしまった。翠音だって、私と同じように炎陽に身も心も引き裂かれたはずなのに……『憎悪』を抱く私とは違う『愛』という感情を炎陽へ抱いた。
「紅音と私は元々別な存在です。全く同じ姿と心であったなら、貴方を殺そうとする必要さえ無かった」
沈みゆく先を見下ろすと、紅色の袖と面紗を金魚のように靡かせた翠音が居た。猫耳を伏せて琥珀色の短髪を僅かに揺らした、澄まし顔の彼女は溺れることは無い。翠音の心が化した『折紙影絵』そのものである異空間に引き摺り込まれた時点で、私が息をしているのはとある証明になった。
――私は今、翠音に生かされている。
「矛盾ね。翠音は、私をまた殺さなかった。私が炎陽を殺そうとしたあの時ですら」
「私は紅音をいたぶりたいだけ。簡単に死んで楽になろうだなんて、苦痛が足りないとは思わないのですか? 」
「そういう、言い訳にしたのね」
私がくすり、と嘲笑すると……緋色の業火に燃える翡翠の双眸を見開いた翠音は、孔雀の尾羽根を広げて怒りを顕にした!
「私には紅音を生かす理由なんてありません! 私に愛されているとでも妄想しているなら、裏切り者の貴方は炎陽様と同じ、愛を引き裂かれる苦痛を知ればいい! 」
「ふぅん? それなら、私も翠音に苦痛を与えてあげる。珠翠を喰い殺した炎陽の代理人なら、復讐で殺されても文句言わないでよね! 」
叫びながら、私は墜ちていく。翠音が立つ暗い水底に、滅びぬ緋色の業火が燃え盛る! 眼を見開いた私は、猫屋敷は地獄だと鮮やかな恐怖が灼熱ごと蘇った! 尾羽根を焼かれたからだけじゃない。私は『魅了』に意志を燃やされ踊らされる不良品なんかに、二度となりたくない! 精神を守る抵抗に、私は口を開く!
『 紙吹雪は、燃え尽きた。
踊らぬ足先を縛り、絹に滑る自由へ。
私だけの蚕よ、糸菊で理想郷を紡げ! 』
パチン、と翡翠の花鋏は、影の水中で幻想の茎を切った。歌う私が珠翠に教わった、華道の精神は間を生けること。
『空隙華歌』は、― 空間・身体・心の隙 ―を歌が化す華で生ける異能だ!
緋色の業火が支配する水底に立つ翠音へ、顕現した三本の巨大な白い糸菊が鋭い茎先を向ける! 私は糸菊に着地した勢いで、苦々しい顔をする翠音の心臓を金属光沢光る茎先で狙う!
「珠翠は私達を愛してた! 子供の頃は姉が見つけるまで、拗ねて膝を抱えてばかりだった翠音だって、手を繋いでくれたじゃない。二人一緒じゃないと、珠翠に抱き締めてもらう勇気が無かっただけで、翠音も珠翠を愛していたはずでしょう! 」
翠音は眼上から襲い来る糸菊の三槍を、俊敏に泳ぐように避ける。生ける鰭のような紅色の面紗にすら掠らず、緋色の業火に糸菊は生けられてしまい、私は思わず舌打ちをする。暗く私を睨めつけるのに、眼下の翠音はもう私に反撃しようとしなかった。一体何故?
「母を愛しているのは紅音だけです!『女』らしさを教養ごと身に付けて紅の髪を継いだ紅音とは違い、戦うしか能がない無い私は珠翠に似つかず『女』になり切れない出来損ない。だからこそ私は、『女』として認めて頭を撫でてくれた炎陽様を愛したのだから! 『妖』でありながら、『人』の倫理に従う紅音は異常です! 」
「猫屋敷が異常な地獄だと理解していないのは、翠音の方よ! 自分の心と身体が傷を受けたならば、舐めることくらい獣にだって出来るわ! 炎陽を恨む理由は翠音にだってある! 」
私を見上げる翠音は、何処か冷めた眼差しだ。
「穢れた愛を知らぬ紅音は単純ですね。だからこそ私は、紅音の尾羽根を炎陽様に燃やして頂いたのです。憎悪で盲目な貴方は、炎陽様の愛を知らないままでいい。ですが……そろそろ愚かな姉の綺麗な愛を少しは穢してやる為に、思い出させるべきでしょうか 」
紅を引いた翠音の唇は弧を描く。緋色の業火に生けられた、一輪の糸菊の茎に触れると影に染めた。異能を侵される感覚に、私は本能的に背が粟立つ。私自身の精神を守護した『空隙華歌』とは真逆に、『折紙影絵』で精神攻撃をするつもりなのか!
「本当に……炎陽様だけが復讐するべき悪だと思いますか? 見てください、私達の影を」
散った糸菊の白い花弁は突如ピンと張り、障子になる。私は今、『猫屋敷』の暗い廊下にいるように錯覚させられていた。透けた障子の向こうに、『折り紙』で出来た人形達が登場する。皆、私にとって見覚えのあるシルエットばかりだ。その中には、私も居た。緋色の燭で照らされた、猫と孔雀と人達の『影絵』芝居が始まる。
かって、私は沈黙が怖かった。私の頭を撫でてくれた人が、次の日には喰われて消えている。だが妖である私達は犠牲を重んじる事は無い。私も人を喰らう妖ではあるが、虚しい違和感を感じていた。だが、疑問を口に出す事自体が禁忌だ。獣は餌に同情したりしない。
それでもまだ、喰われるのが人だけだった頃は妖達なりの秩序ある日常が保たれていた。
だが……埜上 芽衣が人として招かれた時から、確かに私達の日常は狂っていったのかもしれない。咲雪が生まれ、私達三姉妹は成長していき、『魅了』に狂う炎陽の業火に焼かれた『女』達は人も妖も喰われていった。私達は捕食される側にもなったのだ。
正妻の珠翠と、愛人にも満たない芽衣。子供である事を理由に『母が二人』という歪な家族を受け入れた私は、母達の嫉妬と狂気に目隠しをしていた。炎陽では無く『魅了』に罪を着せていたのは、翠音だけじゃない。珠翠も同じだったのだろう。愛する人を恨みたくないから芽衣を憎み、喰われる娘達の痛みから目を背けて『普通』を語った。
皆が目隠しを続けて『悲劇』として尊重されなかった悲劇は、異常に慣れさせる。身体は傷だらけなのに、心ごと軽んじられて、痛み止めを必要としなくなっていく。これが、色獄に生きる私達の異常な『普通』だ。
『影絵』芝居を映していた障子は、糸菊の花弁に戻る。散りゆく花弁の向こう、糸菊に立つ翠音が座り込んだ私を見下ろしていた。緋色の業火に生ける白い糸菊は、もう一対だけ。
「珠翠への憎悪から目を背けていたのは、紅音です。貴方は意思と身体を殺した炎陽様を憎む事で、珠翠への綺麗な愛と外界から得た『普通』を保っている」
「……私が見たいものだけを見続ける為に憎悪に溺れてるって言いたいのね。なら貴方はどうなの。翠音こそ、炎陽への愛を語るあまり盲目になっていることに気づいてる? 」
「私は冷静です。自己犠牲に甘んじる珠翠や紅音とは違う。望んで『色獄の花嫁』になった私は、喰らい喰われる事に虚しさを感じたりしない! 」
全ての糸菊が一瞬で影に染まり、足場が解けた私は水底に墜ちる! 緋色の業火が私を焼き尽くす……と思った瞬間、柔い『業火』の正体を知る。なんだ……揺らぐ、唯の緋色の水中花じゃないの。波打つ紅の髪を広げて、緋色の花畑に寝転んだ私はおかしな笑いが込み上げてきた。確かに、理性的に冷えている。翠音の心を支配していたはずの『魅了』は偽物だった?
「ねぇ、『色獄の花嫁』さん。芝居は最後まで見せるべきじゃない? 一番大事なシーンをとばしているわよ。珠翠が、炎陽に喰い殺される演目を! 孤独に抱え続けた秘匿を、いい加減に明かしなさい! 」
勘づいた翠音が距離を取る前に、私は『空隙華歌』を歌う。 偽らない翠音が語る、芝居の再公演を要求するわ!
『 柵は無意味。
堰を切った春の川に、猫柳は笑うから。
待ち侘びた水の綾に、
逆さ太陽映る水底を覗く。
去りゆく翡翠に借りた名を、
私達の至宝へ授けよう 』
横たわる私に、翠音は手を差し伸べた。覇気の消えた彼女の手を取って、淡く微笑した私は立ち上がる。
翠音の瞳から、偽りの業火は消えた。躊躇いながらも、真っ直ぐな彼女の翡翠の瞳は強く輝き、猫柳の『率直』が反射されて咲いていた。
「珠翠は私だけに言いました。『天邪鬼の妾と似てしまったからこそ、翠音だけに伝える。死にゆく妾の血肉を喰らえば、炎陽の意思は蘇る。泣き虫な翠音も、お転婆な紅音も大好きな娘だから守らせてくれないか? 猫屋敷から去った、寂しがり屋の咲雪と素直が眩しい芽衣にも伝えて欲しい。歪でも、本当は『家族』を愛してると。でも……これはまだ、翠音と妾の秘密だ。蘇った炎陽が妾に嫉妬出来るくらいに、『家族』を愛するまでは』」
翠音は耐えるように俯く。
「珠翠は炎陽と私達を愛していたから、置いて逝ったのです。だけど、それって……自己犠牲に満足する悲劇のヒロインを演じていませんか? 悲劇の観客にしては客観的になれない娘の私は、珠翠を恨むことしか出来ない」
翠音の声は壊れてしまいそうなくらいに震える。
「でも私が……花嫁として珠翠を演じれば、まだ私の『家族』はここに居るじゃないですか。珠翠を想う炎陽も、もう泣かなくて済む。だからっ……珠翠みたいに私を独りにして置いて行かないで、紅音!」
涙を散らし顔を上げた翠音の慟哭に、翡翠ノ森で私を捕えていたあの錆びた鎖を思い出した。それは、翠音の断ち切れない私への愛情そのものだったと、幼じみた彼女の慟哭は告げた。私を殺したいくらいに憎いのに、同じくらいに『家族』として愛してるから引き止めたいのだ。繋いだ手を解いて引っ込めると、翠音は顔を覆う。
「やっぱり駄目。私の家族でも……紅音だけは、広い世界に生きてください。翡翠ノ森の向こうは、紅音の憧れていた全てがあるのですから。人の世はきっと美しい」
自由を夢見ていた私を、翠音は逃がすつもりだったのか。だけど、錆びた鎖は断ち切れそうで断ち切れなかった。
「私は……翠音が思っているより、強くないの。たった一人じゃ、翠雨の向こうに行けない。翠音が私を繋ぐ錆びた鎖を、自分独りで断ち切れないくらいにはね。姉なのに、情けないでしょ」
「産まれた僅かな時間差で、責任感を背負わせるなんて馬鹿らしい。紅音は姉という紙札に縛られすぎています」
「貴方は優しすぎる。翠音は傷つけられた事を、誰かのせいにしたっていいのよ。秘匿を抱えさせた珠翠から継いだ私の紅の髪が憎いなら、その手で切ればいい」
私は翠音に花鋏を渡し、最後に靡かせた後ろ髪を向けた。綺麗に切れないかもしれないけれど……醜い切り口くらいが、死んだ珠翠への翠音の復讐には丁度いい。
だが、花鋏が鈍く落ちた音がした。ずっと抑えてきた様な、翠音のすすり泣きの声がする。
「……できま、せん……。私は……珠翠の香りがする、紅音の綺麗な紅の髪が……まだ好きなんです。紅音だけは綺麗に珠翠を愛していてください」
珠翠の言いつけを、ずっと翠音は守っていた。自らの意思で喰い殺された珠翠への憎悪から、私を守る為の秘匿でもあったのか……。零れる涙に耐える為に、唇を噛んだ私は振り向けなかった。突き刺さる親愛が、私から姉の虚勢を奪うせいで。
「言わなかったけど……同じ翡翠色でも私には無い、翠音の瞳の真っ直ぐで強い輝きは……炎陽とそっくりなのよ。智太郎も同じね。少しだけ、羨ましかった」
異常な『普通』の日常で、私達が認められなかった真実の至宝は……親愛なる『家族』だ。




