第百五十五話 狂い咲きの花嫁
翡翠の双眸に射抜かれて、私は背筋が粟立った。彼女の遺骨の煙管を手に、呆けていた事に気がつく。遺骨に宿る『翡翠骨牌』が『過去夢』を引き込み、死者の珠翠を視せたのだろうか。煙管から煙る反魂の幻は掻き消えてしまったが……現に戻ったばかりの私は、夢遊病のように朧に立つ。私は、珠翠の告げた『真の至宝』に惹かれてる。
自身の欲を忘れて『孤独の部屋』を抜け出した私は、廊下の黒い木目を静かに追うように彷徨う。時々、木目にしては酷く濃い染みがあるけれど、半透明な意識の深淵には恐怖が届かない。
「珠翠……」
聞き覚えのある声が、私の歩みを止めさせた。先程まで過去夢に居たはずの炎陽の声。何故彼は、亡きはずの彼女の名を呼んだのだろう。あの異国風で刺激的な香りがする……。
結びついた小さな好奇心に、灯り揺らぐ襖の隙間の向こうを――垣間見てしまった。
肌を晒す虚ろな炎陽が縋るように重なるのは、緋色の業火を照り返す翡翠の双眸の少女。猫耳の彼女の頭飾りは、紅。花開くように床へ広がる鎖の装飾と面紗で、長い髪のように偽る。琥珀色の髪の少女は、不吉な紅を引いた唇で魅惑的に微笑する。絢爛な孔雀の尾羽を広げた彼女もまた、紅の振袖から白真珠の肢体を露わに晒していた。
錯覚しそうになるが、彼女は『珠翠』では無い。肌の白と紅の鮮やかなコントラストが、動けない私の臓腑を不快に締め付けていく。
その時。緋色の業火を照り返す翡翠の双眸で――翠音が私を射抜いた!
現に意識が蘇った私は、見えぬ拘束から解き放たれ逃げ出す! 血が繋がっている彼女らは禁忌を犯しているのだという現実が、暗い廊下に怯える私を追いかける。
ぐにゃりと。木目の黒い染みが私の足を呑み込んだ! 硬い廊下に容赦なく叩きつけられた私の前に、滑らかな素足が音も無く現れた。
「覗きなど。恥ずべき行為ですよ、気高い原初様」
「翠音。貴方は炎陽の娘じゃないの!? 」
『 折紙影絵』で足を拘束され蹲る私は、彼女を睨む。紫電で影を解こうとするが、ピリつくばかりで解除出来ず。翠音の方が下位の妖なのに一体何故……?
上位の妖を貶めて嘲りを小さく浮かべた翠音は、白い裸体に羽織っただけだった紅の引き振袖に――操る黒い影で帯を締めた。まるで、鮮やか過ぎる花嫁衣裳のように。
「ええ。私は炎陽様の血を継いでいます。自らの根源を授けてくださった神の御身を愛していただけですよ」
陶酔するように禁忌を明かす翠音に、私は嫌悪で肌が逆立つ。
「理解出来ない……。炎陽は珠翠を愛しているはずでしょ!? 」
不吉な紅を引いた唇で、翠音はクスクスと小さく笑い始める。その歪んだ美しい微笑は、男のように質素な衣を纏っていた彼女とはまるで別人のようだ。
「ああ、可笑しい。炎陽様が亡き珠翠を愛しているからこそ、私は面影を被って愛してもらえているのです。折角だから……教えてあげましょうか? 」
小首を傾げた翠音は私の髪を掴み、無理やり顔を上げさせる。過去夢の珠翠と同じ、緋色の業火を宿した翡翠の双眸が禍々しい。
「珠翠が炎陽様に嫁いだから『隠世 猫屋敷』は地獄と化したのですよ。珠翠を手に入れる為に発現した力だった、異能力『魅了』は目的を達成した瞬間……炎陽様の支配下を外れてしまった。異能力が長い時で狂ったのは、珠翠の『翡翠骨牌』だけじゃない」
痛みに呻く私は、翠音の白い首筋に幾つも穿たれた牙の跡を見た。塞がりかけた傷から血が白い肌を濡らす。
「私達双子が生を受け成長し、珠翠に瓜二つの 『女』へと近づいていくに連れて。炎陽様の意識を侵した『魅了』が『女』を血肉ごと喰らうようになりました。正妻も娘も人も、本能のまま平等に。『魅了』が狂う中、人である『埜上 芽衣』の娘として生を受けた、咲雪は幸運でした。『魅了』に喰われる前に、芽衣を連れて『猫屋敷』から逃げ出せたのですから。最も、芽衣は既に心身を喰われていましたが」
飽いたように私から手を離した翠音は、飛石で遊ぶかの如く黒い廊下の染みから染みへと跳ねる。割いた紅の引き振袖から垣間見える、孔雀の尾羽とその脚からも血は伝っていた。
「珠翠はある日翠音だけに言いました。死にゆく自分を炎陽様に喰わせて『魅了』の支配を取り戻させる、と。死にゆく妖の血肉で『欲』を抑えられると、珠翠は知っていたのです。結果は成功でした。珠翠を喰らった炎陽様は、発狂と共に我を取り戻したのですから。紅音は『食い殺された愛する母』だけを見たのです。その時から配下の妖を肥料にして咲かせた青紫の躑躅の効能は、今も炎陽様に理性を与えてくれていますが……時折、お慰めが必要なのです。珠翠を思い出す前と同じ、犠牲など厭わない原初様で居て頂く為に」
翠音は炎陽の従者のようでいて、真実は『偽りの花嫁』として炎陽の一部を支配している……。
「紅音に真実を伝えないの? 翠音が今、『魅了』の犠牲になっている事も、珠翠の死の真も」
その時。過去夢の珠翠が告げた『真の至宝』とは、彼女自身の『死』である可能性に気づく。本当に……こんな真実が至宝だと言うの?
「貴方は何も分かっていない。これは寵愛なのです。無論、紅音には教えてあげません。『珠翠の面影』は私だけのもの。その為に、紅音の尾羽を燃やさせたのですから。……あの紅の髪も切り刻んでやれば良かったでしょうか」
琥珀色の短い髪の翠音は、羨むように紅の長い髪のような頭飾りを摘む。だが、すぐに飽いたように手放した。紅音に炎陽を憎ませたのは、翠音なのだ。
「いずれ屍になるのですから関係ありませんね」
「私は……貴方が紅音をすぐに殺さなかったのは、紅音に生きていて欲しいからだと思っていたのに」
「どうでしょうか。獲物をいたぶってるだけかもしれませんけど」
『魅了』に完全に心を喰われているから、翡翠の双眸に緋色の業火を宿しているのか。それとも翠音自身の意思により緋色の業火で踊っているのか。私には分からない。完全に心が綯い交ぜになり『穢れた愛』そのものの翠音の意思は、今となってはどちらでも同じなのだろう。
「私。貴方の事、嫌いじゃないんですよ? 炎陽様に口付けされているのを見た時は殺したくなりましたが……貴方も穢れた愛を抱いているし。……そうだ! 貴方も私と一緒に炎陽様の『花嫁』になりませんか? きっと愉しいですよ」
自身の指先を交差させ、『友人』を見つけたように夢みる翠音は『女』らしく微笑する。私は心底翠音を軽蔑し、彼女の提案への否定に顔を顰めた。
「……翠音は、狂ってる」
「それは貴方も同じでしょう? 妖がいつまで『人』の意識を保っていられるでしょうか。貴方は、近親相姦に嫌悪を抱いているようですが……それは『人』の倫理観です。長い寿命と個々の高い能力を『根源』から受け継ぐ私達『妖』は、近親交配を避けることは子孫の生存率を高めることに繋がらない。より純粋な『根源』を血に受け継ぐ子孫こそが……生存競争での勝者となるのです」
座り込んだ翠音は硝子細工にでも触れるかのように、恍惚に私の頬を撫でる。先程とはまるで異なる態度に吐き気がした。彼女は私を弄んでいる。
「長い間共に過ごしたら、愛するその人は『家族』として性的感情を削除されてしまうでしょうか。 ですが、罪悪感という針が私を刺し続ける限り、同族ではないという異端を示し続けてくれるのです。罪を犯し、幼なじみを愛する事が出来ている貴方も……私と同じ」
「翠音は……罪悪感を抱いているの? 」
「ええ」
相変わらず微笑する翠音からは、感情が読めない。彼女が本当に罪悪感を抱いているのかすら定かでは無いが……私を捕らえた翠音の望みは明らかだった。『穢れた愛』に共感した彼女は、私と『友人』になりたがっている。こんな形で翠音の真意を知るまでは、私も翠音と本当に友人になりたいと思っていた……。
「貴方の、『友人』になればいいわけ? 」
「それは素敵ですね。『友人』なら、本当に困った時はお互いを助けなくてはなりません。約束、してくれますよね? 」
白々しい翠音は指切りをする為に、小指を差し出す。私は本当にその指を切断してやりたいという憎悪を呑み込み……『友人』の約束を交わした。『隠世』の主たる炎陽の一部を裏から支配する翠音は、利用価値があるだろう。
「ああ。それから、この真実は秘密ですよ。『友人』になる貴方だから……教えてあげたんです」
しー、と翠音は不吉な弧を描く紅の唇に人差し指を当てると、影を解いて私を拘束から解放した。私が立ち上がると同時に、紅の花嫁衣裳を纏った翠音は影に消えた。彼女が戻るべきは、彼が待つ部屋しか無い。




