第百五十二話 煙るは、反魂の夢
翡翠の煙管を咥えるも、苦さに肺を深く満たすのが怖くて浅く吐く。桂花宮家の地下牢へ漂っていた懐かしい煙が……青暗い『孤独の部屋』の空を白く揺蕩う。
内なる『死』に手を合わせるような、そんな気持ちにさせる。昇る煙は、線香の煙のようで。弔われているのは自分だと錯覚してしまう。静かで穏やかな『死』に憧れ、煙管を儚い指先で支えていた咲雪を懐古すると……意識が同化しそう。
けれど曖昧な自我を、手の内の翡翠の煙管が鮮やかに確立させた。紅、青紫、紅、青紫。と私を陣のように囲ました躑躅の花も。『生と死』に迷う私は色彩の点滅に目眩がする。座ったまま、喪服にも似た黒い着物の裾を捌き、脚を横にながした私は全身鏡に背を軽く預ける。
翡翠の煙管の、金の斑が強く輝いた気がする。金の光に呼ばれるまま、千里は白昼夢に瞼を閉じた。
――私は今、どの演目に居るの?
ああ……そうだ……。
これは『炎陽』と、故人である『珠翠』の夢。
生者が視る、反魂の幻なんだ。
―_-◆_+★_*+-【過去夢 展開】-+*_★+_◆-_―
“女色と男色。
色道を追求するならば、双方味わうべし”
――その時代、夜を買う男達にとっては誇りとも言うべき常であった。
少年達の色を買う『陰間茶屋』に馴染みの花魁を呼び、二色を楽しむ男が居た。
『花魁』と共に『男』の肌を撫でるのは、女と見紛う美しき男の『陰間』。男色を売る時期である“蕾める花”と“盛りの花”の少年時期を過ぎ、女色を売る時期である“散る花”の二十路程ではあるものの。見目麗しい『陰間』を贔屓にする客の男は、足蹴く通っていた。
“散る花”の陰間、花魁、客の男。色道を追求する者達の……半場冗談のような思いつきから、ある秘密が始まった。
『ねぇ、禿と陰間を入れ替えしない? 』
陰間の呼び出しが禁じられている、ある遊女屋にて。花魁の付き人である『少女の禿』に化けた、“蕾める花”の『少年の陰間』を客の男が犯す。彼らが、より深い背徳感を味わう為だった。
――だから、今宵も俺達は入れ替わる。
『禿』に化けた“蕾める花”の陰間の炎陽は、まだ色道を知らないはずの彼女と言葉を交わしたことは無い。兄のように慕う“散る花”の陰間に手を引かれ、何時も通り『陰間』に化けた禿である彼女とすれ違う。
その度に彼女への好奇心は、異国風で刺激的な香に縛られてしまう。
編笠を白絹のように嫋やかな両手で支え、彼女は顏を隠す。垣間見えるのは……緩く纏めた 紅の髪に、きめ細やかな白真珠の肌。そして、林檎飴のように潤う唇。
ふと。視線に気づいたのか、彼女は編笠を上げる。
彼岸花の花糸の睫毛が、秘匿を解く。
目の縁を彩る目弾きも、やはり紅。切れ長の瞳は――生ける宝玉の翡翠。愛想程度に小さく綻ぶ唇に、焼け付くように期待してしまう。
男を知れど、女を知らぬ我が身故か。僅かな逢瀬の時は、火種が燻る灰のように静かに降り積もり『秘めた恋』に変わっていった。
だが夢心地の熱情は、いつも現実に犯される。
色道往く三人の生贄である俺は……開いたばかりの身を男に捧げる。口減らしに売られて、女を演じる『陰間』になり。徹底的に逆らわぬよう指導され、腹を貫く痛みを緩和する方法も身に付けた。それでも何が気持ち良いのか、分からない。俺は冷めた目で、我が身を生温い舌で這いずる男を一瞥する。
嫌悪を思い出してしまいそうになる時は、目を閉ざせばいい。浄化してくれるような、若葉色の光が視えるから。
今、名も知らぬ彼女は、仮病をさせられた俺の代わりを勤めている。役目を終えて部屋に帰れば、あの異国風な残り香を味わえるだろうか……。
去らないで欲しい。俺の部屋に、嘘を載せた手紙か、罠か……何か仕掛けでも施しておけば良かった。何かの間違いで、彼女が遊女屋に帰れなくなればいいのに。そんな願いが呼んだかのように、花魁である飛鶴が襖を開いた!
「大変です。炎陽のお呼びが掛かったそうです! もう茶屋に戻しませんと、監視役が参ります! 」
「いつものように、仮病の誤魔化しは効かんのか」
「それが……」
いつもとは違い、慌てた様子の飛鶴が男に耳打ちをする。みるみる険しい顔へ変わっていく男は、俺を解放する。花魁は俺に着物を着せるのを手伝いながら、早口でまくし立てる。
「貴方と入れ替わっている珠翠がお客に呼ばれたそうよ。厄介な客らしくて、炎陽の指名を止める気は無いらしいの。このままじゃ皆、おしまいよ。さぁ、走って! 」
先程まで犯されていたと言うのに、飛鶴は容赦なく俺の背を叩く! 背を痺れさせる焦りと共に、俺は陰間茶屋へと駆け出した!
「こんな時に初めて名を知り、会えるなんてな」
胸を支配する熱情は、掻き乱された。珠翠が『女』だと正体がバレてしまえば、彼女はどちらにしろ犯されてしまうかもしれない。俺は彼女に穢れて欲しくない、と願っていた事に気がつく。愚かだな。いつしか必ず『花魁』となる珠翠は、今で無くとも身体の清らかさを失うというのに。
俺は陰間茶屋へ飛び込み、部屋の襖を開いた!
だが……そこには、客も珠翠も居なかった。
――居るはずの無い俺が居る。
珠翠に恋焦がれるばかりに、狂気に堕ちた俺が夢でも見ているのだろうか。
「遅かったな」
俺の声で喋る誰かは、幻を解く。幻は、優雅に煙管を吹かす『珠翠』になった。但し、その姿は少女では無い。満開に咲く『女』だった。人では無い証に、鮮やかな孔雀の尾羽を広げている。望んだ異国風で刺激的な香が本物の彼女事、俺の部屋を支配していた。
「あんたは、一体……」
「妾は『妖』と呼ばれる、ただの偶像。妾の骨は、無機物である翡翠。性を持たず、どんな演目でも身体も心も遊戯のように演じられる。異能名は『翡翠骨牌』」
妖。それは、世に蔓延る魑魅魍魎だ。人の血肉を喰らう為に、妖との戦乱は止まない。傷が治る妖に確たる対抗手段が無い妖狩人達は、命懸けで刃を振るっているらしい。
最も、それは花街とは遠く……何処か現実味の無い戦話だと思っていたが。
「人を喰らう妖、なのか」
「ふ……炎陽の代わりに犯されてやったというのに、随分な言いようじゃない? 客は満足して、とうに帰ったわ」
小さく嘲笑する珠翠に、俺は胸を抉られる。性を操る彼女は、処女ですら無かったというのに。
「妖のくせに、何故人の振りなんかしてるんだ」
「妾は狩りをしていただけ。……最も生き続ける理由すら、見失ってしまったけれど。『翡翠骨牌』で読み上げた演目を完全に演じ切る内に、何を憎み妖と化したか……そもそもとして『男』だったのか『女』だったのかすら忘れてしまったが。今の妾は、ただの偶像にしか過ぎぬ」
どこか茫洋と虚空を見つめる珠翠は、空を漂う煙のように……いつ消えても可笑しくないように思えた。
「あんたは、珠翠じゃないのか」
「『珠翠』と言う演目を演じていただけだ。炎陽が恋焦がれた『少女』など、初めから存在しない」
俺の想いすら、長き時を生きてきたであろう妖は知っていたらしい。告白すら叶わなかった虚しさか、怒りか……灰の中で燻る火種はまだ存在する。『少女の珠翠』が消えてしまう事に抗える選択肢があるとしたら、俺は必ず選ぶだろう。
「俺だけに、正体を明かした理由があるんだろ? 答えろよ」
そうでなくては、俺の代わりに客に犯されてまで正体を明かす必要など無い。焦らすように、珠翠は煙管を一吸いして……唇から白煙を空に帰した。
「良い玩具を見つけたからだ。人の中に、若葉色の光が視えるだろう? あれは生力と言う。妖の糧だ。あれが視えるお前は、いつか妾と同じ妖になる」
鮮烈な紅の色彩の珠翠は、妖の瞳孔が宿る翡翠の瞳で魅惑的に微笑した。その細く嫋やかな指先で、手招く。香のせいか、幻を味わいたい誘惑のせいか。俺は麻痺したように引き寄せられていた。俺の心臓は甘やかに屈する。
珠翠の前に跪くと、彼女の指先が俺の顎を撫でる。そのまま唇をなぞられ……彼女と同じ存在になれる事に悦びすら、感じた。
「飽いるまで、妾の玩具となれ」
そのまま頷きそうになる自分を、一つの執着が呼び戻す。
「俺が従うのは……俺が手に入れるはずだった『少女の珠翠』だけだ。妖ってのは、ただ奪うだけなのかよ」
珠翠はまあるく瞠目する。幼い表情に、俺が恋焦がれた彼女はまだ存在するんだと確信出来た。
「ふふ。人から対価をせびられるのは初めてだ。ならば炎陽が妾の玩具である間……望む演目で居てやろう」
空に漂う香が煙ごと揺らぐと、珠翠は『少女』の姿になる。魅惑的な色香は、胸を締め付ける切なさへと変貌した。未だ俺に触れる指先を引き寄せ、絹のように滑らかな手首を這うと、滑るような快楽と共に凶暴な欲が顕現する。
――珠翠が欲しい。身体も心も。
今なら、あの男の醜い欲が理解出来てしまう。俺はあいつよりも深い欲を手に入れてしまったから。
彼女を押し倒すと、紅の長い髪筋は華のように広がった。愛玩する獣に褒美を与えるかのように、少女の珠翠は林檎飴のように潤う唇で弧を描いた。




