第百四十九話 飯事
私は『人』の飯事がしたくなって、陽の当たる部屋へと戻る。血塗れた口を拭い、徹底的に痕跡を消して。智太郎を含め、血の渇望を持つ妖達は……皆こうして、影を隠して生きているんだろう。息をするように、自然に。私もいずれ、隠世でも息が軽くなる時が……来るんだろうか。
「黎映」
何も無かったように、襖を開けた私は自然な微笑を意識して彼の横に座る。耐え難い甘い香りは、『食事』をした事で少し和らいだように思えた。
布団から起き上がっていた黎映は、深緋と白の双眸を一瞬揺るがした。私と目が合うと逃げるように俯く。チクリと刺す違和感は、私に小さな苛立ちを与えた。黎映は私が何をしていたか、恐らく気づいている。
「千里……体調は大丈夫、ですか? 」
「問題ないよ。何でも無いから」
妖にとっては『食事』をすることは普通なはずだ。だからこそ棘のような違和感を呑み込みたくて喉に触れたのに、苛立ちは降りていかない。
「私は……千里に謝らねばならない事があるのです」
「再会した時にも言ってたよね。でも、私は心当たりなんて無いんだけど……」
「これは私の一方的な罪悪感であり、けれど確かに存在する罪なのです。……私は『未来四感』で千里の『可能性』を奪い尽くしてしまった」
私は胸を刺されたように、息が止まった。鬼の深緋の瞳を継いだ黎映も『可能性』を語るのか。
『可能性』。それは己穂が過去夢で鬼と交渉して手に入れたのに、生かしきれなかったもの。
智太郎と同じ魂として『可能性』を共有するからこそ、前世である雪を救えなかった……私の後悔へと繋がる。
「私は未来視の能力者ではありませんでした。確定した未来を感じていると錯覚しているだけだった。『未来四感』は『可能性』を消費し、未来に触れて確定させる能力だったのです。……発動条件は『会いたい人を想うこと』」
黎映は端正な顏を上げて、私を真っ直ぐに見つめる。直ぐに黎映は俯いたが、その目の端が泣き腫らしたように赤いことに私は気づいてしまった。
「千里の想いが私へ向かないと知っていたくせに。身勝手に千里を想う事で、私は千里を妖へと導いてしまった」
信じようとする私を否定したい。『可能性』を奪われた結果が、今の私自身なんて。私は、本能的に湧き上がる憎悪を噛み殺した。違う、恨むべきは黎映じゃない。
「私が妖になったのは、私のせいだよ。自業自得。智太郎を救う為に、私には他の選択肢が無かったから……」
そこまで続け、愕然とする。『可能性』とは、つまり『選択肢』のことだ。
「千里から他の選択肢を奪ったのは、私なのです」
私は妖になった運命を恨んでいる。私が選んだ道に後悔は無くとも、妖に化した現状は私を蝕んでいるから。静かに懺悔する黎映を、私を蝕む不快の捌け口にしてしまいたい気持ちに必死に抗うが……腐蝕した良心は脆く崩れた。
「それで。私は、黎映を恨めばいいわけ? 今更、人に戻る事なんか出来ないのに。それとも、黎映が私を人に戻してくれるの? 」
答えを持たない黎映は、ただ布団を握りしめて皺を広げた。答えて欲しかったのは、綺麗な私に戻れる未来。
「無理だよね、そんな方法なんて無い。なら、私にこれ以上憎悪を植え付けないで。私に私だけを恨ませてよ! 」
こんな自分、嫌いだ。黎映は何も悪くない。他に選択肢が無かろうと、結局は私が選んだ道だ。
それなのに、救いようが無いはずの私を見上げた黎映は……深緋と白の双眸に玲瓏な光を宿す。
「償いが千里にとって価値があるなら、私は償います。私は、貴方の味方になる」
隠世で唯一輝く純粋な『人』の彼は、望めば私を救ってくれるだろう。だが私はたった一人の大切な味方を、自ら手放してしまった。智太郎以上の味方なんて、私には居ない。
「……私は味方なんかいらない。黎映は結局、妖に堕ちた私を憐れむことで自分をお綺麗に保っているだけだよ。金花姫だった、人の私と同じようにね」
私は喉につっかえていた苛立ちを吐き出した。私は……『人』の黎映に嫉妬しているだけだ。誠に残酷な事実を目隠しされている、玲瓏に輝く黎映に。
以前から抱いていた、純粋な黎映への躊躇いは反感となった。青ノ鬼と同じく、私は混沌だから。
「お綺麗な貴方じゃ、私を救えない。私を救いたければ、汚れてみせてよ」
黎映の顔も見ずに吐き捨てて、襖をぴしゃりと閉じる。逃げるように黎映の部屋を後にすると、私は立ち尽くした。
馬鹿だな。飯事も出来ないなんて、幼子以下だ。黎映の手料理……下手くそでもいいから、『人』みたいに食べてみたかった。どうせ原初の妖の私は……人の味覚なんて無いんだろうけど。再会した『人の私』と朝食を食べているように演じていたはずの、黒曜のように。
「想われているくせに、黎映を虐めてやるな」
丁度黎映の部屋に向かっていた所だったのだろう。私達の話しを聞いていたらしく、現れた誠は滅紫を貫く金の逆三日月の瞳孔を無感動に私へ向けた。
「誠に言われたくない。陰険な兄のくせに」
自分の弟が元婚約者を想っている事実に眉ひとつ動かさない所を見ると、婚約時から黎映の気持ちを知っていたのだろう。黎映の過去夢でも疑わしい言動はしていた。
動揺する所か、難なく弟の想いすら利用したのかもしれない。黒曜を栄螺堂に出現させる為に、私と智太郎の想いを利用した悪歴があるから間違いない。
「違いない、俺は陰険だ。本来俺は、婚約者になったお前を黎映と番わせようとしていたのだから」
幾らなんでも冗談だろう。言葉を完全に失って惚けるしかない私に、誠は珍しく微笑した。但し、性悪が少々混じっていたが。
「俺が欲しかったのは、桂花宮家の支配権だけだ。後はお前も含め不要だった。黎映が欲しいなら、やればいいと思っていた。まぁ、智太郎だとか鴉だとか……不確定要素が入って成せなかったが」
「……喰えない男」
「褒め言葉として受け取っておく」
悠々と肩を竦めた誠は、濡羽姫として行った『復讐』の仕返しに明かしたのだろうか。タチが悪すぎる。
「それにしても、価値ある原石だったとはな。お前を殺さなくて正解だった。今からでも遅くないから、伊月家兄弟側につかないか? 」
やはり誠は私を脅かしにきたに違いない。私を殺しかけたと語ったその口で、黎映と同じ提案をするなんて。但し、黎映とは違い……原初の妖を利用しようとする魂胆が見え見えだけど。
「誠の言葉に私が頷くと思う? しかも私にはメリットなんて無いじゃない」
「……だろうな。まぁ、答えは今すぐでなくても構わない」
誠にしては珍しく交渉が下手だと思った。もしかして、感情論を振り回したのだろうか。……誰の為に? 黎映の為だけであるはずだと、私は思考を凍らせた。私は誠に敵意しか抱けないはずだ。
「一つだけ、聞いてもいい? 」
私は少しだけ、緩く息をつく。猫屋敷には私の味方が居ないからこそ、手の内が分かりきった敵である誠に自分を偽る必要なんて無いから。
「信者の質問には答えよう」
冗談めかして両手を広げた誠に、私は思いっきり顔を顰めた。
「誠も黎映に『食事』を隠しているの? 」
「見せた事は無い。だが黎映は察してはいるようだ。俺は半妖となったのだから」
「隠し続けるのって、苦しくない? 明かすのはもっと苦しいけど」
「俺は妖だ。『人』から見て忌まわしい行為でも、生きる為の欲求に罪悪感など抱く必要は無い。……とはいえ、全ての事実を明かすにはやはり躊躇いがある。人を炎陽に引き渡した事も」
私は誠相手だと言うのに、安堵してしまう。私とは違い、自分を『妖』だと受け入れている強者の誠でも……逡巡する事があると知り得たから。
「良く黎映にバレずに、猫屋敷まで人を連れて来れたね」
「……阿呆みたいに大変だった」
ため息をついた誠は滅紫を貫く金の逆三日月の瞳孔を、無意味に見開く!
「黎映が席を外した隙を睨み、すれ違いざまに外面を演じて女を口説く。一瞬の隙をつき、昏倒させて『縛』の術式で捕縛! 速攻で蹴っ飛ばし、柱の影や生垣に転がす! 絶妙なタイミングで戻ってくる黎映に、冷や汗を滲ませながら笑みを取り繕う……。猫屋敷へは女共を脅し、バスの乗客に扮させて来た」
「……私はコントを聞いているのかな? 」
餌となった人には悪いが……のほほん黎映を、柄にもなく必死な誠がギリギリで誤魔化している所を想像すると、嫌悪と笑いが同着する。
「まさか……そのバスに黎映と誠は乗ってきたり……してないよね」
「……乗ってきた」
「ホントに!? 」
限界だった。私は思わず、口を抑えて笑いそうになるのを必死に堪えた。ブラックジョーク過ぎる。笑ったら、倫理観の負けだ。
誠は少々複雑そうに、眉を顰めた。
「改めて明かすと、隠していることすら馬鹿らしくなるな。いっその事、酒の席で明かしてしまおうか」
「ダメ。絶対に後悔するから、真面目に明かして」
ギリギリ冷静に首を横に振った私は、ふいに黎映と誠は成人なんだと意識する。妖でも、深緋の鬼のように酒を嗜む事が出来るらしい。人と妖の宴だなんて、少し神秘的で惹かれてしまう。未成年の私は、酒を頂けないけど。もう半不死の妖だから関係ないだろうか?
人と妖の宴は煙管の白い煙が、きっと優雅に揺蕩うんだろう……と想像した時。煙管を儚い指先で支える女性が、私の内に蘇る。
桂花宮家の地下牢の内。白銀の猫の耳と尾を顕現する半妖の彼女は、智太郎と同じ花緑青の瞳に静かな願いを秘めていた。この世ならざる儚さで出来た硝子細工のような彼女が、腰まで伸びる白銀の髪を払うと、空をさらりと流れる。まるで雪が舞うようだった。
――死の願いを叶え、私が命を奪ってしまった咲雪。
亡き咲雪は、炎陽の娘。ならば猫屋敷は、咲雪の生まれた場所だ、と私は気がつく。そして、咲雪が煙管を吹かしていた理由は……人の血肉を求めないように、自身を麻痺させる為。
咲雪のように煙管があれば……私は人の血を求めなくて済むのではないだろうか。煙管の中身の薬草の正体を、私は知らない。隠世に居る人物で知り得ているとしたら……炎陽か、翠音。黒曜も可能性はあるけど……煙管を私に与えるくらいなら、『人の血』を与えるかもしれない。問う事は出来ない。黒曜は、私が生き続ける為に確実な選択をするはずだから。
「私……行かなきゃ」
「所用の途中だったか。邪魔したな」
小首を傾げた誠に、私は素直に感謝を込めて微笑を返す。
「違うの。誠のおかげで、往く先が分かった」
誠は一瞬、滅紫を貫く金の逆三日月の瞳孔を小さく揺らす。切れ長の目を小さく逸らし、一房に纏めた紺青の髪を右肩に流した彼は……素直な私に動揺でもしたのだろうか。
「ならばその恩は、是非良い返答で返して欲しいものだ」
「……考えておく」
誠の仲間になるという提案を、今の私は何故か無下に断れない。親しみを演出した彼の術中に、私は嵌ってしまったようだ。
「やっぱり誠は、素の方が良いと思うよ」
「……馬鹿が」
往く先を得た私の去り際。面白がって追い討ちをかける私に、誠の素直じゃない一言が返されて私は苦笑した。




