第百二十八話 根源の魂
過去夢の内
生温い疎雨は、炎暑を完全に振り払う事は出来ない。彼に与えられた慈愛を、私が忘れられないように。
――瞬く間に現れた漆黒の翼は、暗雲を従えるように天へと広げられた!
黒曜は、鋭光を宿した双眸を細め牙の妖を見下ろす。その浮世離れした顏が帯びる冷え冷えとした怒気に、私は背筋が凍りついた。見慣れない表情だった。彼は本当に妖達の冷酷な支配者なのだ……。
「命を守る事無く、私を呼ぶとはいい度胸だな」
牙の妖は怯えるように小さく頭を垂れた。
「私が貴方を呼ぶように頼んだの」
黒曜は私を認識すると驚愕に瞬き、舞い降りた。闇から蔓延る魑魅魍魎達を従える強者であるのに、屋敷にただ一人残る私の姿に何も言えずに黒曜は血の気が引いていく。呆然と立ち尽くす黒曜は己穂を欺いていた。人と妖との対話を謳いながら、妖達を屋敷へ差し向けたのだから。
「貴方が殺めようとしていた雪達は、もう屋敷には居ない。追う事は許さない」
「全て知っていたのか……一体何時から」
「初めから知ってたよ。貴方が優しい事も、残酷に裏切る事も。でも知り得た理由なんて重要じゃないんじゃない? 私は貴方が本当に欲しい物を持っているのだから」
私は自身の胸に手を当てる。掌から感じるのは心臓の鼓動だけど、その奥には宿る物がある筈。
「貴方が欲しいのは、私の魂。瞋恚の焔が支配する夜に堕として、原初の妖にすること。……そうでしょ」
私は静かな絶望を魂に宿して、暗く見つめた。黒曜はまるで自分が裏切られたように、長い睫毛を伏せた。
「そこまで分かっていながら……茶番に付き合っていた訳か。その通りだ。私の願いは、己穂の願いとは相容れない。もっと早く、己穂自身の意思で妖側に来るべきだった。そうすれば……こんなやり方を取る事も無かった! 」
黒曜の身を割くような叫びに、妖達は私を取り囲む。黒曜の凍えた指先は、私の顎に触れて体温を奪う。秀眉を寄せて縋るように私の瞳を覗いた彼の双眸には、金を戴く秋暁の明星が夜に捕らわれていた。決して癒える事の無い痛みに耐えるように黒曜は薄い唇を歪める。殺意と言うにも生温い、深淵より来たる執着を吐いた。
「たった一人で逃げられるとでも思ったのか? 人に現人神と呼ばれ、己の力を過信したな。『人』を選んだ己穂の過ちだ。最初から私を選んでいれば、犠牲にならずに済んだものを」
ようやく聞けた黒曜の本音に、胸の内はズタズタに割かれるようなのに何処かで待ち望んでいた自分が居た。黒曜は何時も一線を引いた所に居た気がしたから。
黒曜が『優しさ』や『慈愛』の建前で上辺を取り繕っていたのは、秘めたる冀求によって私を窮追してしまう事を無意識に恐れていたからかもしれない。気高い彼は自らの衝動を自覚していた。
だが露呈した冀求と言う名の『短く切りすぎた柱』によって、私達の関係を支える骨組みは変貌する。今更柱を桝組で補修しても、お互いを想い合っていた前世の関係には戻れないのだ。
「本当は貴方にも『人』を愛して欲しかったの。人であった頃の安寧を思い出して欲しかった」
「……そんな感情はとうに捨ててきた。私は原初の妖と化した時、人を愛する事など諦めたのだから」
そんなのは嘘だ。千里は黒曜がくれた慈愛を知っている。共に過ごした二年間は間違いなく本物だ。
だけど今の彼が未来を知るはずが無い。本来の前世の結末も同様だ。己穂をただ愛してくれた前世と、過去夢は亀裂が生じ始めていた。
千里と己穂の想いを混沌に継いだ、今の私も同じ。黒曜を純粋に慕う事などもう出来ない。傷だらけの最後の躊躇いに罅が走った。
「妖達が攻め入る屋敷に一人で残る選択を選んだという事は……私にその魂を捧げなくてはいけないという事も自覚している筈だ 」
「分かってる。その為に私は一人で貴方に会いに来たの。大切な人を助けられるなら構わないって思ったから」
軽口に重い覚悟を乗せて微笑した私は、爽太に嘘をついていた。本当は皆の元に戻れない事を知っていた。狼煙が上がったら妖達を撤退させなくてはならない。私の魂を対価として。
私の想いは智太郎に捧げたまま戻る事は無いけれど、残された私の魂によって、智太郎に繋がる存在である雪を助ける事が出来るのであれば 、まだ『私』の使い道はある。
「私に魂を捧げてでも、雪を助けたいのか……。その微笑が私に叶わぬ狂気を与えてきた事も、知っているのだろう」
茫洋と暗く瞬いた黒曜は私の首筋に触れる。私の脈動を愉しむかのように這う冷たい指先にびくりとすると、一瞬交わった黒曜石の瞳は、嫉妬の色を載せた鋭い閃光で私を捕縛した。雪を選んだ私を、射殺すように責めていた。
首筋を擽る髪筋とかかる吐息に脊髄を刺激され声無き悲鳴で身を引くも、黒曜の掌は私の腰を抱いていて逃げられない!
――信じ難い鋭い痛みに私の首筋は穿たれた!
自分のものとは思えない叫び声が途絶えると、自らの鼓動が耳元で聞こえる。牙によって貫かれた首筋から、血を啜られる音も。
小さく呼吸する私は意識が遠ざかる恐怖で無意識に縋るように黒曜を抱くと、応えるように私を抱く腕は強まった。私を包む漆黒の翼に、本当に逃げられない事を知る。重なる鼓動は、黒い瞋恚の焔の心臓だった。白檀の香りに混じる血の香りは私の物だ。目眩がする。
穿たれた対の傷を濡れた舌で舐められる痛みに瞼が痙攣した私は、温もりが離れて行く事に息を吐いた。
だが、私を見つめる浮世離れした顏に心臓は貫かれる。黒曜は牙が覗く血塗れた口元に触れ、魅惑的に微笑していた。涙を堪えるような罪悪感は捨てられないのに、艶やかな漆黒の睫毛の奥……黒曜石に秘められた鋭い瞳孔を満たされたように細めた。
私の怯えた表情すら、今の彼にとっては愉悦なのだ。待ち望んだ獲物である私は脈動する首筋の痛みにただ震えて、かつての優しさの面影を探すしか無かった。
「想いが別たれても、その魂で贖ってくれるんだろう? どうせ最期に遺されるのは私達二人だ」
黒曜の暗い微笑に、私は胸を打ち砕かれた衝動で涙が滲んでしまう。過去にて雪を助けても、智太郎から死を遠ざけても……やがて時が乖離する私には何も残されない。私の全てを犠牲にしたまま、がらんどうの永い時を生きるしか無い。
それならば、同じ永い時の内で孤独を知る黒曜と歩むことの何がいけないのだろう。
私自身が自覚出来ない答えを唇が紡ごうとした時……黒曜は私の心臓に手を当てる。疑問に瞬いた時、私の心臓より目の前に浮かび上がる鮮やかな青紫と紅紫色が螺旋を描く紫電に、私は肌が粟立つ。螺旋の花糸を持つ、幻の躑躅が咲くようだ。
彼の掌は、妖の根源に触れていた。私も智太郎や黒曜と同じく、心臓は妖力の根源だったのだ。
「まだ完全に妖では無いが……己穂は何時か妖に転じる者。魂の隷属は可能だ」
本当の意味など私は知らないのに、隷属という言葉に本能的に怖気がした。妖同士が結ぶのであろう、魂の契約を結んでしまったら一体どうなってしまうのか。
魂を明け渡すという事の重さを、青紫と紅紫色の躑躅の美しさが私に訴える。恐怖事、視界を遮断しようと瞼を閉じかけた時……屋敷に居ては行けない筈の涼やかな声が耳に届き、私を開眼させた!
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