第百二十三話 移白の梅花
過去夢の内
白い梅の花が咲いた。深雪に耐えた老齢の梅の木は、なんとか花を付けてくれたようだ。病気にも耐えて来たものの、年々、実を付けなくなってきてしまった。
己穂が生力の視界を自覚し『現人神』と呼ばれるようになり、この屋敷に越して来た時から私を見守ってきてくれた梅の木は、私の第二の母と言えるだろう。
桜よりも早く春を告げた移白の梅の花の中、薄紅の蕾が混ざる。千里は薄紅の桜に良い思い出が無いから、桜を思わせる蕾は不安の象徴だ。ある種の恐怖症なのかもしれない。
早く、全て白く咲いてしまえばいいのに……。
それでも私は、花を咲かす梅の枝の中……漆黒の翼を持つ彼の姿を探してしまう。己穂と黒曜は梅の花が咲く頃に出会ったのだ。同時に会いたくない、とも思ってしまう。黒曜が己穂の過去夢に現れるということは……雪の命が彼に奪われる刻限が迫るということ。
「綺麗に咲いたのですね」
私の隣に座った雪は、私の心の内など知るよしも無く梅の花を見上げる。
全てを伝えてしまえたら……過去を改変する事が出来たら、雪を救う事が出来るのに。過去は本当に改変出来ないのだろうか? 私が今居る場所は夢では無くて、本当の過去である可能性を捨てられない。
「……っ……」
私が意を決して雪に伝えようとした言葉は、やはり唇を動かす言葉にならない。ここは過去の投影。今まで己穂と千里の感情が一致してきたから、まるで自由に動けていると勘違いしていたのだ。
「……綺麗に咲いて、良かった」
私は切れ切れの言葉で己穂を演じる。絶望に染められた心の内は張り裂けそうなのに、それを伝える事すら出来ない。
だけど雪は心配そうに眉根を寄せて、私の顔を覗き込む。ふわふわとした白銀の髪が春風に靡き、雪華の睫毛の奥に銀の双眸は私の金の瞳を映し、星芒が宿る。
「……泣きそうな顔してますよ。どこか、痛いのですか? 」
その言葉に、智太郎の面影をどうしても感じてしまう。雪と生き写しの姿の彼は、千里が辛い時に直ぐに気づいてくれたから。
私は彼女に首を横にゆるく振る事しか出来ないが……一つの可能性に希望が灯る。今の雪は過去夢の己穂と言うより、己穂の内の千里に気づいてくれたようだった。まだ過去を改変出来る可能性は残っているかもしれない。
「……大丈夫」
誤魔化すように、再び移白の梅の花を見上げた時……梅の木に舞い降りる一羽の美しい鴉に、全てを奪われる。鴉が生力宿す梅の木に降りたつ前に、ただの鴉の可能性は瞬いた視界で否定された。若葉色の生力が視えない。間違い無い、黒曜だ。
黒曜石の双眸と視線が交わった途端、私は抱えた想いを混沌に掻き回される。梅の木に降り立った鴉の姿の黒曜は、幼い頃、千里に会いに来てくれた姿と変わらない。母のように与えてくれた安寧は私の礎となったのに、黒曜は千里を否定して孤独の鳥籠に閉じ込めた。
そして今は、己穂に安寧を与えてくれた雪を死の運命に連れて行こうとする。
それでも私は黒曜に手を伸ばすのを止められない。記憶を失った後、金木犀の下で再会した時のように。
「……おいで」
与えられて、奪われて。恨みたいはずなのに黒曜の残酷な優しさは、傷だらけの最後の躊躇いから私を離さない。
「己穂、ただの鳥が言葉を理解する訳がありません。それに、野鳥など汚らしい」
「雪は潔癖なんだから。鴉はとても美しい鳥なのよ? 艶やかな濡れ羽色の中に、紫鳥色や翠色を秘めているのだから」
雪は拗ねるように批難の視線で振り向いた。己穂は苦笑して力説するも、雪は益々眉根が寄るばかりだった。
「……雪は良く分かりません」
遂に雪は項垂れる。猫の妖である彼女には、確かに理解し難いかもしれない。猫と鴉は相性が良いとは思えないから。
「……一度で良いから、あの翼に触れてみたい」
己穂は再び梅の木に止まる黒曜を見上げる。まるで逡巡するように、そわそわと止まる枝を変える黒曜に微笑ましいと思ってしまう。彼も動揺したりするんだ。
「いくら綺麗だとしても、所詮、唯の野鳥。小さな頭では、梅の花を二つ数えるのが精一杯です」
雪がつんと可愛らしく、一言を発したその時。黒曜は梅の花ごと小さな枝を咥えて折る。艶めいた漆黒の翼は春風に白檀の香りをのせて、己穂の元へと舞い降りた。黒曜は梅の花を足元に置く。
「あら、梅の花を捧げに来るなんて。……案外賢いのね」
目を丸くする雪を一瞥した黒曜は、己穂を見上げる。艶めく漆黒の双眸は、鳥である鴉の姿でも理知的だ。黒曜はまだ知らない。己穂との出会いが、全てを狂わす事を。
何もかも無かった事に出来たら、雪と黒曜と……穏やかな時間をこのまま過ごす事が出来るのだろうか。黒曜が己穂の魂への執着を覚えなければ、智太郎の前世である雪を黒曜が殺めるなんて残酷な結末を無くせるのに。
私は、僅かな可能性でも諦める事が出来ない。
「……やっぱり綺麗」
そっと翼に触れた私の手を黒曜は拒否しなかった。翼はほんのりと暖かい。始まりの温もりは……儚い安寧の中に、罅割れそうな痛みを隠していた。
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