第百十六話 奈落へ、共に堕ちる
【午後八時三十一分】
黎映 誠 綾人 青ノ鬼
癒刻時計塔 地下洞窟内部にて
《黎映視点》
「道化で通っているんでね! 今こそ、あんたら兄弟を正しい『道』へ化して……」
「そこまでだ、愚かな誠よ! 不要な道具だと言うならば、僕が黎映を有効活用してやろう! 」
ふんぞり返った綾人が得意げに紡ぎかけた言葉を、青ノ鬼はぶった斬る!
ふいに、寒風を裂いた花の香料が……私の鼻を掠めて瞠目した。
青い妖力を纏うひんやりとした細い手が、私の首に触れた事で、青ノ鬼に背後を取られた事を自覚し愕然とする。
……殺気は感じなかった。
「ご、御先祖様……さては、寝てたな!? 物語は進んでおりますが!! 」
「青ノ鬼……何のつもりですか!? 」
慌てふためく綾人と、呆然と振り向いた私はほぼ同時に、青ノ鬼へと問い質す。
青ノ鬼は、美峰の顏に悪戯な微笑を浮かべる。……私の命を握っておいて。
「失敬な。僕は空気を読んだからこそ、こうして最登場したんだ。……さて、誠。お前の本当に守りたい信念は、一体何処に有るんだ? 僕は気が長い方じゃない。さっさと答えないと、お前の弟は右目を奪われ、妖に喰われるだろう」
と、分かりやすく悪役に転じたように見える、青ノ鬼だが……私は先程、『今更右目なんて要らない』という彼の言葉を聞いた。彼の狙いは初めに告げた通りなのだと、私は知っている。
だが青ノ鬼の言葉など、気にも止めてなかった誠は、青ノ鬼より鬼らしい形相で、冬怒濤の如く、荒々しく砕け散る滅紫の荒波を顕現する!
「どいつもこいつもふざけた奴だ! 青ノ鬼の狙いは、初めから黎映か! 」
「そうそう。初めから、素直でいれば良かったんだ。全く、不出来な混沌だよ! 誠という奴は! 」
高笑いした青ノ鬼は、私の背を押した!
このままでは迫り来る、毒の荒波に呑まれてしまう!
冷や汗が滲んだ私は半ばやけくそで、青ノ鬼が作った対話のチャンスへと踏み出した!
このまま兄さんに私を殺させる訳にはいかない!
私を殺す事は、兄さんの本当の望みでは無いのだから!
「私は兄さんが認めてくれたのに、妖と呼ばれた自分自身を認めることが出来なかった! あろう事か、妖となった兄さんのことすら、否定してしまった! 」
自分自身が『妖が混じった人間』だと言う事実を受け入れた私は、深緋の炎を魔眼より顕現する!
深緋の炎の大地を貫く銀の鎖達は……玲瓏に銀の鱗を輝かせる、深緋の炎龍と化した!
「私は、愚かな弱者にも強者にもなりません! 兄さんが私を『人の世界』に繋ぎ止めてくれたから、 この世は力だけでは計れない、美しい輝きに満ちていると知ったのだから! 」
大地を貫くように泳ぐ深緋の炎龍は、毒の飛沫を上げて迫り来る滅紫の荒波に、刹那……地を揺るがす咆哮で、大穴を開ける!
荒波に開いた大穴の向こう、滅紫を貫く金の逆三日月の双眸が揺らぎ、強者の仮面が解けた誠へ……私は深緋の炎を纏い、疾走を開始した!
「誠は……『強者』の定義を見失った。人を捨ててまで、追い続けていた強者の理想に、呑まれていたのは俺の方だった。……だが、妖となった俺が、人に戻る術など無い。戻る必要も無いだろう」
荒波が閉じ、誠の姿が見えなくなる前に、私は深緋の炎龍を解き放つ! 龍は火花となり弾け飛び、滅紫の荒波を……消し飛ばした!
「兄さんが妖で有ることを望むのであれば、私は兄さんを受け入れます! 凛と生きる、貴方自身で有る事には変わらない! 私が兄さんを、力に縛られる事の無い、新しい世界に連れて行きます! 妖を混じえた、私達でも……安寧を得る事が出来るのだから! 」
夜の洞窟に、深緋の火花咲く中……願いを突き通した私は、壊れそうな痛みを抱えたように顔を歪めた誠に手を伸ばす!
それは、今にも泣き出しそうに見えて……私は、強くない兄さんが……私達が過ごした、遠い昔の安寧に繋がっている事を、はっきりと自覚した。
紺青の睫毛を羽ばたき涙を散らした誠は、目の前に降り立った黎映に手を重ねた。
――再び繋がれた兄弟の絆は、もう解ける事は無い。
私を悪夢で解放したあの時とは、まるで反対だ。
兄さんが、私に重ねた掌は……儚い温もりに怯えていた。
重ねてくれた掌に誇れるように、私は強くなりたいと思った。
但し、それは力への冀求では無い。
守る為に、強く有りたいという誓いだった。
「俺は、妖の世でしか生きられない。黎映は人の世を捨てるのか……? 」
滅紫の双眸を金で散らして瞬いた誠に、私は曇り無く微笑した。
「私は兄さんと、生きると決めたのです。共に奈落に堕ちたって、構いません。奈落の底が闇夜だとしても、私が火花で照らしてみせます」
滅紫の双眸を細めた誠は、仕方がないと言うように、小さく微笑を返した。それは昔、私が悪戯をしてしまった時に、兄さんが浮かべていた微笑だった。
妖の世にて、再び安寧に生きる事を決意した私達兄弟に、青ノ鬼は、躊躇うような声音で告げる。
「最後に……伝えておかないといけない事がある」
瑠璃色の袖を靡かせ降り立った青ノ鬼は、美峰の顏に、憂慮を浮かべるように黒と青の双眸を瞬いた。
「千里は、智太郎を救うために原初の妖になる事を選んだ。鴉と共に妖の世へ向かう者として、また千里と会う事になるはずだ。妖の世で会ったなら、千里を頼む」
「千里が、妖になる……? 」
唐突に告げられた千里の決意は、稲妻のように背筋を貫いた! 息が上手く吸えずに、立ち尽くすことしか出来ない。
最後に会った時だって、私に金の杏眼を輝かせ、千里は笑みを向けてくれていたのに。一体いつ、覚悟してしまったというのだろう。
「まさか……俺が鴉に伝えた、千里の言伝は……」
青ざめた顔のままふらついた綾人に、青ノ鬼は頷く。
綾人の紺碧の双眸は、受け止めきれない現実に見開かれた。
「勝手に何もかも決めて……背負って居なくなるなんて……千里は自分自身の価値を知らなすぎる。大切に思う人達が居るって、何で自覚しないんだよ!! ……俺があの時、言伝を受けなければ……っ」
綾人の慟哭は、呆然と立ち尽くしたままだった私の胸を抉った。私達にとって、受け入れるには、あまりに唐突で……否定するには、あまりに強い覚悟だった。
「躊躇っていただけで、彼女の覚悟は初めから決まっていた。綾人が美峰を救いたいと思ったように」
「……分かってる。千里が、智太郎だけじゃなく、美峰を案じていたことも。だけど、受け入れられる訳が無いだろ! 千里は本当に自分自身の意思で、妖になる事を選んだって言えるのかよ! 今からでも、まだ止めるには間に合うはずだ! 」
紺碧の妖力を纏い疾走しようとする綾人に、青ノ鬼は淡々と告げる。
「もう遅い、彼女は選んだ。青ノ鬼が、千里を鴉の元へ導いたのだから」
綾人は疾走出来なかった。散った紺碧の向こう……綾人ははっきりと傷ついた顔をした。
「ふざけんな! ご存知ですって、澄ました顔しやがって……初めから仕組んでたのは青ノ鬼じゃないか! ……また、俺達を裏切ったんだな」
「悪いな、綾人。僕は初めから、彼女の願いを叶える為に居るんだ」
項垂れた綾人は、糸が切れたように崩れ落ちた。彼を一瞥すると、青ノ鬼は私をその双眸で貫く。
――洞窟の闇の中で浮かぶ、青い左目は……かつて、私の深緋の右目と対であった。
「黎映の『魔眼』について教えておかねばならないことがある。可能性が未来から過去に流れる『天鵞絨の川』を、黎映と青ノ鬼は認識出来る。美峰は吊り橋の上から、僕の中の過去の下流なら認識出来たようだが……僕達が認識出来るのは、更に『未来』の上流だ。僕は視るだけで、『天鵞絨の川』に触れる事はもう出来ないが、黎映は目隠しをされていても、『天鵞絨の川』に立つ事が出来るんだ」
「未来を知る時の、掌に掬った渦のような感覚……あれは、可能性の感覚だったのですか」
代償として、右目に再び痛みを生じさせる事になろうとも能力で感じる感覚を手放す事は出来なかった。いつか訪れる未来だという、外の世界の感覚は美しく憧れに満ちていたから。
「僕達は、対の魔眼をそれぞれに宿す事で『未来』を感じる能力……五感を分かち合っている。僕は視力を。黎映は聴覚、触覚、嗅覚、味覚を。だから、正確に言えば黎映が宿すのは、未来視じゃない。そうだな……『未来四感』とでも言うべきか」
「未来四感」
声に出してみると……真新しいのに、しっくりと自身に馴染んだ名は、確かに私の一部だ。
「人間の五感の割合は、視覚が87%。それ以外の感覚は、13%の感覚らしい。主に触原色という、触覚で色を感じる原理が、未来四感にはあるのかもしれない。だが未来を感じる五感は、そんな単純な割合では測れない。黎映が持つ13%の四感で、可能性を束ねて混線させ、未来を確定させる渦を創る事が出来るのだから」
青ノ鬼が吐いた白息は、まるでため息のようだった。
鬼だった頃、彼が確定させてきた時に、何か悔いがあるのかもしれない。
「青ノ鬼の『未来視』は、混線した可能性が必ず行き着く渦を、視る物。かつて完璧な『未来五感』を宿していた鬼には、黎映の持つ、未来を創造する能力もあった。……但し、自らの未来に干渉は出来ないし、万能では無かったが。だが、未来を確定させると言うのは、それだけ『可能性』を消費すると言うこと。だから黎映は『未来四感』を使う度に、誰かの『可能性』を奪ってきたんだ」
「兄さんも……千里の可能性も……私が奪っていた、と言うのですか。……私が視た兄さんが妖になる未来は……私が確定させた、と……? 」
完全に自由が聞かない能力だとは知っていた。感じる未来は、簡単に私自身の想いに操作されてしまっていたから。私が視たいと思う人物に、焦点が合ってしまうのだ。
――私が想うから、大切な人の可能性は奪われてしまったなんて、知りたくなかった。
「くだらんな。誠が大蛇と同化し、妖になったのは、俺の意思だ。『可能性』とは、随分曖昧じゃないか。俺達が目に見えもしない『可能性』を、黎映が奪ったなど証明は不可能だ」
誠は滅紫を貫く金の逆三日月の双眸を細めて、私を救うように青ノ鬼を睨む。
私は今まで『未来四感』で、千里の未来を視てきた。
蜜蜂の柔毛が指先を掠める様に、魅惑的な好奇心の中に危険を孕んでいたとしても止められなかった。閉ざされた伊月家から視た、外の世界への憧れは、そのまま千里へ感じる想いになっていたから。
千里が原初の妖への道を選んだのも、私が『可能性』を奪い尽くしたからかもしれないなんて、信じたくなかった。
だが青ノ鬼は、首を横に振る。
「未来を具現化した『天鵞絨の川』が視えない誠には分からないだろう。『可能性』は確かに存在する。僕が『鬼』であった頃、『可能性』を奪い、未来を改変し続けた結果の弊害で……僕の子孫である青ノ君達を、血に濡れた戦いへ導いてしまったのだから」
それが青ノ鬼の後悔か。未来を確定させた事の後悔は、私の中にも宿ってしまった。
「それに、自分自身の未来が視えないのに未来を改変し続けるのは、あまりに危険な行為だ。本当に望む未来以外は、もう確定させない方がいい。……『可能性』を二度と奪わないと決めた僕は右目を捨て置き、確定した未来で視た人物の可能性を創る事にしたんだ。千里の可能性もね。創ると言っても助言するだけで、随分小さな可能性だけど」
青ノ鬼が創った『小さな可能性』に、私は祈りたい。瞼の裏で想像する未来は、確定しないからこそ、希望に輝く。
「黎映が奪い、青ノ鬼が創った、彼女の可能性は……どんな未来に行き着くのでしょうか」
「黎映にとっては未来を視ないことも、一つの願いの形じゃないか? 」
「そうですね。……願わくば千里の往く道に、幸あらん事を祈ります。今の私には、それしか出来ないのだから」
苦笑した青ノ鬼に、同じように笑みを返した。
青ノ鬼の傍で、未だ項垂れたままの綾人を見下ろすと、私は胸が傷んだ。
「綾人。ほんの僅かな時ではありましたが、私は、貴方と過ごせて嬉しかった。智太郎と美峰にも、私の代わりに伝えては……頂けないでしょうか」
躊躇う私の言伝に、綾人の肩が反応する。彼の言伝は既に後悔を連れて、安寧を引き裂いてしまった。
それでも私は、共に過ごした彼らに伝えて欲しかった。
「黎映まで、行くのかよ。お前らは、勝手だ。残される方の気持ちまで、切り捨てる。……行くなって言っても、無駄なのか」
「私は、往くべき道を決めてしまった。……綾人にも道を選ぶ時が来たら、きっと分かるはずです」
それ以上答えることは無い綾人を見つめ続ける事は出来ず、私を待つ誠に向き直る。
深緋の炎龍を顕現した私は、包み込むように微笑を浮かべる誠に、手を差し伸べた。
「……行きましょう、兄さん」
「ああ。もう二度と、後悔しない道を歩む為に」
往くべき未来は、確定させずとも私達には分かる。
その先で、再び千里に出会えるはずだ。
――火花を散らす、深緋の炎龍は、奈落に堕ちる二人を闇に染めること無く、正絹の夜空へと導いた。
閲覧ありがとうございます(*´˘`*)
応援、励みになります✨




