免罪符
お盆休みが明け、会社へ車輪の小さないつもの自転車で向かう。
ペダルが重たくて重たくて真っ直ぐ進めない。ハンドルがふらふらする。
プライベートも仕事も全部歯車が狂っている。
何とか時間通りに出社して営業朝会に入る。
もう長嶺さんの出血箇所を探すのは困難だ。
視界不良で手に持っている実績表がどうもぼやけて読めない。
吐き気と眩暈が続いている。
頑張らなきゃ、、いけない。
まだ、転勤したばかりで全てのお客様にご挨拶ができていない。
目標数字は福岡より多いのに、預かり残高は福岡の時より少ない。
頑張らなきゃ、、がんばらなきゃ、、。
それからしばらくしたある日、11月の初旬、妻から連絡が来た。
妊娠したと。
へぇ~。
あれ?子ども?
いつ?
え? 誰の? 僕の?
あの時?
彼女とじゃなく?そっち?
え?離婚は?
まだしてないから、喜ぶのか?
責任?
親になる?
生むんだよな、、?そうだよな?
会社は?辞めれない?
逃げられない?
とにかく妻に会わなければ。ということは分かった。
メールを妻に送る。
僕:「今週末に福岡に帰る」
妻:「いや、必要ない」
僕:「え?でも色々相談しなきゃ」
妻:「相談しても意味ない」
僕:「生むんよな?」
妻:「うん、私が育てる。 あなたは自由にしてたらいいよ。」
なんということだ!
僕は父親になるんだ。
来年の夏ごろには父親になるんだ。
そして、自由にしてたらいいのだ!!
パニックを通り越し、物事を達観した不思議な感覚に包まれ、この世の中は全て夢の世界のように感じた。
自分の痛みは自分で分かるが、他人が自分と同じように本当に痛いのかどうかを知ることは出来ない。
自分のみが現実で、自分以外は全て仮想現実であり、現実の僕が創り出した夢のような世界。
僕以外はみんなバーチャルなんだ。
建物も植物も空も音楽も匂いもヒトも過去も重力も。
そうだ。
目を閉じよう。
それがいい。
数日後、僕は彼女に妻が妊娠したことを電話で伝えた。
彼女は「良かったですね」と言った。
その次の日、会社に向かう自転車があまりにふらふらするので、押して歩いた。
もう何ヶ月も同じ道を通勤してきたのに、会社からの帰り道に迷ってしまい、帰宅したのは深夜だった。
今日どんな仕事をしたのかはっきりと覚えていない。
何日かそんな日が続き、メンタルヘルスクリニックに行くことを勧めてくれたのは彼女だった。
そんなところは僕とは無縁だと思っていたが、彼女の言葉を信じるしかなかった。
高校、大学はサッカー部の主将を務め、国立大学から東証1部上場企業に入社。
綺麗な妻とも結婚し、社内での評価も上々。
そんな僕が病気を抱えているらしい。
家の近くのクリニックに向かう。
先生の見た目は30代後半でふくよかな女性だった。
穏かな口調で僕の症状を丁寧に聞いてくれて、今の僕の悩みや現状に頷いてくれた。
睡眠導入剤や抗うつ剤など3種類の薬と、診断書を書いてくれた。
『2ヶ月の療養』と書いてある。
翌日、会社にその診断書を提出したら、なんとその日から、僕は2ヶ月の休みに入ることになった。
お客さんの引継ぎも何もない。
いきなり会社から消える。
僕には診断書が免罪符に見えた。