表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

「普通」


 

 上着を二枚、四万と少しのお金、お気に入りの本を一冊。少し大きめなカバンに突っ込んだ。多分もう、この家に戻ることはない。それなのに僕の持ち物はこれだけしかない。これまでの人生が軽薄すぎた。

 家を出るときに、母に会った。心の中で「ごめんなさい」と呟いた。僕の危うさは母も知っていただろうから、僕の様子を見て何かを感じたはずだった。

 母は微笑んで「いってらっしゃい」と言った。うれしかった。ただそれだけで良かった。僕には帰ることができる場所がある、それだけで十分だった。僕は幸せ者だ。それでも、そのことを口に出すことはできない。こんがらがって喉につかえる。声に出せたとしても、透明な壁に吸い込まれてしまいそうで、怖い。僕は幸せ者なのに、幸せにはなれない。

 僕に言えるのは一つしかなかった。


「いってきます」


 後ろでドアの閉まる音がする。











 東京行きの新幹線に乗りながらいろいろと考えた。

 あおはもしかしたら、心中を提案するかもしれない。そうしたらきっと、僕とあおは遺書も用意せずに死んでしまうだろう。

 でも、あおはより生きられたほうを「普通」と定義した。心の底では「普通」でいたいと切望しているのだろう。すべてを諦めてしまった僕と違って、あおはまだ、諦めないでいるのではないだろうか。

 あおのためにできること、それはいくら考えても一つしか思いつかなかった。









 東京に着き、あおに言われた住所に向かった。そこは経営しているのかわからないくらい古びた喫茶店だった。

 ドアを開け、中に入ると、女の子がカウンターにもたれて立っていた。

 髪は肩あたり切られており、肌は白い。顔はあんまりにも整っている。ああ、あおだ、と思った。壊れそうな微笑み方とか、色のない雰囲気とか。一つ一つがあおだった。


「はじめまして。あおです」


「久しぶり、あお」


「来てくれてありがとう。ねえ、すみ。私はもう死んじゃいそうだ」


「僕にできることはあるかな」


「そうだね、ただ、一緒にいてほしいかな」


 あおはゆっくりと話した。去年の九月十日、自殺をする前に一度だけ魔法を使おうと、僕に電話を掛けたこと。僕との電話が生きがいになっていたこと。それが高じて、本当はたくさん使うことができない魔法を使ってしまったこと。今はもう、魔法を使うことができなくなってしまい、生きる力すらほとんど残っていないこと。そして、生きたいとすら思わないこと。


「魔法を失った魔女は、生きることができないんだよ」


 あおは何でもないように言った。植物が日光がないと生きていけないように。人間が水がないと生きていけないように。魔女は魔法がないと生きることはできない。

 自然なことだった。自然なこと過ぎて、世界に文句の一つも言えない。世界はシンプルすぎて、残酷だ。



 それからしばらく僕たちは、この喫茶店兼、あおの家で一緒に過ごした。普通のことをした。朝早くに起きて、一緒にご飯を食べた。お昼までの時間、一緒に本を読んで過ごした。お昼は一緒に作って、お腹いっぱいになったら、日差しが差し込む窓際で昼寝をした。昼寝から覚めたら夕食をとり、音楽を聴いた。

 何度考えても、僕はこれ以上の過ごし方を思いつかなかった。僕があおにできることはこんだけしかない。

 あおはご飯を食べては「おいしい」と言った。本を読んでは微笑んでいた。寝顔はとても柔らかだった。音楽を聴いては「最高だ」と言った。寝るときにはいつも、「おやすみなさい」と「今日も幸せだった」と僕にささやいた。

 ありきたりで、停滞のような日々を過ごした。スーパーのぶどうが高いから、林檎を買ったり、雨のせいで昼寝ができないときは二人でオセロをした。空がきれいな日は、星を見ながらコーヒーを飲んだ。デートだと言って、近くの図書館に行き、小さいころに好きだった絵本を互いに読んで聞かせた。

 あおが近くにくると、少し甘い匂いがした。それは優しい、落ち着く香りだった。





 終わりに近づいていることも知っていた。終わるな、とも思わなかった。これはハッピーエンドの後のお話だ。幸せなことはいつか終わり、緩やかにバットエンドに近づいていく。



 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ