「普通」
上着を二枚、四万と少しのお金、お気に入りの本を一冊。少し大きめなカバンに突っ込んだ。多分もう、この家に戻ることはない。それなのに僕の持ち物はこれだけしかない。これまでの人生が軽薄すぎた。
家を出るときに、母に会った。心の中で「ごめんなさい」と呟いた。僕の危うさは母も知っていただろうから、僕の様子を見て何かを感じたはずだった。
母は微笑んで「いってらっしゃい」と言った。うれしかった。ただそれだけで良かった。僕には帰ることができる場所がある、それだけで十分だった。僕は幸せ者だ。それでも、そのことを口に出すことはできない。こんがらがって喉につかえる。声に出せたとしても、透明な壁に吸い込まれてしまいそうで、怖い。僕は幸せ者なのに、幸せにはなれない。
僕に言えるのは一つしかなかった。
「いってきます」
後ろでドアの閉まる音がする。
東京行きの新幹線に乗りながらいろいろと考えた。
あおはもしかしたら、心中を提案するかもしれない。そうしたらきっと、僕とあおは遺書も用意せずに死んでしまうだろう。
でも、あおはより生きられたほうを「普通」と定義した。心の底では「普通」でいたいと切望しているのだろう。すべてを諦めてしまった僕と違って、あおはまだ、諦めないでいるのではないだろうか。
あおのためにできること、それはいくら考えても一つしか思いつかなかった。
東京に着き、あおに言われた住所に向かった。そこは経営しているのかわからないくらい古びた喫茶店だった。
ドアを開け、中に入ると、女の子がカウンターにもたれて立っていた。
髪は肩あたり切られており、肌は白い。顔はあんまりにも整っている。ああ、あおだ、と思った。壊れそうな微笑み方とか、色のない雰囲気とか。一つ一つがあおだった。
「はじめまして。あおです」
「久しぶり、あお」
「来てくれてありがとう。ねえ、すみ。私はもう死んじゃいそうだ」
「僕にできることはあるかな」
「そうだね、ただ、一緒にいてほしいかな」
あおはゆっくりと話した。去年の九月十日、自殺をする前に一度だけ魔法を使おうと、僕に電話を掛けたこと。僕との電話が生きがいになっていたこと。それが高じて、本当はたくさん使うことができない魔法を使ってしまったこと。今はもう、魔法を使うことができなくなってしまい、生きる力すらほとんど残っていないこと。そして、生きたいとすら思わないこと。
「魔法を失った魔女は、生きることができないんだよ」
あおは何でもないように言った。植物が日光がないと生きていけないように。人間が水がないと生きていけないように。魔女は魔法がないと生きることはできない。
自然なことだった。自然なこと過ぎて、世界に文句の一つも言えない。世界はシンプルすぎて、残酷だ。
それからしばらく僕たちは、この喫茶店兼、あおの家で一緒に過ごした。普通のことをした。朝早くに起きて、一緒にご飯を食べた。お昼までの時間、一緒に本を読んで過ごした。お昼は一緒に作って、お腹いっぱいになったら、日差しが差し込む窓際で昼寝をした。昼寝から覚めたら夕食をとり、音楽を聴いた。
何度考えても、僕はこれ以上の過ごし方を思いつかなかった。僕があおにできることはこんだけしかない。
あおはご飯を食べては「おいしい」と言った。本を読んでは微笑んでいた。寝顔はとても柔らかだった。音楽を聴いては「最高だ」と言った。寝るときにはいつも、「おやすみなさい」と「今日も幸せだった」と僕にささやいた。
ありきたりで、停滞のような日々を過ごした。スーパーのぶどうが高いから、林檎を買ったり、雨のせいで昼寝ができないときは二人でオセロをした。空がきれいな日は、星を見ながらコーヒーを飲んだ。デートだと言って、近くの図書館に行き、小さいころに好きだった絵本を互いに読んで聞かせた。
あおが近くにくると、少し甘い匂いがした。それは優しい、落ち着く香りだった。
終わりに近づいていることも知っていた。終わるな、とも思わなかった。これはハッピーエンドの後のお話だ。幸せなことはいつか終わり、緩やかにバットエンドに近づいていく。