寡黙な海と魔女
午前二時二十分。
海の堤防の近くにある公衆電話が静かに鳴る。
僕は受話器を取り、耳に押し当てる。
受話器の向こうから、少し低めでざらついた、神経質な女の子の声が聞こえる。
「もしもし」
僕が生きている意味。それはこれだけしかない。
*
偶然だった。何もかもめんどくさくなって、夜にそっと、海に向かった。夏の終わりの夜は、一冊しか入っていない本棚みたいにあまりにも空っぽだ。自分勝手に光る街灯は、自分勝手すぎて夜に溶け込んでしまっている。
海は静かだった。ひいては押し寄せてくる。ただ、それだけ。堤防に腰を掛け、空を見た。夏が全部持って行った空は、鋭く先がとがっていて、星が静かに輝いている。
何でもないようなことだった。いじめられたとか、身内に不幸があったわけでもない。ただ何となく生きずらい。朝起きたら雨だったとか、夕方に宅配便が来たとか。理由にもならない日常で、僕はどうしようもなく死に恋い焦がれる。あるいは、安直な幸せと重ねているのか。
僕はずれてしまっているのだなと思う。決定的にずれていたらよかった。そうしたらむきになって、積極的に生きられたかもしれない。自分にしかわからないような些細なずれは、透明な壁となって立ちはだかる。向こう側の声はくぐもり、姿はぼやける。
世界はあまりにもシンプルだった。見えないルールと知らない常識を掴まなくてはならなかった。この世界はシンプルすぎて難しい。
電話が鳴った。静かに、正しく、そっと僕に寄り添った。腰を上げ、音の鳴るほうに歩く。規則正しく鳴る機械音は、小さいころ隣で寝てくれた母のように暖かかった。
夜にただずむひとりぼっちの公衆電話は、歌っているように見えた。
扉を開け、受話器に手をかける。ひっそりとした冷たさが、手のひらにじんわりと広がる。
誰からだろう。
何よりも先に思ったことはそれだった。本当だったら、なぜ公衆電話にかかるのかとか、なぜこんな時間にとか、故障したのかなと思わなければならなかったのだろう。
それでも僕は、この受話器の向こうに人がいて、その人は僕と同じだろうと信じて疑えなかった。
受話器を手に取り、耳に押し当てる。
受話器の向こうで小さく息を吸い込む音がした。
「もしもし」
脳の中にするりと入ってきた声は、少し低い女の子の声だった。柔らかさを含んでいるものの、神経質さが感じられる声だ。
「もしもし。こちらは静かな海が見える公衆電話です」
何となく、この寡黙な海を電話の相手に伝えたかった。ひいては押し返す、美しく、つまらないこの海を誰かに教えてやりたかった。
「こちらは高すぎるビルが立ち並ぶ街の公衆電話です」
電話の相手がくすり、と笑いながら言う。
大きすぎるビルの隙間にある公衆電話を思い浮かべて、小さな子がうずくまっている様子を連想した。
それはあまりにも悲しく、残酷な連想だった。
「どうやって電話をしてるの」
「私は魔女だから、魔法が使えるの」
そうか。魔法なら仕方がない。
僕は魔女に会ったこともないし、魔法なんて見たこともないけれど、その答えがこのシンプルすぎる世界には合っている気がした。
「どうしてここに電話をかけたの」
「電話の相手を私と似ている人にしたの。それが今回、たまたま海の近くにいた君だっただけ」
なるほど。僕の勘は間違っていなかったらしい。
「今回ということは、過去にもこうやって誰かに連絡を取ったことがあるの」
「いいえ。今回が初めて」
どうやらこの魔女は、初めてこうして電話をかけたらしい。たまたま海を見に来た僕に、気まぐれにかけられたこの電話は、劇的でも何でもない。何となくが折り重なってできた、この世界の小さなミスだ。シンプルすぎるために間違いを犯し、本来繋がることのない欠落品同士を繋ぎとめてしまった。
僕と似ている。それはほんの少し話しただけでも分かった。この魔女の声は澄んでいて、姿ははっきりしている。壁の向こう側ではない。ずっと近くにいる存在だ。
「ねえ、魔女。君の名前は何」
「あお。君の名前は何」
「すみ」
あお。その名前はきれいすぎて人を寄せ付けなさそうだ。そしてそれは、この欠落している彼女には似合いすぎるほど合っていた。
「すみ。これから毎日この時間のこの場所でお話をしよう。うれしかったこと。悲しかったこと。怒ったこと。私に話して。私も君に話すから」
「そうすることの意味はなんだろう」
「競おう。どちらがより長く生きられるか。お互いのつまらない人生を分け合って、それでもみっともなく生き続けたほうは、きっとずれてなんかいないでしょう」
死を最も安易な休息場とみている僕には、魅力的な提案だった。死んでしまったら心地よく、生き続けたら普通になる。
どちらに転んでも救われる。どうやら僕は、意図せずに動くことができたようだ。
「素敵だ。僕は君よりずっと生きて見せるよ。これでもここまで生きてきたんだ」
「決まり。私は君の何倍も生きるよ。だからね、君がこの勝負を途中で投げ出すことは許されない。君は私の勝ちを見届けるの。明日もまた、電話をかけるね。さようなら」
それきり、あおの心地いい低い声は聞こえてこなかった。
受話器を置き、扉を開ける。あいかわらず海は静かで、街灯は自分勝手だ。まだ暗い夏の終わりの夜は、いつもよりは柔らかく見えた。
家に戻り、ベットに入ろう。あおがあくびをするような、退屈な日々を僕は送らなければならない。