《魔研》-Claymore-
カナシが重い瞼を開くと、目覚めを祝福するかのように雀が鳴いた。
思考にかかる靄を払うように首を振ると、傍でアヤメが寝ている事に気付く。
なぜだ、とカナシは一瞬だけ狼狽した。
まさか疲れのあまり、禁忌を犯したなどと言うのか。
ありえない。だがそれ以外では現状が把握できない。
就寝前の記憶が曖昧なまま硬直していると、アヤメが寝返りを打った。
思わず体を震わせたカナシだったが、妹の寝顔を見てようやく確かな記憶がよみがえった。
アヤメの頬を、ひと筋の涙が伝っていたのだ。
「……ごめんな」
カナシがそれを指で拭うと、アヤメは安心したように微笑んだ。
――幸せな夢を見てくれているのだろうか。
その問いの答えを聞きたかったが、彼はこれからフォルセティへ出勤しなくてはならない。
昨晩の言葉から騙しているようで気が引けたが、カナシは体を起こして立ち上がった。
アヤメに布団をかけ直して部屋を出れば、静かな朝を一人で過ごして、身支度を整える。
洗濯機に入れておいた制服を取り出して身に纏い、彼は気を引き締めて玄関へと向かう。
そこで、カナシはふと立ち止まった。
忘れ物があったわけではない。持ち物はリングフォンがあればある程度は事足りるからだ。
では、なぜか。
「……『アヤメへ』」
カナシはリングフォンの録音機能を起動すると、妹への伝言を語り始めた。
昨晩ああ言ったとはいえ、何も言わずに家を出るのはやはり気が引けたのだ。
もう二度と帰ってこないわけでもないのに、カナシはそれでもしなくてはならない気がしていた。
たとえアヤメが望んでいなくとも、自分の不安を解消するために。
「『これからフォルセティに行く。夜にはちゃんと帰るから、留守番をしていてくれ。なるべく外には出るなよ』」
それから、と続けようとして、カナシは言葉に詰まった。
思いのほか伝えたいことが多く、何を言えばいいのか分からなくなっていたのだ。
彼が沈黙している間にも、空気のざらつきが録音されていく。
「『じゃあ』」掠れた声で発した、一言。「『行ってくるよ』」
◇ ◇
フォルセティに向けて家を出たはずのカナシはしかし、埼玉の市営バスに揺られていた。
それというのも、彼が電車に乗ろうとした瞬間に、城崎シュンからのメールが届いたからだ。
『予定前倒し』というタイトルのそれを見るなり、カナシは訝しみつつも承諾し、こうして彼に指示された場所へと向かっているのである。
《魔研》。
21世紀科学革命のもたらした新たな技術を、日本で最大に活かし広めた、理化学研究所の通称である。
マギアウイルスを始めとする魔術師の研究も行っていることから、フォルセティの隊員はしばしばそう呼ぶ。
ウェルフ・バートルとその娘アンジェラが理研に研究データの大半をもたらしたことから、理研はそれを基にさらに発展。
規模を拡大し、比例するようにおのずと発言力を強めた。
《「発展を止めてやる」と脅せば国も黙る》という噂が冗談めいて言われることがあるが、カナシは過去の事件からそれが真実であると知っている。
ゆえに彼はこの組織自体を、あまり好んではいなかった。
一方で、政府同様に力強い味方であることは理解していた。
同時に、敵になれば一瞬で蹴散らされてしまうことも。
「はぁ」そんな場所へ赴くカナシは、いつもより重い溜息をつく。
シュンも、もっと早く言ってくれればいいのに――心の中で何度も愚痴を繰り返す。
魔研前のバス停で降りたカナシは、わずかな不快感に顔をゆがめた。
涼しかった朝の空気も、残暑の熱に侵されつつあった。
「来たね、カナシ」
しばらく歩いて理研のエントランスに着くと、そこには既にメールの送り主がいた。
例の箱を嫌な顔一つせず抱えている様を見ると、とても中身を知っているようには見えない。
想像するだけでも、カナシの気分は害される。
単純に魔術師への興味が強いだけだとしても、カナシは彼から異常さが漏れ出している気がしている。
彼の《過去》やその《体》を考えれば、無理もないのかも知れないが――。
「つくづくお前とフォルセティのマイペースさに呆れてるよ」
それはどうも、と褒めてもいないのに嬉しそうに笑うシュン。
急な仕事にも応えるのがフォルセティでありその隊員なのだから、文句を言うのは褒められたことではない。
だとしても、勤め人なら誰しも急な予定の変更は好まないはずだ。
そんなカナシの不満を同じく持っているのか定かではないが、シュンは自分についてくるよう、動作で促した。
「それじゃあ行こう。事前に許可はもらってる」
「相変わらず準備はいいんだな」
「それしかできないからね」
嫌味も通じない幼馴染に、カナシは辟易とする。
そうして馴染みの会話をしながらもカナシはシュンと魔研の中に入ると、天井に備えられた空調による適度な涼しさが、彼らを包んだ。
清潔さがうかがえる白い内観。大きな窓の傍には、サボテンのような見慣れない観葉植物が置かれている。
加えて、立体映像画面による掲示板や看板もある。
そのほかにも、反重力でわずかに浮きながら施設内を徘徊する有機的な曲線をもつ案内ロボットや、キャタピラを回して客を待つ飲料の移動販売機。
近未来を現在に呼び寄せる、その拠点に相応しい世界が広がっていた。
――まあ、外面にはこれで十分だわな。
「フォルセティの方ですね、お話は伺っております。こちら、許可証になります」
受付の女性が張り付けたような笑みで二人に語り掛けると、立体映像で許可証をダウンロードするための、バーコードのようなものを表示した。
二人がリングフォンでそれを読み込むと、立体映像の画面右下に理研のマークが表示された。
「確認いたしました。どうぞ、ゆっくり見学なさってください」
「どうも、お姉さん」
シュンは愛想笑いなのか判別しづらい笑みを浮かべて、目的の場所へと歩き出す。
一方でカナシは「こいつの考えることは推し測るだけ無駄だ」と再確認し、彼についていく。
途中で何度か「持とうか」とカナシが提案したが、シュンは頑なともいえる態度でそれを断った。
シュンにも確固たるものがあるのだろうか。
カナシはしばし考えてみたが、いつ思い返しても飄々した態度の彼の真意など分かるはずもなく。
また、直前まで無駄だと思っていたことをしてしまうあたり、カナシは自分より友人を優先してしまう癖があるのだが――
自覚があるとは、言い難い。
「ここだね」
ふとシュンが止まると、やや呆けていたカナシは慌てて立ち止まる。
《魔術師研究室》と、ほかに比べて短くまた研究内容がアバウトなプレートのついた研究室。
未知の部分が多いため、そう表記せざるを得ないのだろう。
何度もここを訪れている二人は、当の昔に慣れているが。
「朝早くに失礼します」とカナシがインターホンにリングフォンをかざすと、室内から慌てたような物音が響いてきた。
「はいはい! 入っていいわよ!」
声量を調節し忘れているのか、やけに大きな返事が二人を出迎えた。
またか、と二人は呆れながらも、開かれた研究室の扉から室内へと入る。
「高橋さん、また夜更かしですか」
「こんなに早く来るとは思ってなかったんだもの……」
簡易洗面台で顔を洗って、寝癖を直す若い女性。
彼女の名は、高橋美佳子。カナシがフォルセティに入ってから、最も交流のあるであろう人間――幼馴染のシュンが人間かと言えば、あながち間違いでもないが、正しくもない――である。
ともかく、カナシの中で高橋は《まともな人間》に分類されている。
シュン同様に魔術師への研究意欲が強いが、同じ人間として接する数少ない存在だ。
ただ、いくらか間の抜けているところがあるのだが。
「それで、目ン玉が届くって聞いてたけど、それ?」
タオルで顔をふく高橋にシュンは返事をして、比較的綺麗な机の上に箱を置く。
ほかの机は、研究器材などで散らかっているようにしか見えない。
彼女がそれを開けると、うげ、と見るからに嫌そうな顔をした。
「……ほんとに沢山ねえ」
「高橋さん、グロいのダメでしたっけ」
「やぁねえ静葉くん。蟻は一匹なら大したことないけど、ワラワラしてたら気持ち悪いでしょ。アレよアレ」
蟻と眼球ではまた違う気がするのだが。
カナシは賛同すればいいのか分からず、乾いた笑いを返した。
「そういえば、高橋さんがこれを解析するんじゃないんですか?」
「まあ、私は所詮下っ端研究員だしねえ。いつも通りキミらの相手をするように言われてる。さっそくもう一つの話に移ろうじゃない」
湯気の上るブラックコーヒーを啜って、高橋さんがソファに座る。
彼女に促されて、二人は彼女の反対に座ることとなった。
「では、単刀直入に。マギアウイルスが盗られたとのことですが」
「本当らしいね。なんせ主任の研究だから、私もよくわかんなくってね」
何の遠慮もないシュンに、ぼりぼりと頭を掻く高橋。
カナシが急きょ魔研へ向かうこととなった要因が、このマギアウイルスのサンプルが盗難された事件である。
「盗られたのは昨晩。佐祐主任は侵入者に脅されてマギアウイルスを盗られたらしいの。……あ、私はほんとに何も知らなかいからね?」
「まあ少なくとも、俺たちはある程度信用してますよ」
そりゃあどうも、と高橋は安堵しながら苦労の絶えない笑みを浮かべる。
彼らは若くとも警察なのだから、警戒されていることをしっかりと感じているのだろう。
「それで、佐祐主任は僕らに連絡したわけですか」
「どうせ警察に連絡しても、感染したくないとか言ってダダこねるんでしょ?」
「でしょうね。賢明な判断です」
「このタイミングの犯行となると、ただの泥棒ってわけじゃなさそうだけど……」
警察への愚痴を言う二人をよそに、カナシは状況分析を始めていた。
だが、幾度となく同じ単語が彼の思考を妨げる。
「《ラプラス》……?」
「あー、例の魔術師嫌いの犯罪集団ね。でも魔術師が嫌いなのに、魔術師増やすモノ持ってってどうするのかしら」
「仮説ではありますが、また少しずつ動きを見せているようです。それに奴らは、俺たちの常識では測ることはできません」
「魔術師を増やして、殺すことを目的とする、なんていう可能性は無きにしも非ず、ですね」
「気に入らない人物を魔術師化して……っていうなら、十分に考えられるわね」
皆が皆、それぞれに思索に集中する体勢をとって唸り始める。
「って、まあその辺の話は追い追いね。とりあえず魔研は自由に出入りしてくれていいから、宜しく頼むわね」
私はあんまり関係ないけど。高橋はぺろっと舌を出して、小声で付け加えた。
「もちろん、できる限りのことはさせていただきますよ。それで僕は、《上》からもう一つお使いを頼まれているのですが」
「なにかしら」
「この場で遺伝子検査を行って、データの提供をお願いしたいのです。頼まれてくれますか」
ポーカーフェイスか否か、判別しづらい笑みを崩さぬまま、シュンは提案する。
高橋はと言えば、仕方ないと言いたげに溜息を吐いた。
「魔術師の遺伝子ってぐっちゃぐちゃで面倒なのよねえ。城崎くんが手伝ってくれるならいいわよ」
「ええ、構いません。早速始めましょう」
シュンと高橋はロッカーから白衣や手袋、ゴーグルのようなものを慣れた手つきで装備し、箱へと向かった。
二人のように専門知識のかけらもないカナシはというと、高橋の許可を得てコーヒーを飲みながら、リングフォンで今朝のニュースを確認していた。
「はい、次はこれお願いします」
「うげぇ、転がすのやめてよ」
後ろから物騒な会話が聞こえてくるたびに、カナシの頭の中でグロテスクでシュールな映像が否応なしに流れる。
――いかん、気が散ってる。
彼は頭を振って記事に集中し直し、気になるものがないかを徹底的に調べ上げていく。
「うわあ、結構な事しますねえ」
「どうせ持ち主には戻らないんだもの。怒られたらそりゃ作ってあげるけど」
だが、こんな会話が延々と続くのでは集中などできたものではない。
カナシは仕方なく、データの整理を手伝って逐一警察へと送ることにした。
そうして、小一時間ほど後。
カナシのリングフォンに警察からデータ照合の結果が届き、三人に予想通りと言える事実を報せた。
「全員、数週間前から行方不明だとさ」
そう言いながらデータを閲覧していると、カナシはある事に気付く。
送られてきたのは、証明写真の添付された個人情報がまとめられたデータであった。
しかしそのいずれにも、カナシと杉野が昨晩襲われた車両の運転手がいなかったのだ。
「……まずは、聞き込みだな」
無意識的なカナシの呟きに、シュンは黙って首肯した。